心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

そもそもの学校の意義とはなんだろう 〜体罰は是か非か?〜 No.1

youtu.be

 

卒園時、各校区に振り割される時も、また入学式の時も、とうの子どもは訳も分からないままに、学校制度に馴染むための工程を進んで行きます。かつてのみやすけ自身もそうだったように、大人からは学校に行きたいか、行きたくないかの明瞭な説明も、一切無しに、全ての子どもが入学させられる訳ですよね。だから、学校に合わない子どもが出てくる事、それ自体は必然的な訳なのですよ。

 

子どもとの合意も何も無く、ただエスカレーターに乗るように通わされる訳ですからね。だからそこで足をすくめたり、拒否感情が芽生えるのはしょうがない側面もあるわけです。子どもは意味も無く反抗するのではありませんね。その問題行動には、何かしらの動機があるわけです。それは単なる若気の至りなのではありません。子どもには子どもなりのロジックと感情があります。彼らも人間ですから当たり前なのです。そのような背景を忘れたような大人が、まったく言う事を聞かない子どもが居て困っていると言う。だから言うことを聞かすためには、体罰は必要だと。そう言うわけなのです。

 

しかし、根っから学校に合わないような子どもが、教師の言う事を聞かないのは、至極当前です。なぜなら、はなから行きたくて登校してる訳じゃないからです。これは入学時に学校に行くか行かないかの選択権を一切与えず、一方的に登校させたのが第一の理由でしょう。だからそういう子どもが言う事を聞かないというのは、その子にとってのまっとうな意思表明なのだという訳です。このように思う事から、子どもに対して体罰をする、またはしても良いという風潮に、みやすけは疑問を投げかけようと思っています。

 

よく大人の方は、子どもは嫌でも学校には行かなければならない、ズル休みをしてはいけない、みんな我慢してるんだからと言いますよね。しかし、言うこと聞かなければ体罰やらなんやらするぞ、と子どもに何かとどやしつける、とうの大人の側も、働きたくもない職場は、さっさと見切りをつけるでしょう。嫌なことがあればすぐに逃げる、それが大人の世界なのです。そういう風にして大人たちは、普段逃げたりとか、ズルをしてる。そのクセ彼ら大人は、やたらと子どもに忍耐を押し付ける。はて、彼らの言う忍耐とはなんなのでしょうか?

 

その場所の居心地が悪けりゃ、居心地のイイ場所に移動する。これは動物の本能です。それをミスミスとやってのけるのが大人なのに、子どもには忍耐を強要する。これでは教育現場が狂うのは、当たり前です。まず大人が逃げ惑っている状況を、どう子どもに納得のいく説明ができるのか、これが荒れた教育現場を復活させる、一つの肝ではないでしょうか?

 

よって荒れた教室の秩序を回復するためには、普段の大人のズルを子どもに理解させることが、第一の近道なのだと思います。子どもは意外に、普段の大人の行動を正確に把握しているものです。だから子どもの感性を侮ってはいけません。子どもを本気で納得させるためには、まず大人側がその忍耐の鑑にならなければなりません。ただ自分の身だけを守るような大人に、子どもの瞳が輝くことは、まずありえません。

 

それに巷のコメンテーターたちは、学校の問題において、子どもたちの問題行動に関して、何かと心理学的な要因を貼り合わせて、ワラワラと語ったような気になっています。が、子どもが問題行動を起こすのも、単に、学校がつまらないか何かで、根本的に学校と肌が合わない、それだけなのだと思います。

 

しかしとうの大人であれば、会社に所属する場合でも、それは契約なので、嫌な事があればさっさと打ち切ろうとしますね。嫌だったら逃げる、それが大人になって通用する手段です。ではなぜ、それが子どもには許されないのか? 子どもに叱咤する大人は、無理やり言うことを聞かせようと、体罰を振るおうとしますね。でも、それと同じ事を大人がされたらどうでしょう? それを知った適当なライターがこれは人権問題だ、社会問題だと警告を発し回りますよね。仮にそれに火が着けば、社会総体の大問題扱いなんですね。しかしそれと同等の事が子どもになされても、その場合は、却って子ども本人の問題にされてしまう訳です。これは明らかにおかしいですよね。

