心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

被災者にこそ、性欲を満たす為の支援が必要ではないか 〜熊本地震で思う事こと〜

被災地域への支援というと、食料とか衣服であるとか、最近では女性の生理用品の事とかも話題になってるみたいですね。でも、みやすけは一連の報道で、ふと疑問を感じました。じゃあ、被災地域の人たちって性欲はどうしてるの? と。

 

性欲とは人間の三大欲求といわれるもので、食欲、睡眠欲、そして性欲と並び称されるものなんですね。被災した地域には大量の救援物資が送られてきます。それは食べ物であったり、生活の必需品などらしいのです。が、その三大欲求の一つの柱である性欲に関する物資が救援されているという情報はまったくと言っていいほどに入ってきませんよね。では、そのデリケートな部分を、被災した方たちはどうしているのでしょうか?

 

もしかしたら被災地域に、アダルトグッズとかを救援してるNPOとかがあるのかもしれません。でも、その報道はありませんよね。特に被災地域で不足するものというのは、食料や衣服はもちろんの事です。そしてその事に関しては連日よく報道されていますよね。でも被災地域で、圧倒的に不足するのは、実は、アダルトコンテンツのような気がするのです。でもその事はメディアは折にも触れていません。そんな中で、救援物資により食欲や睡眠欲はある程度満たされても、性欲だけは満たす事が出来ていないのではないかと思います。

 

被災して家を失った人たちには、プライベートを確保するための個室はおろか、壁も無いと思います。そんな中で、性欲だけが人知れず溜まっていく。でも人の目があるので発散のしようがない。相談も出来ない。そんな中で、性欲をうまく発散出来ずにムクムクと、その欲求だけが膨れ上がっていく。想像しただけでも、とても恐ろしいです。

 

それに、人間の性欲というのは危機的状況の方が高まると聞きました。それを抑圧しながらも、何ヶ月も、ヘタをすれば何年間もの間、被災した人たちは耐えてるわけですよね。それと被災地域では、とりわけ性犯罪が多発するというような話も聞きます。その事を巷のライターは、被災地域では人間は変態化するというような事を書いていたりもします。でもよく考えてみれば、これは現実を名付けるだけの短絡的な切り捨てだと思います。そういうライターは、事実を書いているわけではないのです。恐怖と未知を煽っているだけです。それはライターがやってはダメな、現状の歪曲化です。

 

被災地域への支援は食料はもちろん、その生活にはそれなりの必需品もいります。でも、性欲をどう発散させるかという問題も、また深刻だと思います。それもたやすく他人に相談する事のできない内容なので、なおさら深刻なんだと思っています。

 

ではよりリアルな現状とはなんでしょうか? それは現地では、性欲をうまく発散させる場所やアダルトコンテンツが圧倒的に不足しているという事ではないでしょうか? このような実情こそが、一部の人を性犯罪に走らせる元凶なのではないか、みやすけはそう思いました。性欲の問題、これは男性だけではなく、女性もまた同じ悩みを持っている事でしょう。そして、このような現実が考えられるからこそ、被災者にアダルトコンテンツの支援は必要なんだと、みやすけは思っているのです。

犯罪を防ぐ為に大切なこと 〜犯罪を通して苦境から人を救う眼を持つこと〜

officerico.co.jp

 

前もって伝えておくが、みやすけは、犯罪者が、単に人権が守られるべき存在だからだとか、可哀想な存在だからだと擁護したいのではない。

 

よく巷の人々は、犯罪者は異常だから厳罰を死刑をみたいな、スローガンを掲げたがる。が、とうの犯罪者の過去を見てみると、凄惨なケースがとても多い。これはまぎれもない事実ではあるが、だからといって、どのような犯罪も許されるという事をここで言いたいのではない。しかし、犯罪に対して厳罰化されたとしよう、それで犯罪が減るだろうか。それは違うだろう。ただ、夕方のニュースで厳罰に処される犯罪者に対して「異常者!」とニヤける視聴者の姿があるだけだあろう。果たして本当にそれで良いのか、それが本稿での主張である。

 

