心象風景の窓から

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「LOVE & PEACE」は戦争から世界を救うか? Part2

そういう意味では、日々主張される「LOVE & PEACE」もまた、それ単体だけでは、世界の未来を生み出す訳でも、また結果的に歴史が創造される訳でもない。なぜなら、大枠の歴史というのは、何らかの絶対的な真実だけが唯一存在し、かつ、それを絶対軸にして一方的に紡がれてきた訳ではないからだ。つまりそれが歴史的であるとは、史実における良し悪しという単一なるスケールを遥かに凌駕(りょうが)し、むしろそれらは表裏を一体にし、絶え間の無い複雑性を総合した、超スケールの事を意味するのである。一言に「戦争」「平和」と言っても、それは単に一般的な名詞を表している訳ではない。そのような、とある歴史的な事件を名付ける名詞をも、そのたった一片の言葉だけで、総ての相互作用が内包されているという完璧さそのものは、一切存在しないのだ。

 

つまりは、ある歴史的事件に良し悪しを言う時、それはどのように議論を煮詰めても、結果的には、完全に個人的な感想という範疇からは、決して逃れられないという事である。そしてあらゆる歴史的史実が、複雑に混在化された多面的多様性の上でこそ、その歴史的スケールの存在が可能になるのだ。歴史とは、終わらない議論の過程の裡にこそ存在する。論議が絶え間なく移り変わるその狭間にこそ、歴史の本質は宿っているのである。そこでは、あらゆる現象が歴史という複雑系に内包され、かつそれらが複合的に作用し合いながら、混沌未分なる人類史全体を創り上げているのだ。そこには正と負の作用も共にあり、またそれの逆の作用もある。正は時に負となり、また時に負は正に作用する。よってそれらの要素が巨視的なレベルで、逆説的超スケールを発生させながら、カオティックに歴史的ダイナミズムを躍動させているのだ。

 

またこうも言えるだろう。つまり「歴史」という全体性には「正」も「負」もない。また「善」も「悪」も、もちろんあり得ない。「歴史」とはまさに、このような正と負の、そして善と悪との作用によって、不断に脈動しているものであると。またそれらは歴史的な超スケールの裡で複雑怪奇に「今」と相互作用しているのだ。また、時にそれ以上の多様な次元をも包摂しながらも、それらはお互いにその一切を余す事もなく、夥しく切磋琢磨しながら、人類の歴史というものを築き上げてきたのだ。

 

そういう意味で、「LOVE & PEACE」のように、それのただ一方のみが作用しているだけでは、これからの歴史が構築されて行く事は、まずあり得ない。またそれと全く同じ構造で、もちろん戦争「だけ」でも、歴史は成り立っては行かないのである。つまりどちらか一方だけの結論では、新たな歴史というのは、生まれないのだ。よってその両方が作用し合ってこそ、「戦争」と「LOVE & PEACE」とが両立する訳である。これが歴史という本質なのだ。しかも更にいえば、このどちらかが一方的に不要なのだという事も決してないのである。そう「戦争」と「平和」こそ、それらは互いに両立してこそ、戦争と平和の、両方の存在意義を確かなものにするのである。むしろそのどちらもが、歴史という全体を成す、重要な構成要素であるのだ。

 

その昔、人間愛を標榜し、人類世界の平和を謳ったヒューマニズムが勃興した時代があった。そしてその華々しいデビューから、それらは次第に、活気のある流行となって行った。しかしその時流がますます強くなって行くに従い、その内部では、神聖化絶対化の闇が疼き始め、やがてその病魔によって、ヒューマニズム勃興時の誇り高い理想は、無残にも腐食する事態となった。そしてその病状が悪化して行くに従い、ヒューマニズムを信仰する理性的人間と、ヒューマニズムを標榜しない人間外とされる人種との差別化が、ますます酷く拡がるに至った。それから、そういう存在から富を奪取せよ、それ以外を信仰する集簇に対してなら、また自国がより栄華して行く為であれば、野蛮な彼らには何をしても構わないと、狂ったようになるまで、その理想は凋落した。やがてその愚行によりヒューマニズムは自滅の途を辿ってしまった。そんな過去がかつてはあった。※3参照

 

それと同質的に、「LOVE & PEACE」の待つ、それが次第に絶対化するような流れもまた、それ自体が平和構築への原動力に結晶化されて行くのではなく、むしろ「LOVE & PEACE」を標榜する善と、それ以外の悪との差別化が、より露骨になる事態となり得る事を示している。また、平和こそが最善であると信仰されているからこそ、それらの對立(はよりどぎつく深化して行くのではないだろうか。そういうあらゆるライツが辿るこのような誤作動は、歴史的にも充分に証明されている事である。