 

「子どもが従わない、それは何故だろう? どうすれば従わせる事が出来るのか? そうだ体罰だ!」大抵の大人は、そう思う訳ですが、では、大人に対してこれと全く同じ事を行なえば、どうでしょうか? つまり出社を拒否したり、仕事を怠けているから、ムチで引っ叩いて体罰を与えよう。もしそう実際に敢行されればどうなるでしょうか? そうですよね、即メディアは、深刻な社会問題としてドラマ化して、その体罰をした人物は、各方面からバッシングされるでしょう。

 

しかし現在のように子どもになんの発言権も、決定権も与えず、ただ校則に従わせる。従わなければ、体罰という拳が降ってくる。子どもたちにこのように振るう行為、それこそは、動物を意のままに調教するのと基本的には同じ手法だと、みやすけは思っています。こちらの論理に従わないからムチを打つ、体罰とは半ばこういう理屈で行われていましたね。

 

現代の教育現場では、子どもが荒れているといわれて久しくなりました。しかしとうの教師はヘトヘトになってその場から逃げてしまいます。おかしいですよね。子どもが同じ行動に出れば、子どもの方が問題とされ、態度を矯正されるのに対して、教師の方は、これは社会問題だからと許される。共にまったく同じ行動でも、大人だからという理由で許されているのです。言うこと聞かん子どもを相手にするのはしんどいね、そう周りの同僚から慰撫される訳です。

 

そういう風に子どもを扱うこと自体、何らかの人権の侵害に抵触するのではないでしょうか。子どもへの一方的なヘイト、そのようにみやすけには見えてしまいます。教師はどんなに逃げても良いが、子どもは逃げてはいけない。子どもがしんどかったら教師は逃げても良いけど、しんどい教師からは、子どもは逃げてはダメだという訳です。このような歪みこそが、教育現場のしんどさを、更に歪曲化させているのでないでしょうか?

 

しかし巷には、あの時に体罰があったから今の自分が居るんだ、むしろあの時シバいてもらって大変に喜んでいると、このような事を言う大人がいますよね。でも、現代で問題になっている体罰とは、大怪我を負うものであったり、精神的に追い詰めるようなものまで、罰の範疇をはるかに超えるものが主に問題になっているのです。愛のために子どもは怪我をしても良い、それは大人のエゴです。そういう風にした方が、大人は楽だから、そうするのです。怪我を負わすこと、決してそれは愛ではありません、むしろ教えの怠慢なのです。

 

それでも、中には子どもの方が悪智慧を働かせて、教師を嘲笑っているというような、教師の話もあるようです。でも、よく考えてみましょう。もし仮にその子どもにとって学校が、教師をからかう事でしか居場所の意義を見出せていないのだとすれば、それは、子ども本人の過失よりかも、その「子どもにとっての学校問題」がある事になる訳ですよね。

 

それを放置した上で体罰を容認する。そうした所で、子どもの側の憤懣は、より陰湿な形で、どこかで噴出せざるをえなくなるでしょう。もしかしたら現代のイジメの構造も、このような歪みからの派生なのではないかと、みやすけは推測しています。この場合の体罰の容認とは、問題の核心に蓋をする形にとなるでしよう。

 

叩けば直る、こういう考えはとても危険が孕んでいます。子どもためと振り下ろす拳、それは子どもの事を想うのではなく、大人が楽したいがためのもののように見えてしまいます。「叩けば楽だから」これが体罰が問題であるという問題の核心をなしている、そんな気がしています。ただ楽したい、これではいつまで経っても人に教えを与える、良き教育者にはなれないままでしょう。