よく世間では、犯罪が起きる度に、被害者側のポジションに立った犯罪者への応酬が、あちこちで繰り広げられている。そこでは犯罪者をとことんあざ笑い、侮蔑を浴びせかけている。しかしそこには醜い感情の応酬があるだけである。犯罪者に対して感情をぶつける、このような報復で本当に犯罪は減るのだろうか。

 

仮に、ある人間が凄惨な過去がきっかけとなり、犯罪を犯してしまったのなら、第三者である我々が眼を向けるべきなのは、そこの部分にこそある。みやすけはそう主張するだろう。しかし、いくら凄惨な現状に見舞われていても、全ての人が犯罪に手を染めてしまう事はない。それは正論である。が、現にそれが故に犯罪に手を染めてしまった現実がある限り、第三者の我々が、見つめなければならないのは、犯罪者のそうした凄惨な過去の方ではないのか。以下、さらに詳述をしてみよう。

 

「犯罪者には厳罰を!」そうした主張は、実際には犯罪の抑止ではなく、視聴する側のエゴを増長しているだけだと思われる。連日、テレビに放映される犯罪者。その彼らを異常者だと嗤い、エゴを満たしている、そういうとうの視聴者の姿こそ、本当の人間の醜態のように見える。それでも犯罪は、あってはならない事態だ。それこそ正論である。しかし、犯罪者のかつての凄惨な体験が、実際にそうさせているのなら、単に厳罰に処して、見捨てるだけではまるで意味がないだろう。後日、犯罪者の凄惨な過去が明らかになったとすれば、第三者である我々は、そこから学ばなければならないだろう。それは、かつての犯罪者と同じ境遇に置かれている人達が、まさに今、見えない場所で、存在しているという現実を。そしてそんな彼らにこそ、放映される犯罪者を通して、我々は眼を向け、救いの手を差し出さなければならないという事を。

 

犯罪者を嗤い、切り捨てる事はとても簡単だ。しかし、厳罰化で本当に犯罪が減り、世の中が平和になるのだろうか。仮に、犯罪者をあざ笑っても、そこには虚しい快楽しかない。それでは却って世の中は不健全になるだろう。そうした視聴者は、かつて犯罪者の置かれていた、凄惨な過去を見つめる事にこそ、本当の犯罪抑止に繋がる事を、よく知っておいて欲しいと思う。決して、単なる人権どうのこうのではない。それは凄惨な境遇に置かれている「他の存在を知る」という事である。

 

テレビで放映される犯罪者を嗤うその眼は、世の中に大勢存在しているだろう。むしろそのあざ笑う眼が、凄惨な状況に置かれている見えない他の存在に対して盲目になっている。このような犯罪者をあざ笑う視聴者の眼が、周囲に対して盲目になっている、そのような状態こそが、新たな犯罪を生む事に、加担しているのだ。放映される犯罪者を通して、我々に出来る事は、同じような凄惨な境遇に置かれている、見えない人達の存在を知る事である。


犯罪者は日頃の鬱憤を晴らす為の便利なサンドバックではない。だから今、我々がしなければならないのは、犯罪者に対して向ける嘲りから、その眼を解放する事である。その眼は、同じ凄惨なる境遇に置かれている人々に対して向けなければならない。そしてその苦境から救う為に、手を差し伸べる事である。そうそれは、彼らが将来、犯罪という誤った道に進んでしまうのを止める為の抑止力になるだろう。このような事を踏まえてこそ、犯罪者を視る眼なのであり、そしてその眼はいずれこれからの犯罪の抑止に繋がるのだと思っている。

現代の政治で国民は平等になれるのか? 〜「地域スケール」と「政治的ビジョン」から見た対立という構造〜

最近のマジョリティとマイノリティで問題に感じるのは、地域性と政治性の両テリトリーが占めるフィールドをごちゃ混ぜにしてる所ではないかと、みやすけは思っている。人間が、ある地域に包括される事と、ある権力者が一国を統治する事は微妙に違う。それを解りやすく言えば、全く面識もその得体も知れない他人が隣に住んでる事を受け入れられている事と、またその住民が権力掌握してガナって来るのとはまたその時の対応は違うだろう。地域というコミュニティーが大まかに「和」を基調としているテリトリーであるのなら、政治というフィールドとは、いわばもっと緊密にコミットした形式を基調としたグループであろうと言えないだろうか。

