心象風景の窓から

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統合失調症患者は減ったか? 〜ネットインフラとパーソナリティ〜

近年になって、統合失調症が軽症化されている、または患者そのものの数が減少しているという話がある。統合失調症とは、以前で言う"分裂症"の事だが、ここ最近になって、統合失調症が軽症化したり、病気自体の数が少なくなってるという。そして、そこにはそれなりの理由があると、みやすけは感じている。それを社会的な観点と、近年これまた言われるようになった"発達障害自閉症スペクトラム障害"と合わせて論じてみたい。

 


彼ら統合失調症患者には、"政府、FBIとか何か大きな組織から監視されている"というような妄想があったりする。これは、外部世界と自己との境界があやふやになる、という彼ら独特の分裂の症状であると言われて来た。しかし、これまで妄想と片付けられていたものが、最近になって、それが割りかしリアルである事が判明しつつある。例えばアメリカの秘密情報機関に勤務していた、スノーデン氏の告発も記憶に新しい。これらジャーナリズムから、これまで彼らの妄想と言われていたものは、むしろ真実を突いたものであったという事が判明した訳である。

 


そして現代は、徐々にこういったこれまで狂気として病理扱いされて来たものが、リアルの世界に浮き彫りになりつつある。この"リアル世界=確固たる世界"が、文脈前後の支離滅裂な分裂的な論理的構造に移行していく中で、これまでの統合失調症患者の分裂的思考が、狂気と分類され治療対象として観られていたのが、今度はリアル世界が統合失調症の世界に行き着き始めたのだ。だから現代人にとって、分裂的な思考を保つパーソナリティこそがリアリティを持つに至った訳である。

 


例えばツイッターとかで観てても分かるように、ネット情報空間に羅列されているテクストというのは、実は分裂的な構造をしている。なぜなら、何の脈絡もないテクストが突拍子もなく現れては消え、その情報系が連綿と一つの構造体を形成しているのは、実は統合失調症に罹っている患者の思考構造そのものであるからだ。

 


そして、発達障害系の自閉症的パーソナリティの病理化もまた、実は、このような世界規模に渡る分裂症系パーソナリティが拡張して行くリアリティから浮き彫りになった現象かも知れない。発達障害の特徴としての、"場の空気の読めなささ" "対人関係における感情の理解度の低さ" などに起因する自閉症的パーソナリティの認知形式がある。仮にこのような認識様式を"硬派な実直性"と形容出来るのなら、現代の分散的コミュニティを前提とした分裂症系社会の構造内では、あまり折が合わない。

 


この"硬派な実直性"とは、言えば表裏の無いピュアな認識を持っているということである。自閉症的パーソナリティにとって、抽象的な概念を他人の認知を通して想像する事が難しい。しかしこれは、決して認知の歪みとかの病理ではなく、列記とした人間的認知の一つの形式である。常に総ての人間の認知では、このような"硬派な実直性"を持ち合わせている。要は発達障害とは、その時の社会からのバイアスの程度による訳である。

 


また俗に言われるような、例えば発達障害者が、"相手の感情を読み取れない" "場の空気を壊す" または"場の空気を読めない"状況とは、つまり、現代拡張しつつある分裂症系ソーシャルからの、ある種の逸脱である。これまでの社会で了解されて来た"硬派な実直性"の排除が、現代の自閉症的パーソナリティの社会からの逸脱を助長している。

 


このような動態は、サイバー空間のリアル化によって、その動向は助長されている。ネット構造に無尽蔵に溢れるテクストを構成するアーキテクチャは、統合失調症患者の思考形式そのものであると上にも書いたが、このような分裂症的な構造体が、現実世界の人間関係にも、その影響が及んでいるのは、何も驚く事ではない。このような事態は、かのジル・ドゥルーズも予見していた事である。しかし、そのような動向が、個人にパーソナライズされた時に、そこから派生する精神病理の構造もまた、別の箇所にパーソナライズされた形で、発現するだろうというのが、みやすけの論じたい事である。

 


つまり、"発達障害自閉症的パーソナリティ"と"統合失調症=分裂症的パーソナリティ"とは、時代が要請するパーソナリティとの拮抗の最中で生まれるものである。"障害=disorder"、つまり、社会側からの要請と個人的パーソナリティとの差別化から生まれる、社会的障害というものは、移り変わる社会的インフラによってカテゴライズされるものである。その中の一つの形態として、発達障害統合失調症というのも、とある時代の中の社会からのパーソナリティに対する要請として、理解出来るのではないか。しかし現実では発達障害を脳生理学的な見地から病理にしようとする動きがある。でも発達障害とは、このように処理すると、列記とした社会的障害と言えないだろうか。