芸術と政治の関係について 〜フジロックSEALDs出演の批判によせて〜

そもそも音楽は政治的なものと密接なんだから、批判するのはおかしいとか、はたまた単なるSEALDs嫌いでしょ? とか色々まとめてる人がいるようですね。で、この議論の一連の流れを追って見ていますと、そうえいばかつて、プロレタリア文学と言われた小林多喜二の作品が、その色濃い政治的ニュアンスの為に、当時の論壇から、純粋な文学では無いと批判されていたのを、ふと思い出しました。

 

特に、Twitterでよくあがるように、政治と芸術は確かに不可分な関係を持っています。が、その作品が実際に、政治的意義を持って読者を、政治的に感化するものなのか、またそれでも純粋に文学として愉しまれるものなのかは全く違いますよね。例え、それらの作品が政治と不可分な関係を持ってしても、それが読者に、実際にどう伝わるのかはまた別の問題なのです。そこには厳然とした、個人の選り好みが反映されています。そう、政治的扇動に陶酔感を充したいのか、または、純粋な音楽を楽しみたいのか、というものにです。では、今回のフジロックイベントでは、そのどちらなのどうでしょうか?

 

例えば今回の話題で考えてみますと、音楽と政治はかつてから密接な関係を結んできたわけだから云々という批判も、一見当然の見解のように思われます。しかし、小林多喜二の文学のように、芸術と政治を混同したような作風が批判されるのは、昔からありました。

 

しかしその一方で、政治と芸術は不可分な関係だという人たちがいる。でも、そこに密接な関係があったからといって、それらが素直に受け入れられていたわけじゃない。だから小林多喜二の文学に、わざわざプロレタリア文学とまで名付けたわけです。つまり、これは政治的文学ですと自ら呼称して、純文学からわざわざ分離したのです。つまりこれは事実上の政治と芸術の棲み分けなのです。

 

このような歴史的な出来事にこそ、そこには政治的に扇動をしたいという書き手の思惑と、またその扇動に陶酔したいとする読者、また、それでも政治的なものとかではなくて、純粋な文学をたしなみたいとする読者が、少なくてもこれらの手で二分していた、という事実が現れているわけです。だからこの手の当然のように見える見解も、それは一面的なものでしかないわけです。

 

なので、今回のフジロックでのSEALDs出演の批判も、そういうかつての時代の風紀で判断すれば、あながち頓珍漢なものでもない事が解りますね。「音楽に政治を持ち込むな」これに似たような批判は昔からありました。

 

そんな人たちが言う、「芸術と政治は不可分なもの」これはその通りなのですが、その言葉だけで、まるで一個の方程式のようにして、あらゆる物事に当てはめようとするのは、その背後にある様々な歴史的な風紀を逃してしまう事になるでしょう。芸術と政治が不可分なものであるなら、そこに付随している批判もまた不可分なものです。つまり正しくは、「芸術と政治は不可分で、またそこに対する批判もまた不可分なものである」としなければならないでしょう。

 

また、その団体の扇動がいくら政治的に正当であっても、浴びる批判の度合いには相関しません。それがいくら正しくても、嫌いなものは嫌いなのです。そもそもこのような批判とは、「政治的」と冠が付いている事の拒絶なのです。つまり「政治的なもの」への嫌悪なのです。だからいくら時代の寵児といわれている正当な政治団体でも、そこに政治的という冠が付いている限り、それへの批判というのは、ある意味、歴史的な風紀の元に正当なものなのです。

 

特に音楽を純粋に楽しみたいとする人達にすれば、そのような場で政治的扇動をする団体が依拠するのは、さぞかし困惑するでしょう。音楽というのはいわば雰囲気を楽しむものです。だから、そこに少しでも異物めいたものを感じるのであれば、それは音楽である所以を失うことになるのでしょう。

 

それならいっそうの事、政治的音楽イベントと、音楽イベントとを棲み分けるのは如何でしょう? なんでもよそ様のコミュニティーにヅカヅカと押し寄せてどんちゃん騒ぎをするのは、そもそも礼儀ではありませんね。だからみやすけは、フジロックのような音楽イベントでも、政治的芸術と、純粋な芸術の棲み分けを提案します。それはかつて、小林多喜二の小説が、プロレタリア文学と名付けられて初めて、彼の文学の居場所を確保できたのと同じように。

大学の英語公用語化は、なぜ問題なのか?