 

そして更にこれを一般に昇華した話にすれば、マジョリティとマイノリティがお互いの差を認め合って共存可能にする為には、制度という骨組みを改革する為に、政治的ビジョンに深くコミットする事も必要だ。が、しかしそれ以上に地域性の問題をも同時にピックアップする必要がある筈である。

 

何故なら、政治的にしてもそれが広く社会的であろうとも、人間の住む「地域」という場所が無ければ、先ほど書いたようなどのようなフィールドも、その存立は不可能であるからだ。でも、それが社会的にマクロなスケールに拡張され、その際にどうのこうのとなっても、必ずやそこにパワーバランスは発生する。また仮に、それが政治が管轄するフィールドともなれば、そういうパワーバランスがよりトランスな形で社会的構造を構成していたりもする訳である。

 

それにマイノリティの運動というのが、果たして、地域のご近所さんの世間話に参加したいなというレベルのものなのか、はたまた社会的な全承認の上で、政治的な場で統治機構にコミットしたいのかを、丁寧に分けて考えなければならないだろう。特に、みやすけが今まで閲覧してきた大抵の文献では、このような地域スケールと政治的ビジョンが混在し、ついには両者のテリトリーが混同されて書かれていたものが多かったように感じていた。がしかし決して、議論の中に地域スケールと政治的ビジョンがある事に違和感があるのではない。要は、その二つのテリトリーが丁寧に扱われていなくて、それらが漫然と使用されているという事に、この疑問の核心はある。つまり、地域スケールの現実性と政治的ビジョンの理想像が、悪いように作用し合っているように見られるという事こそが、みやすけの問題提起なのだ。

 

しかし、確かに地域スケールと政治的ビジョンが語られること自体には、もちろん現実性はある。だが、せっかくの地域スケールの現実感が、あやふやな政治的ビジョンでぼやけてしまい、その結果、宙に浮いた理想論的なイメージが先行してしまっているという、その事に問題があると見たのだ。そしてその視点は、もちろんその逆も然りである。つまり、二つのスケールが林立するという所までは良いのだが、しかし時として互いのミスマッチな部分が、互いの良い意味で語られている現実感を、結果的に、地に足の着かない理想論的なベースにまで矮小化させ合っているのだ。

 

それとマイノリティとマジョリティというのが、基本的にパワーバランス上の相互作用というフレーズで社会的にシェアされてる語である限り、存在の相互理解を理想形とするインターカルチュラリズム(※)で幾ら取り繕うとも、その本義からは逸れるだろう。ましてや現代の統治機構そのものが、対立と闘争で成り立っているものである限り、支配被支配のようなパワーゲームは大小様々な分野で残り続けるだろう。

 

そのようなパワー構造が暗黙の裡に広くシェアされているのであれば、地域性がどれだけ豊かになろうとも、そのまま個人の政治的寛容さにフィードバックされる訳でもない。そう、地域で安心して平凡なる暮らしが立てられていても、現実性のある政治感覚、いうなれば、そこに政治的ビジョンが反映されている訳では無いというように。むしろ一般の政治感覚とは、時折、放映される選挙特番のような「年に一度のお祭り」のような感覚なのではないか。

 

このような特に現代の政治のように、少数の統治者を国民の中から擁立するような、代議制民主主義という制度で成り立っている限り、マイノリティとマジョリティという不平等は無くならないだろう。むしろそこには権利と利益の奪い合いのような無限の闘争があるだろう。しかし、それは政治的フィールドでの話であって、いつも挨拶をしてくれるご近所さんのような地域的ミクロスケールであれば、またこの感触が違ってくると思われる。その証拠に、地域の人と交流する時に、その当方が政治的に絶大な存在である必要性はないし、仮にその当方に政治的なイニシアチブを持っていても、その権力が地域のミクロコミュニティに単純に還元されるかといえば、また少し話は違うであろう。

 

