心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part1

あらゆる生物には「皮膚」という臓器があります。この皮膚を通して、生物は、敵味方、必要不必要を識別して、個体を維持しています。皮膚とは境界です。それを基準に、要るものの世界と要らないものの世界が、峻別されている。しかし、そんな要らないものの世界から要るものを得たりしている。つまり皮膚とは税関のようなものともいえるでしょう。そうして外と内との交流が皮膚を通して、日々行われている。そう、外部から要るものを得て、内部の個体を維持する、それが皮膚の役割です。

 

また特に、人間に関していえば、この皮膚という臓器を一つ取ってみても、そこには様々な意味合いを含意させています。生物にとって、体表に皮膚があって初めて、他の個体に触れる事が出来ます。基本的に皮膚とは、個体を保つ為の防御壁です。また別のところでは皮膚とは、様々な個体との出逢いを生み出すものでもあります。そう、外部と内部が接触する場所。そうした出逢いのきっかけとして、皮膚という臓器は、その意義を持ち得るのです。

 

自がある所に他がある。皮膚とは、そうした出逢いのきっかけとなる臓器です。それは皮膚があって個体が生存する事が出来るという事、また、そうする事で他に触れる事が出来る。皮膚とは、こうした出逢いを円滑にする円滑油の役割があります。このような作用のその証拠に、この皮膚という臓器が無い状態、例えば赤く血の流れる肉がさらけ出された箇所には、普通触れようとはしません。なぜならその状態を気味が悪いと感じるからです。

それと一緒で、皮膚の無いあやふやな個体に、人間は恐怖を感じたりします。皮膚の無い状態、まさに実態の伴わない存在に、人間は本能的に恐怖を感じてしまうのです。人間は得体の知れない影の存在を恐れる習性があります。例を出すとすれば、中身のなんだか分からない箱に手を入れる時に感じる恐怖などにも、それが表れています。何か居るのに、それが何かが分からない。輪郭の無い影に、ばっと呑み込まれてしまいそうな恐怖を感じるのは、それに明確な輪郭が無いからです。

 

そしてその代表的と言えるのが、幽霊の存在です。人間や他の動物は、実態の不明なものに出会うと、まずは触れたり、臭いを嗅いだりして、その不明な実態に輪郭を持たせようとします。輪郭を持たせるとは、理解するという事でもあります。得体の知れないそれが理解出来て、初めてその実態を把握し、物事を了解する事が出来るのです。皮膚とは物事を理解する時の輪郭を与えます。またその輪郭こそは、皮膚の表象であります。物事に輪郭を持たせる事、それは皮膚に覆われた個体を識別する方法の延長にあるものなのです。

 

また、それは逆に言えば、皮膚とは、自分という存在を明示的にする手段でもある訳です。つまり皮膚という臓器が、きちんと作用している事が、自分を自分足らしめている動機という訳なのです。

 

このように、自他の混乱を起こさないように、人間の身体には皮膚という組織があります。医学的には皮膚とは、体内組織を外界の侵入者から護る為のものです。しかしまた、これを別の観点から更に観ると、皮膚と一言に言ってもそれ自体には、様々なアイコンが表象されてもいるのです。表象としての皮膚、例えば人間は、皮膚の上にさらに衣服をまといます。動物では、まずこのように行動する個体は居ません。では、この「衣服」とは、一体なんの表象なんでしょうか。皮膚の上に衣服をまとう、そうこれこそは人間の社会性の発露なのです。

これまでの歴史の中で人間は群れを作って、人類という種を保存して来ました。人間は基本的に、群れる事でしか、身を守る手段を知りません。だから、このような群れからはぐれる事は、まさしく死を意味していたのです。もしかしたらこのような境遇から、人間は、衣服をまとう事を憶えたのかも知れません。衣服こそは、それをあえてまとう事で、自分の身元を明らかにする役割を持つのです。

 

しかし衣服とは一般的に、単なる体温調整の役割として語られがちです。でも別の側面には、衣服をあえてまとう事で、その人間がどういう人物なのか、どういう属性なのか、またどの地位に属しているのかという身分を釈明する役わりを負っている訳なのです。自分とはどういう人物なのか、そう釈明して人間は、関係性を繕う事で、社会性というものを発達させて来たのです。それは人間の群れを維持するための役割を負っていたのです。

