心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

芸術と政治の関係について 〜フジロックSEALDs出演の批判によせて〜

そもそも音楽は政治的なものと密接なんだから、批判するのはおかしいとか、はたまた単なるSEALDs嫌いでしょ? とか色々まとめてる人がいるようですね。で、この議論の一連の流れを追って見ていますと、そうえいばかつて、プロレタリア文学と言われた小林多喜二の作品が、その色濃い政治的ニュアンスの為に、当時の論壇から、純粋な文学では無いと批判されていたのを、ふと思い出しました。

 

特に、Twitterでよくあがるように、政治と芸術は確かに不可分な関係を持っています。が、その作品が実際に、政治的意義を持って読者を、政治的に感化するものなのか、またそれでも純粋に文学として愉しまれるものなのかは全く違いますよね。例え、それらの作品が政治と不可分な関係を持ってしても、それが読者に、実際にどう伝わるのかはまた別の問題なのです。そこには厳然とした、個人の選り好みが反映されています。そう、政治的扇動に陶酔感を充したいのか、または、純粋な音楽を楽しみたいのか、というものにです。では、今回のフジロックイベントでは、そのどちらなのどうでしょうか?

 

例えば今回の話題で考えてみますと、音楽と政治はかつてから密接な関係を結んできたわけだから云々という批判も、一見当然の見解のように思われます。しかし、小林多喜二の文学のように、芸術と政治を混同したような作風が批判されるのは、昔からありました。

 

しかしその一方で、政治と芸術は不可分な関係だという人たちがいる。でも、そこに密接な関係があったからといって、それらが素直に受け入れられていたわけじゃない。だから小林多喜二の文学に、わざわざプロレタリア文学とまで名付けたわけです。つまり、これは政治的文学ですと自ら呼称して、純文学からわざわざ分離したのです。つまりこれは事実上の政治と芸術の棲み分けなのです。

 

このような歴史的な出来事にこそ、そこには政治的に扇動をしたいという書き手の思惑と、またその扇動に陶酔したいとする読者、また、それでも政治的なものとかではなくて、純粋な文学をたしなみたいとする読者が、少なくてもこれらの手で二分していた、という事実が現れているわけです。だからこの手の当然のように見える見解も、それは一面的なものでしかないわけです。

 

なので、今回のフジロックでのSEALDs出演の批判も、そういうかつての時代の風紀で判断すれば、あながち頓珍漢なものでもない事が解りますね。「音楽に政治を持ち込むな」これに似たような批判は昔からありました。

 

そんな人たちが言う、「芸術と政治は不可分なもの」これはその通りなのですが、その言葉だけで、まるで一個の方程式のようにして、あらゆる物事に当てはめようとするのは、その背後にある様々な歴史的な風紀を逃してしまう事になるでしょう。芸術と政治が不可分なものであるなら、そこに付随している批判もまた不可分なものです。つまり正しくは、「芸術と政治は不可分で、またそこに対する批判もまた不可分なものである」としなければならないでしょう。

 

また、その団体の扇動がいくら政治的に正当であっても、浴びる批判の度合いには相関しません。それがいくら正しくても、嫌いなものは嫌いなのです。そもそもこのような批判とは、「政治的」と冠が付いている事の拒絶なのです。つまり「政治的なもの」への嫌悪なのです。だからいくら時代の寵児といわれている正当な政治団体でも、そこに政治的という冠が付いている限り、それへの批判というのは、ある意味、歴史的な風紀の元に正当なものなのです。

 

特に音楽を純粋に楽しみたいとする人達にすれば、そのような場で政治的扇動をする団体が依拠するのは、さぞかし困惑するでしょう。音楽というのはいわば雰囲気を楽しむものです。だから、そこに少しでも異物めいたものを感じるのであれば、それは音楽である所以を失うことになるのでしょう。

 

それならいっそうの事、政治的音楽イベントと、音楽イベントとを棲み分けるのは如何でしょう? なんでもよそ様のコミュニティーにヅカヅカと押し寄せてどんちゃん騒ぎをするのは、そもそも礼儀ではありませんね。だからみやすけは、フジロックのような音楽イベントでも、政治的芸術と、純粋な芸術の棲み分けを提案します。それはかつて、小林多喜二の小説が、プロレタリア文学と名付けられて初めて、彼の文学の居場所を確保できたのと同じように。