またマイノリティとマジョリティ間の不平等を是正する為に、機会均等を求めるのであれば、それは別にマイノリティであるかマジョリティであるかは、あまり関係がないと思われるのである。差別されている権利が保障されている、または支配されているという状態は、あくまでも相対的なモノの見方であって、そこに絶対性などは無いからである。むしろ、それは例えばマイノリティが頑としてそのような弱者の立場で絶対化してしまう事態にこそ、そこに逆差別的な作用が存在するというような事も、時として言えるのである。

 

そして、このような観点を今一度敷衍して再び見てみると、マイノリティが絶対的な弱者であるという想定の上で、また彼らに対してだけ、政治がプロデュースをするから、結果的には、マジョリティに対する逆差別というように、負の構造が連鎖してしまっているのだ。しかしまた、とある属性に対する差別とそれが故の不平等の撤廃を標榜していた筈の平等という目的が、いつの間にか、機会の方でなくて、結果を示す数値の是正に置き換わってるから、また事態は一層ややこしくなっている訳である。

 

また仮に、地域の中であれば、どんな人間であろうとも「あら! 変わった人ねー」で済む事でも、政治の場であればきっちりとした対立構造に組み込まれる訳である。なぜかと言えば、政治で物事決める為には、まず与党に躍り出る必要もあれば、またその中でも首相とか大臣とかも選ばなければならず、そしてその為には更に政党のような徒党を組む事も必要だからだ。

 

〜参照記事URL〜

(※)基調講演「インターカルチュラリズム」とは何か 

ケベック、そしてグローバルな観点から ジェラール・ブシャールhttp://www.jripec.aoyama.ac.jp/publication/journal/jnl005_02.pdf

 

参加型民主主義と文化的多様性の概念的混同について 長山智香子

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/2010/pdf/session4/j/nagayama_j.pdf

人間が人間を裁く事は可能か? 〜不完全なる人間が、神の視座にひざまずく時〜

本来、人間は人間を真の意味で裁く事は、不可能である。また人間は人間を裁きをしていけない。司法の概念が生まれたのも、人間が人間を裁く際に、度を越した応酬とならないために整備されたものが最初の筈である。このような度を越した応酬は、ネットでの私刑を見てみれば判るだろう。あなたは、何かの事件が起きるたびに、どこからともなく私刑を行い、それに酔い痴れている人たちに、異様さを感じた事はないだろうか。人間が人間を裁くとき、あのような欺瞞は、絶対に起こる。だから、法の概念と、それの臣下にある司法システムは、一般の人間から人間を裁く行為を取り上げたのだ。人間が人間を裁く原理があまりにも自由になりすぎると、あのような人間の無闇さをさらけ出すのだ。

 

人間が人間を裁くのは、本来絶対にしてはならない事で、それは神にしかできない事である。人間が人間を裁くとき、そこには絶対中立性が必要になる。しかし、人間には、このような器量を本質的に持ち合わせてはいない。その事から、絶対中立なる概念こそは、神に所以するものであって、そのようなものを、一人の人間が振りかざす事は、絶対にあってならない。司法の意義とは、そのような神の観点を拝借する事にある。そしてそれを司るのが、裁判官という役職なのだ。裁判官なる役職とは、いわば神の領域を代行する事に、その意義があるのであって、それはいわば神事を執り行う事と同質なのだ。裁判官は、裁判において、そこでは人間としてあるのではなく、神に従う神官としての役割を引き受けるのだ。

 

日本では、基本的に裁判官は、実質的に公務員扱いだが、そもそも裁判を公務員が執り行う事自体こそが、大きく間違っているのであって、それこそ神の領域を冒涜する暴挙である。裁判こそ、神事であるべきで、それは裁判官ではなく、神官が執り行うべきだと思われる。日本の裁判官が、審判を行うに際して保持する人間性にこそ、日本の司法システムを腐敗させているのだ。それに日本の司法での「有罪確定率99.9%」という現状は、そもそも司法システムの不全性を示すものであって、半ば裁判官は、裁判をしていないのと同等なのだ。このような現状を見るに、日本の司法制度においての審判の意義とは、半ば、流れてくる書類に判を押すだけのような、流れ作業に、その本質があるように見える。

 