本稿は、大幅な改訂をしたため、以下のアドレスにお引越ししました。よろしくお願いします。

 

グローバリズムを生き残る 〜英語公用語化は、なぜ問題なのか? No.1

http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2016/10/15/075332

 

日本の誇りとしての漢字熟語 〜英語公用語化は、なぜ問題なのか?No.2

http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2016/10/15/075954

「皮膚」を脱ぐ為の表現行為 No.3

思想
編集
【「皮膚」を脱ぐための表現行為】は、大幅な改訂をしました。
なので、以下のアドレスにお引越しです。
よろしくお願いします。    

                ブログ管理者 みやすけ


「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part1
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/120933

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part2
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/121234

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part3
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/121441

「皮膚」を脱ぐ為の表現行為 No.2

【「皮膚」を脱ぐための表現行為】は、大幅な改訂をしました。
なので、以下のアドレスにお引越しです。
よろしくお願いします。    

                ブログ管理者 みやすけ


「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part1
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/120933

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part2
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/121234

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part3
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/121441

「皮膚」を脱ぐ為の表現行為 No.1

【「皮膚」を脱ぐための表現行為】は、大幅な改訂をしました。
なので、以下のアドレスにお引越しです。
よろしくお願いします。    

                ブログ管理者 みやすけ


「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part1
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/120933

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part2
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/121234

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part3
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/121441

サービスはタダという意識について

日本人は、ちと働き過ぎなんじゃないか? そう周りの国からよく言われているみたいですね。でも、あくせく働く割にはなんだか景気もアレだし、最近は国際的な経済ランクの方も? みたいな事もありました。こんなにみんなが働いてるのになんで? その原因を探ろうとする究明はいろんな方面から仮説が立てられています。

 

その原因を、ニートが増えたからだとか、引きこもり、やれ専業主婦だのと、なにかと無生産の人たちを揶揄するような言葉も多くなっていますね。そして女性活躍推進とも、ときの政府からも言われるまでになりました。景気の低迷もみんなが働けばなんとかなる。だから働かないでダラダラしてる人はダメはなんだ。働かなくちゃ! と、なんだか日本中がそういう切羽詰まった声で窮屈になってきています。

 

しかし言っても生産している人の方が圧倒的多数なんですね。大抵の人は働いてる。世間から尻を叩かれるそんな無生産な人は極々少数な割合なんです。ではその圧倒的な多数の人々のその動員にも関わらず、なぜいつまで経っても景気が悪いと言われるのでしょうか? それは、みんながあくせくと働き過ぎる割には、ムダが多過ぎるのではないかというのが、みやすけの感想なんですね。

 

みやすけはかつて喫茶店でウェイターをやっていました。で、そこのオーナーからは、勤務時間内は、とにかくヒマな時間は無くすように言われていました。なのでお客さんが少ない時でも、すでに綺麗なカウンターとかを、ひたすら布巾で磨いていました。

 

仕事というのは、大まかにいえば物やお金を生産し、それらをやり取りする事です。かつて働いていた喫茶店にとっての仕事とは、お客さんに食べ物を注文して頂き、それに応じて料理を作り、その出来立てをみやすけがお客さんに運ぶ事なんですね。その一連の中で、お金のやり取りが生まれてお店に利益が入ります。

 