 

愛が人を守るのではない。その愛は、愛する者以外の存在を排除するだろう。平和が人間を護るのではない。ある人が平和を謳歌するその外縁には、過酷な労働に耐える末端労働者の苦悩の滴る汗水がある。故に愛と平和だけが、確かな誇りなのではない。しかし仮にそれが全てだと謳うだけの「愛と平和」があるのだとすれば、その理想は、「愛と平和」以外の現実を盲目にさえするだろう。故に正しい事だけを美しく謳う「愛と平和」は、時にそこだけの快楽に、身を閉じ込めもするだろう。それでは、むしろこの世界は閉じていくばかりだ。

 

それでも、ほとんどの戦争はそのような世界をも破壊する。そう、愛と平和を美しく謳歌する人々の暮らしをも。そしていつなん時、どこかの敵国の爆撃によって、その全てが無残にも破壊される瞬間が訪れるかも知れない。しかし、国会議事堂前で叫ばれる「LOVE & PEACE」もまた、「LOVE & PEACE」を標榜する以外の悪人という存在を造り出しているのかもしれない。破滅への戦争が、ときに未来への創造の一端になっていたのなら、逆に「LOVE & PEACE」もまた、それを標榜する人間以外の悪しき存在の滅亡を望んでいるのかもしれない。そしてここまでの巨視的スケールとなって初めて、「戦争」と「LOVE & PEACE」とが内包している善悪は逆転する。

 

しかし真実がそうであるならば、このどちらかの主張が間違っているのだろうか。「LOVE & PEACE」の裡に秘めるある種の偽善性にも、戦争という現象の必然である「破壊と破滅」の凄惨さにも、むしろ、そのどちらにも人間性の暗い一面が染み出している。またそれらは、時に希望でさえもある。このどちらの要素にも、その一方が抱える、人間の悪質性を成す本質が含まれていて、また逆にそれらは、人間を良きものに導く良質性をも兼ね揃えているのだ。しかしであるからといって、そのどちらかが一方的に正しいという訳でもない。また、そのどちらもが、間違っている訳でもない。このような、お互いに補完し合う正負両面なる要素が、「歴史」というものを、完全無欠なる包括的結論に帰結させないように作用しているのだ。つまり、「戦争」と「LOVE & PEACE」とが交わる作用場の本質に拡がるジレンマは、ここにこそ存在しているのだ。

 

戦争と平和、そのどちらの方にも正と負の因子が混在している。よって「戦争」と「LOVE & PEACE」との間で、それらのどちらか一方が絶対化する時流の中では、むしろそのどちらもが「悪者の破壊」という括りで、一つの大きな同相を作り出しているのだ。

 

一方で「LOVE & PEACE」と、そのみんなが謳う言葉には、その外縁で殺されていく人々の現実が排除されているように見える。実際、大勢の若者が国会議事堂の前で、どれだけ「LOVE & PEACE」と叫んでも、今隣の国で起きている戦争に終止符を打つ事さえも出来ない。むしろそこにこそ、「LOVE & PEACE」という理想と、それでも「終わらない戦争」という現実の狭間(はざま)で、苛烈なる歴史的宿命の応酬があるのだ。そこには、厳然とした終止符のようなものは、存在しない。しかし、それは歴史の宿命が秘める無情さでも、また人間が作り出す運命の卑劣さでも決してない。そのような「LOVE & PEACE」と「戦争」を隔てる間隙には、互いの似姿を無作為に投射し合う、無限に繰り返される自己投影の極限がある。

 

そしてそれ単体では、完全に正しい主張である筈の「LOVE & PEACE」もまた、時に独善の事態に陥る事があるというのは、歴史的に観て、充分に証明されている真実である。よってだからこそ、これからもそういう事態はあり得るのだ。その瞬間の「LOVE & PEACE」は、それに賛同しないそれ以外の人を嘲るだろう。そうなれば、「LOVE & PEACE」も、この場合では悪となるのではないだろうか。そして「戦争」もまた、これまでの認識以上のマクロなスケールでは、誰かの幸福へと繋がり得るのだ。全ては相補性的である。それも時に逆説的に。しかしこのような逆説的な作用とは裏腹に、またそれよりかも遥かに広い別の位相では、これらとはまた全く逆の作用をも、当然のように存在しているのだ。つまり、逆説の逆説である。そしてここから更に内部のフィールドに入る事は、人智を遥かに超えるステージに突入する事となるのだろう。