本来、「疑わしきは、罰せず」という言葉があるように、逮捕、嫌疑での段階では、容疑者はなんの罪の意識を持つ必要も、また罰する視線に晒される所以もない筈である。よく世間では、「逮捕」され抑留された人に、侮蔑を送るが、そもそも「逮捕」とは「嫌疑をかけられ、一時的に拘留されている状態」を指すのであって、犯人だから逮捕というのでは決してない。また逮捕されたから、その人は犯人であるという認識は、根本的に間違っている。そこを正しくいうなら、「有罪判決を受けたから、その人は犯人」というべきである。そこの部分が、特にメディアでは、全く認識も共有もされてもいない。「犯人逮捕」という報道は、絶対に慎むべきだ。「逮捕」という状態と「犯人」という判決とは、全く同等であり得ないし、またそうであると思いこむのも、絶対してはいけないからだ。特に、日本の司法制度やそれを司る人間は、人間が罪を背負うという事に対して、あまりにも軽く見過ぎている。ある人間の下される罪が重いのなら、それと同等の厳粛さを全体が共有すべきだ。

 

人間に対して罪を審判できるのは、そもそも「神だけ」であるのに、その権利を一般の人間が無闇に、さも当然のごとく行おうとするのは、それこそ神への冒涜である。またそれは、人間の持つ欺瞞であり、傲慢さでもある。人間が人間に裁きを加えるとき、そこには裁きを与えた人間に対する罪をも発生する。そのような裁判官の罪を意識させるために、ある国では、裁判開始時に聖書に誓いを立てる。それは、人間の愚行である私刑を遥かに凌駕する、神聖なる領域に、人間が侵す事に赦しを請う行為であるとも取れる。

 

人間を裁くのは、ネットで個人情報を晒すのでも、またその個人をバッシングし侮蔑するのでもない。それは、人間の持つ傲慢さが現れているものである。また、あのような私刑こそは、当然の如し制御されるべきものであって、そういう事態は存在してはならない。司法システムの意義とは、このような人間の持つ不完全さや、欺瞞性を、全能なる神の視座に、一旦返納した上で、再度それを畏敬の念を持って拝借する事にある。そもそも神が全能である意義とは、人間の不完全性を意識し、またそれを制御しようとする事にある。本質的に不完全な存在である人間は、不完全であるからこそ、絶対的権力を掌握するのではない。それはあってはならない事だ。そのような全能感を、一旦、神に返納した上で、人間という不完全性を内観する事にこそ、神が全知全能である意義がある。

 

神が全知全能であるからこそ、人間は不完全な自己に対して内省を可能にさせる。また不完全であるが故に起こりうる、人間としての自分の愚行や欺瞞をも、見つめ治そうとする気概をも生まれる訳だ。そのような全知全能の存在こそが、人間に不完全であるが故の「原罪」をも意識させるのだ。そのような流れで、それらを深く見つめ、そして探求し、人間という不完全なる存在を俯瞰しようとする、アカデミズムなる思想が、勃興もしたのだろう。

 

なので、自分こそが裁判官にでもなったつもりで、容疑者に対して侮蔑を送るのは、もう止めなければならない。そんなあなたは、絶対的に中立でも、また公平なる立場にいるわけでもない。それは神のみの視座である。また、そのようなあなたの誤った全能感こそが、人間という存在を、さらに深刻な罪へと導くだろう。

投票率が上がると政治的パフォーマンスも向上するか?

政治の事を語りたいのなら、まずは選挙に行きましょうと、そして選挙に行かない事は、国民として愚かな事だと、ある人々は言う。しかしそれ以前に、本質的な部分で国民の政治に対するレベルが、週刊誌並みに下落したものになってる感じもまたする。政治家をあげつらってただ嗤ってる、そこに自分の政治的スタンスとか、そこに参加している実感のようなものが、国民の間で希薄化してる、そんな気がするのだ。

 

選挙でいう投票というのは、いわば意思表明する事であって、その意思表明とは、ただ目の前に出されたものを選ぶという事で発生するものではない。それは自分の日頃の政治的スタンスをいかに固めた上で、どのように表明するのかという事でもある。今日は投票日かあ、えーと誰にすっかなぁ、では実は選挙にすらなってないのだ。

