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心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

グローバリズムを生き残る 〜英語公用語化は、なぜ問題なのか? No.1


昨今、大学や企業、そしてアカデミックな研究施設での英語公用語化の流れが起きつつある。グローバリゼーションの流行が世界のあらゆる機関に浸透して行く中で、日本国の内部にも徐々にではあるが、影響しつつある。

 

今でも電車に乗ると、英語教材を片手に、ぶつぶつと内容を復唱しているサラリーマンに出くわす事がある。あの楽天も、英語の公用語化に尽力しているらしい。グローバリゼーション、平たく言えば英語圏域の拡張と、市場主義の拡大は、良い効果を期待できるのとは裏腹に、それ相応の悪影響の方も、また懸念されなければならない状況を生み出して行くだろう。そのような影響は、英語圏以外の各国にも、これから深く侵食して行くだろうと予想される。

 

グローバリズムによって英語を話す人はぐっと増えて行くだろう。しかしそれは、英語を話す高級人材と、話せない下流の労働者という、さながら過去の貴族と平民、インテリジェントとイグノラントといった階級制の再来のようにも感じなくはない。英語圏域の拡張と権力の寡占は、これからこの世界が英語圏域にフラット化して行くという事である。

 

グローバリゼーションとは、広大な世界の可視化に伴って、個人の視野と可能性を拡げる善良な動向なのだと思われるだろう。しかしようは、国内の差別、格差などの社会問題も、つまり良いも悪いも同様の構造が世界中を通して均衡になって行くという事でもあるのだ。

 

ようは、拡張して行くのは個人の可能性もしかるに、同じ国の中の社会問題も、国境を超えて同様になるという事である。ことさら異言語の文化を吸収し、迎合して行かなければならない運命にあるような国にとっては、アイデンティティ・クライシスの問題も、また社会問題化して行くだろう。そのような国では、大抵教育を異言語で受けなければならいくらい、教育インフラが整っていないケースが多くあるように思う。

 

しかし、日本の場合は、幸いな事にそうではない。日本の国では、どのような難解な理論も、大抵は日本語の文献で学習する事ができる。日本は、外国のものを自国の言語に翻訳するという事をよくする。この翻訳の文化こそ、奥が深い歴史があるのだが、近代においてそのような翻訳の文化は、帝国主義から身を守るための、 知恵を授ける契機ともなった。

 

日本国においては、国外の文化を日本語に訳していなければ、戦争に負けていただろう。つまり、国外の文化を翻訳し、日本語化したという功績こそが、日本という国を存続させたという事なのだ。そして後世に、日本という国の持つポテンシャルを周囲の国に強烈にアピールするきかっけを作ったのだ。

 

それは結果的に、日本語という母語に誇りを持てた、という良い結果も生み出した。これまで世界に対して日本のブランド化を成功させてきたのは、決して、英語圏域に隷従してきたのでも、または英語という言語に一方的に迎合してきたからでもない。それは、日本語という母語の威信と確信が、過去の体験を通して、大きく確立され、自信を持って行使されてきたからだ。

 

また、国外の商品に日本語を記す事を可能にさせたのも、日本語の持つブランド力の他ないであろう。このように自国の母語に自信と誇りを持てる、これこそが本当の自国の持つ秘めたるパワーなのではないか。母語への威信は一国の活力に繋がる、それは、文化の魅力、はたまた経済の力でもそうである。グローバリゼーションによって、世界市場は活性化するだろうが、とどのつまりグローバリズムでの成功こそは、相手国と対等に渡り合える程の誇りを、母語を基軸に、強く確信出来ているという事の裏返しではないか。

 

経済的な自信は、誰よりも英語を話せるという優越感の中ではなく、なによりも母語を持っているという誇りの中にこそ、あるべきである。このような事は、過去、幾度の略奪と奪還を経てきた、歴史が証明している史実である。

 

それこそ、英語を話せるようになった事に優越を憶えるのではなく、日本語にこそ誇りを持つべきだという論の論拠である。学校教育での英語履修も大切だが、それに付随して、日本語という母語に誇りを感じる事のできる教育もまた必須であると、思われる。