でも単に料理を作るだけでは味気ないので、食物の素材や味を凝ったものにしたりしますよね。また料理を運ぶ方も、それだけでは、なんだか機械的なので、笑顔を作ったり、声も優しくトーンを落として対応したりします。単なるお金のやり取りを味気なくさせないようにするために、このようにお店は、お客さんのために色々と嗜好を凝らします。これをサービスと言うんですね。

 

で、とりわけ日本の場合は、このような気配りや嗜好は、実質タダでしてくれます。サービスだからタダなんでしょ? 当たり前だよね。これが実質的な日本人の合意なんですね。言ってもすべてはお客さまありきの商売です。だからすこしでもお客さまに満足してまた来店して頂くために、お店側は、精魂込めてサービスをするのです。しかもその料金はタダです。せっかくのおもてなしにお金を払えというのは厚かましい、そう日本人は考えてしまうのでしょうか? では、外国ではどうでしょうか? 向こうのウェイターさんウェイトレスさんは、お客さんに良い接客だと認められたら、お小遣いをくれたりするらしいですね。そう俗にいうチップというものですね。つまり外国ではサービスはタダじゃないんです。それに似合ったお金をくれるわけです。

 

このような、日本のようにサービスはタダなんでしょ? おもてなしにお金を払えとは厚かましいと鼻を高く括るのか、また外国のように、サービスしてくれたらそれに似合うチップを渡すべきでしょ? と思うのか、というこの意識の差こそ、仕事がムダになるのか、また生産的になるのかの分かれ道になるんだと、みやすけは思うのです。

 

今でもここ日本では、溢れんばかりのサービスがあります。大抵のお店では、優しくきめ細やかな接客をしてくれます。そんな日本では、サービスをする事こそが仕事なんですね。サービスしてくれない店は、ケチだと陰口を叩かれます。でもそのサービスにはお金のやり取りはありません。お店に感謝する割には、その対価を渡そうとはしないのです。なぜなら、そうしてもらって当たり前だと思っているからです。でも愛だけじゃお店は経営できませんね。

 

よく日本人は働き過ぎだと言われています。でも仕事とは、本来はとても単純な作業なんですね。その単純な作業というものも、数的には、実はあまり多くはないのです。喫茶店の仕事も、単に注文に応えてそれに応じるだけなんです。オーダー訊いて、それを作って運んで、食べ終わったら会計を済まして、気分良く帰って頂く、それだけですよね。でも仕事をするというだけではなんだか味気ないので、大抵のお店は、めいいっぱいのサービスをして、お客さんにおもてなしをしようとします。

 

よく言われる日本人の働き過ぎとは、このようなサービスの過剰さにこそ、その本質があるような気がします。それも大抵のサービスはタダなんです。それでは気疲れだけが残りますよね。しかも儲からない。そのような気疲れと儲からなさこそが、景気が低迷したままの原因なのではないか? そうみやすけは感じます。タダのサービスばかりが膨大になり、そこには生産が生まれていないのです。

 

なので、今の日本人の仕事ぶりは、実質的には無給と変わらないのかも知れません。日本人は働き過ぎだと、よく言われるのですが、その働き過ぎる仕事の内訳をよく見てみますと、実は単純な仕事が多過ぎるのではなくて、実質的には、無給のサービスが多過ぎるのではないかと思うんですね。

 

これは一面的なものの見方なのですが、とどのつまりここの部分にこそ、みんなが毎日毎日あくせくと働けども、日本の経済が、いつまで経っても儲からないカラクリがあるのではないかと、みやすけは思ってしまいます。現状のようにサービスなんてタダでしてくれるもんでしょ? 当たり前だよね。という意識が、みんな変わらない限り、日本の経済はいつまでたっても儲からない。また働いている人も、なんの利益も発生しないサービスに追われているだけで、なんだか忙しい割には、給料は低いままなんです。このように今の日本では、こんなサービスだらけの世の中の割には、なんの対価も貰えずにいる。だから働くだけ働くけども、その苦労もお金にはならずみんなが疲弊しているのかも知れません。