 

また、投票日には、何が何でも行かないといけないとか、投票しないなら政治の事を語るな、とか言う人がたまにいるけど、そもそもスタンスもあやふやで意思表明の無い投票こそが、選挙制を根本的に無力化しているのだ。選挙そのものは、政治への日頃のアクティビティーを表明する場であって、そういう目的の無い投票は、いくら数が多かろうが、それは無投票と同じなのだ。そもそも紙にただ名前を書く行為を選挙とはいわない。

 

本当の政治の問題とは、投票率うんぬんよりかも、選挙自体がまるで、年に一度のお祭りであるかのようなイベントと化しているという事にある。例え、投票率が高かろうが、そこに日頃の国民の政治的スタンスが表明されていない時点で、その投票には、民主政治を全く反映もされていないのだ。また極端な話ではあるが、そこに国民の政治的スタンスがしっかりと表明されているのなら、例え戦後最低でも全く問題は無いわけだ。投票率低下に見る国民の政治の無関心というが、投票率が上がった所で、そこに何も反映が無ければ、投票率上昇に伴う、国民の政治に対する無責任さは、回避出来ない。

 

政治を連想するときに、ある人はすぐに、それは派閥同士が果てしなく陣地を奪い合おうとする争いの場である、というようなニュアンスで語ろうとする事も多いが、それは間違いである。本質的に政治とは、反対派、賛成派、左翼右翼を含めて、それらの派閥が切磋琢磨して、その場を一緒に造り上げていくという事に、その醍醐味があるのだと、みやすけは思う。

 

今の安倍内閣とか、またそれに対する国民の批判(否定?)、そして無関心ぶりを見ていると、この事態は、安倍内閣の愚行どうのこうのではなくて、安倍内閣そのものが、実は、政治的スタンスのあやふやな国民の鏡写しなのではないかと思ったりもするのだ。国会中の議員の寝姿、そしてヤジを撒き散らして、議会の集中力を散らそうとするその様は、現状の国民の民度をそのままの姿で写したもののように見える。つまりは、現状の安倍内閣の姿こそ、政治をみんなで造るという発想を忘れた、国民のスタンス無きあやふやなる姿が、無残にも映っているという事なのかもしれない。

福祉政策の本義を再考してみる

昨今、北欧の福祉がもてはやされているので、ここでみやすけが思う事を書こうと思う。巷には、北欧は福祉が隈なく行き届いている。医療、教育、生活において、その国民は、日本の国民と比べて、比べ物にならない程の高福祉の制度に守られ、人々が幸せに暮らしている。だから日本も、それに見習うべきだ、そんな事を云う人たちがいる。

 

でも北欧の場合は、福祉を充実させる分、所得、消費に占める税金の割合が格段に高い。特に消費税などは、そうで、それは娯楽とかにももちろん掛かってくるから、その分、娯楽の幅はとても狭いという話を訊くし、しかも仮にあったとしても金額が高いから、あまり人が行きたがらないとも訊く。このように北欧の人々の幸福を支えている高福祉の裏側には、高税率という軸があってこそ成り立っている面がある訳である。だから日本も北欧と同じ水準の高い福祉を実現する為には、消費税などの税率を大幅に上げなければならないという論調もある。しかし人口比と、地政学な見地から、単純に体制の枠組みを当てはめただけの議論は不毛だとの論調も見られる。と、ここまでは、反論としてよく巷で聞かれる論調だ。しかし、みやすけが重要に思うのはここからだ。

 

一般的に福祉政策というのが、特にとある巷の言論の界隈では、窮地に陥った人が最後に国から保障されるべき安全網のようなニュアンスで語られる事が多い。が、実は、福祉ないし福祉国家の成立の歴史的な経緯では、福祉予算という枠組みには、実質的には人間への投資というのがその本義にはある。これはどういう意味だろうか。一般的に、国家の掲げる予算には、大枠には教育や軍事などの、制度の枠組みに投機するというニュアンスのものがある。そしてそれに対して福祉というのは、その同じ動機を人間に対して行われるものの事をいう。また、あらゆる国家予算は将来への投資というニュアンスもあるが、それは国家の運用は、適正な予算の配分によって円滑になるという理念の下にあるものである。このように国家予算とは、端的に一国の経済効率を上げる為に練れる政策であるともいえる訳である。