 

このようにこれまで議論を進めて来たが、それでも戦争という悲劇から脱却しようとする「LOVE & PEACE」なるアクションが、全くの無駄であるという事を、結論にしたいのではない。そういう、「LOVE & PEACE」なる理想もまた、より良き歴史の未来を提起するに当たっての、より重要なファクターであるのだ。なぜならばそれは、純粋に正しい事であるからだ。けれど、それでも何らかの諸外国から、戦争という銃口を、どこからともなく突きつけられている現実も、またリアルなのである。そういう状況にある渦中でも、それらを十分に加味し吟味にかけた上で、自衛隊のこれからの意義や、憲法の再解釈に当たる議論が、広く活発に展開されるようにと、切に願っている。そのように考えを不断無く巡らせる行為もまた、これからの日本国の未来を考える上での、重要な行動であると思うからだ。

 

大切なのは、考えを巡らせ続ける事だ。それは決して一つの結論に綺麗にまとめる事ではない。たとえ議題が「LOVE & PEACE」であろうと、「戦争」であろうとも、そこに「絶対化という停滞」が存在し続ける事こそが、あらゆる事態を悪化させて行くのだから。そして、「LOVE & PEACE」や「戦争」が共に、「正」と「負」の部分を持ち合わせているという、この二つの真実こそは、その両方ともが、「戦争」や「平和」という歴史的現象を語る上では、より重要なテーゼとなり得るだろう。

 

しかし、みやすけは、そのどちらかの一方の主張だけが、絶対的に正しいという事を言っているのでは、決してない。みやすけの願いとは、議論を有意義に巡らす事である。流れのあるところに、清き水はある。

 

これまで見て来たように「LOVE & PEACE」が絶対的真理を持てないなら、「戦争」という現象も、それと同じ動機で、また絶対的な真理にはなり得ない。しかし、この二つの命題というのは、まったく分け隔てられた存在ではない。むしろこの二つの命題こそが、それぞれの影を投影し合って、より密接な関連を作り上げているのだ。よってこのそれぞれは、それぞれを独立的に語る事を許さないだろう。それらは、互いの領域を共に跨り、かつ各要素は複雑に作用し合い、そしてそれらはお互いに、混沌未分なる本質的なスケールをも共有し合っているのだ。だから、そのどちらもが、決して欠いてはならないし、また、どちらかの自己主張が強すぎてもならない。

 

「戦争」と「平和」は、その根本を共有するフィールドでは、互いに渾然一体を成している。よってそのどちらもが、どちらに対しても、一方的な独善に陥らないように議論を展開する為の抑止力になり得るのだ。つまり「戦争」と「LOVE & PEACE」という二つの命題は、どちらか一方の独善的議論へと陥るのを、抑止させる作用を持ち合わせている。ようはバランスの両立である。つまり「戦争」や「平和」という歴史を議論するにおいては、この両方こそは必要必然となるリアルなのである。そして、絶対的真理化を許さない、このような歴史的現象は、その矛盾率が満遍なく包摂されるような絶え間のない、不断に流動する相互作用の狭間にこそある。そしてそのバランスの両立によって、「戦争」か「LOVE & PEACE」かのどちらかだけが神聖絶対と化して行くのを抑止する効果を生むのだ。よってこのような、より広範なる「戦争」や「平和」という現象に関する議論を、行い続ける気力を持つ事が、まさに今こそ必要なのだと、みやすけは思っている次第である。

 

 

〜「LOVE & PEACE」は、戦争から世界を救うか?〜

 

※1参照の記事

「日本のアフガン支援は何を意味しているのか」

https://www.jri.co.jp/file/report/tanaka/pdf/5407.pdf

マスコミが報道しないアフガニスタンの実情 - AKIRA-MANIA

http://www.akiramania.com/out/dr.nakamura.html

 

※2 事実確認について

今回参照したのは、YouTubeに数多くアップロードされている動画によるものである。きちんとした事実に根差しているかの議論があると思われるが、ここでは省いた。

 

※3 ヒューマニズムの歴史的位置付けについて

ここの箇所に関しては、歴史的経緯は予め掻い摘んだ形を取った。ご了承下さい。

 

〜参照の記事〜

安保法制について考える前に、絶対に知っておきたい8つのこと

伊勢崎賢治『戦場からの集団的自衛権入門』から

http://synodos.jp/international/14646