 

その他にも、人間は様々な皮膚の役割を、色々なもので代行しようとします。その一つに「心理面」でのものがあります。時代が進み、人口も増大し、群れが社交の役割を演じ始める頃にまで、関係の高度化が進行すると、今度は、衣服をまとうだけでは、関係性を繕うのにままならなくなってきたのです。つまり、自らの行いを装う必要性が出てきたのです。この時、人間は自らの心を装うようになります。この心の装い、それを心理学的にはペルソナといわれています。

 

そしてある時には、特に社交的な場での服装などのしきたりの中に、ドレスコードといわれているものもあります。そして更に、人はよくその場にあったTPOをわきまえろと忠告します。このように人間はその都度、その場その場に似合った衣服に着替えなければなりません。そしてその場にあったTPOもわきまえないといけません。そう、このペルソナもドレスコードも、またTPOも、拡張された形での「皮膚」の表象なのです。そうして表象された皮膚を「まとう」事で、関係性が高度化した社交などの場の行いがスムーズになります。

 

またそういう広義の範囲を含めると、この社会でも、他にも様々にこの表象された皮膚という作用は機能しているものなのです。身にまとう。このような、その場その場に似合った様々な衣服を媒介して関係を作り、人間は社会を構成します。とどのつまり衣服は皮膚と同等な訳です。皮膚をまとう事で肉体が維持できるように、衣服を身にまとう事で、社会生活を円滑にするのです。

 

また皮膚とは、自分と他者との媒介の役割をも持ちます。他者と初めて会うなり、人はまず、相手の衣服を見て、その相手が安心できる存在なのかの確証を得ようとします。そして心理面でも、まず相手に安心感を与えるために、安心出来る自分を演じようとします。

 

皮膚とは、このように相手と関係を始めるためのきっかけとなります。全身の皮膚が剥がれ、血のドロドロ滲む姿に、普通人は恐怖を憶えます。しかしそれは心理面でも同じなのです。また、ドレスコードやTPOをわきまえないというのも、ある意味皮膚の剥がれた姿といえるでしょう。そしてきちんと皮膚のある安心できる相手とは、繋がろうとします。色々と質問を投げかけたり、自己紹介をしたりします。それが自己の表出です。

 

皮膚による媒介と自己の表出、これらは作用反作用の法則と同じです。自他との境が明瞭になって、人間は他者を知ろうとするし、自分を曝け出そうとします。そのように人間とは、皮膚という媒介により、相手を感じ、自分というものをスムーズに表出しようとします。そう、すべては相手と円満な関係を築くための手段という訳です。

 

これまで見てきたように、人間とは関係を主軸にする動物です。そして人間個人の外縁には社会というものがあります。この社会とは、人間という種が、生存する為のコロニーです。また時に、この他のコロニー同士が出逢う事もあるでしょう。その時のコミュニケーションの役割も、そしてそのコロニーの位置付けや、縄張りという意味では、それもまた皮膚の表象と言えそうです。そうして人間は、社会的な関係を円滑にするために、また個人的な関係を安心に行うために、相手に自分は脅威ではないという事をアピールしつつ、より大きな社会を形成しているのです。そしてその相互作用の最中で、徐々に浮き彫りになってくるのが、個性というものなのです。

 

例えば、皮膚という臓器が、外界からの侵入者を防ぐ役割りを持つものなのだとすれば、その皮膚に触れる事が出来る存在は、安心出来る個性という訳なのです。だから、人間は自分が脅威でない事をアピールする為に、様々な方法で自分を着飾り、相手に安心感を与えようとするのです。

 

また日常の生活では、自分なりの安心性を表すような衣服で着飾り、他者と対面します。例えば、相手の服装に少しでも奇妙さを感じると、人はその相手に嫌疑の眼を向けます。それは、その人が単に用心深いのではなく、そもそも皮膚という臓器の持つ、本能的な心理的作用であるのです。この事から、社会生活を送る上では、衣服で安心感のある自分を表出してこそ、初めてその人は他者と対面が出来るという訳なのです。着る衣服で安心感を演出して、かつその安心感の合意の上で、無数の人と繋がっていく。いうなれば、それは人間という個の保存本能のようなものなのでしょう。