 

そして、このような政略の動機と同じように福祉という予算の枠組みも存在する訳である。つまり、福祉予算とは、人間への直の投機であって、つまりはこちらがお金あげるから、これで心身のコンディションをきちんと整えて、それからしっかり働いて、いつかは経済に貢献して欲しいという思惑が先行している訳である。このように福祉政略の本質には人間への投機という目的がある。それは単なるセーフティーネットではない。またある意味、福祉とは経済政策上の延長に位置するものであるともいえるのだ。そして一般の議論では、高水準の福祉という響きは、耳触り良く聴こえるが、しかしより深く洞察をすると、逆にそれはとても経済に特化した政略であるとも取れる訳である。またそれを別でいえば、経済効率を上げる為にその他のムダを極力排除しているという事でもある。だから北欧で消費とか娯楽とかの分野での税率が特に高いというのは、こういう訳なのだろう。とどのつまり、国が高税率で徴収したほとんどのお金は、実質的には、経済活動優先に運用されているという事なのだ。

 

それに福祉国家というのは、基本的に、お金を人間へ直に投資する事で、その投資金が、結果的に経済効率に還元される事を目的とした国家の事をいう。経済あっての国家があるように、国民が稼ぎ出したお金は、税金で徴収され、そのお金は次の運用に回される。ここまでは、どのような体制をとる国家でもまったく同じだ。しかし福祉国家というのは、このような能率を更に純化させた形態だとも言えるのだ。そしてこのような枠組みの中で、福祉を受けるとは、ここまで生活を保障してあげるから、その分、また後で一生懸命働いて、経済に還元して欲しいと言われているようなものである。つまり北欧のような純度の高い福祉国家というのは、その分、経済効率に純化された国家であるといえるのではないだろうか。それは単に国から、居心地の良い居場所をただ一方的に与えられているという訳ではないのだ。

 

これまで見てきたように福祉政策というのは、ただ人に居場所を与えるのではなく、「余裕が出来たらまた働いて経済に還元して欲しい」という、この前提のルールがあって初めて機能するものである。とどのつまりそれは効率的に経済を回す為の政策の中の一つの形態に他ならない訳だ。

 

そしてそのような福祉政策の失脚の末に出てきたのが、新自由主義だとの学説がある。それは福祉から降りたせっかくのお金を、居心地の良い居場所に居座り続ける為だけに使われてしまい、結果的に、福祉予算をかけた分だけに見合った経済的効率を生み出せなかったのが根本にあると言われている。つまり、こっちがお金あげても何もしないなら、今度はみんなと競争して自分でなんとかしてね、もうお金は簡単にはあげないよ、という流れになった。それが自由競争の原理、市場主義経済の枠組みの発端であるというのだ。

 

確かに、北欧のような、安心して子育てして働けてみたいな環境は理想的かもしれない。でも現実の北欧の暮らしはとても質素らしい。娯楽も少なく、あっても高いからあまり行かない。そのような質素な暮らしでものびのびと生きていけるのなら、彼らのような高福祉国家も目指せるかもしれない。しかし蓋を開けてよく観てみれば、そこには経済効率重視の国家という意外にシビアな姿が、みやすけには見えた。つまり福祉とは、国民がよりよく生活する為の政策なのではない。そうなるのはあくまでも結果論である。また福祉とは、経済効率主義から排除された弱者の最後の安全網であると言い切るのもまたニュアンスが違うのだ。そこには国家を運営する上での中核を成す経済を、どのように効率良く動かせるのかという思惑がある。また冒頭に、あらゆる予算は投機であるといった。それは福祉予算というスタンスも例外ではないのだ。


北欧社会福祉研究家による世界・北欧の福祉事情 「介護支援ページ ~kaigo-web~」

http://www.kaigo-web.info/kouza/hokuou/no1/index.html


北欧型モデル 増税すれば幸せになれるの?SYNODS 井出草平/社会学

http://synodos.jp/international/2045