心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

自由と平等の監獄社会

人間性とはなんだろう。旧社会、それは階級が厳然とそのテリトリーを誇示していた時代であった。貧富とカースト、そこには決して超えられないラインというものがあった。そしてプロレタリア、ブルジョワジー、そこには確かに、剰余価値と搾取という名の下で階級社会は根差していた。旧社会、それは階級とカーストにより、人々に閉塞を生み出していたとされる社会である。このような旧体制、これらは平等とリベラルの号令の元に次々と解体を余儀なくされていった。旧体制は、人間を閉塞と恐怖に陥れ、ヒューマンライツの元に庇護されるべく本来の人間の存在を否定するものであると、だから自由と平和、そして平等は喝采され、そして時代の寵児であると持て囃された。

 

それらは、現代では経済的な政略とも迎合し、更には、リベラリズムと市場主義とも折り合い、近年ではネオリベラリズムとも、その形態を進化させている。全ての人間とは平等であり、また自由を犯される事のない個人である。そのような現代社会では、行使可能な選択肢は、かつての階級社会よりかも、遥かにその数を凌駕する程のものとなった。そんな社会では、あらゆる人間たちが自由と平等を元に庇護された中で個人の権利を行使できる。そして自由を確保された平和の中で、永遠を生きる事が可能となった。

 

そんな現代社会においては、あらゆる物事が、自由と平等、そしてヒューマンライツの元に庇護された権利を通して明確となった。それらは、永久不滅に、人類の中で護られ続け、かつそれらは人類の不断なる行いの最中で行使され続ける。抑圧と搾取の盛る旧体制から勝ち取ったこれらは、凱旋のさる歓声に煽られ、その戦旗はことごとく高く舞い上がる誇らしさを眼下に、民衆により良き人類の未来を提示したのだった。

 

旧体制、それは階級とカーストにより人々を閉塞に陥らせた。旧社会、それはプロレタリアからブルジョワジーによって、剰余価値と労働力を無限に搾取する。そのような社会において、人間たちは、様々な抑圧そして権力による奪取を体験してきた。そして今日、現代社会となって、そのほとんどは、その名残さえも始末されている手前である。そして、そこに取って変わったのが、自由、平等、そしてヒューマンライツの元に庇護された権利である。これらは、より良き社会、いうなれば、より良き人格を持ってして、より充実した人生を送るための指標である。

 

現代の人類は、このような標語を基に人生のプランをより良く当てようとしているのだ。しかし、平等、自由とは如何様であろうか。マスメディアで格差社会と言われて久しい時間が経った。そしてその格差とは依然と遺る旧体制の名残りであると散々持て囃されている。よって推し進められている平等政策も、そして経済的なリベラリズムも、そのような号令の元に、より先鋭に推し進められている有様である。

 

しかしそれは本当に旧体制の名残りと言えるのか。様々な破壊の元に再築された現代体制の中では、全てのモノが自由と平等の元にある。しかもヒューマンライツに庇護された個人の権利を持ってである。しかし、そのような自由度のある社会とは、ある意味では分散化し易い社会である。旧体制のようなボーダーラインが取り払われた社会においては、そのような行き交いもまたより自由度の高いものとなったのだ。

 

そこでは必然的に貧富の差はより厳然化されているのではないか。平等という名の下に施行される政策とは、競争原理に特化された経済合理性に有利なものなのではないか。だからそこでは必然的に格差という形で、旧体制のような階級社会を再現したものとなったのではないか。そしてそれはより見えない形で、この社会の深部に侵食し始めている。むしろ自由と平等こそが、旧体制のような分かりやすい悪役の存在を見えなくしている。それは、自由、平等、そしてヒューマンライツの元に庇護された権利が醸す匂い、そうそれらが醸す先進的でクリーンなイメージがそうさせているのだ。

 

しばしば、これらを合わせ持つ国家、個人は先進的であるという。しかしこれは正しい認識なのだろうか。しかしこれらを合わせ持つ国家、個人とは、実は競争原理や経済合理性に基づくリベラリズムとに親和性がある。平等の元に経済合理性を追求する事とは、すなわちそれだけ競争意識を内面化した上で、合理的に資本を蓄えていこうとする心理にインスパイアされるものである。また自由の元に経済合理性を追求するとは、以上のものに迎合され、その意識に拍車をかけるものである。このように自由と平等とは、経済合理性の号令の元に、個人が競争原理に加担するものである。つまり自由と平等は、必然的に格差を拡張するものとして機能する。

 

現代、格差を是正するものとして導入されている平等政策も、それは結果的に格差を押し広げる形で、社会にフィードバックされる。なぜなら、自由で平等な社会とは、それだけ競争原理と経済合理性とに親和性があるものだからである。そしてその行く先に格差は待っているのである。そう、さらなる拡大の末に、崩壊する現代社会体制の像を胸に。これは必然的な結果であろう。現代社会において、自由と平等とは、その体制を批判する際の大切な芽を摘むものとなっている。


批判不能は、その体制の腐敗をもたらす。つまり自由と平等の謳歌する社会体制とは、新たな監獄の誕生である。現代社会においては、フーコー的な道義的な相互監視ではなく、またそれらの一派として、今度はより良き理念として、自由と平等の旗を掲揚し、その威光により民衆を盲目にした上で施行される大義ある監獄社会である。

 

そんな社会では、自由と平等を掲揚した正義のために旧体制の名残りを批判し、解体させ、現代の体制に純化させる。しかしそれらは、自由と平等を称揚する為に善であり続け、他の批判の追随をも許さない。なぜなら、自由と平等こそは人類が旧体制から勝ち取ったものであるからである。だから、そのようなものを批判もする事は、旧体制側の人間のやる思考なのであり、過ちである。だからこそ許されないのである。そしてそのような親和性こそ、現代の格差社会の拡張するスピードを加速させている根本の原因である。

 

現代の自由、平等の理念こそ、格差社会の根源である。自由と平等の実現する社会とは、競争原理や経済合理性を迎合する体制である。それは、旧社会体制よりかも、もっと浸透圧のあるものとなっている。よって、自由と平等の純化した社会とは、より格差や階級に分け隔てられた、そして経済合理性に基づいた競争原理に特化した社会といえよう。しかしそれらも、自由と平等というもっともらしさによって批判不能に陥っているものである。そのような批判不能性こそ、現代体制の新たな監獄社会なのである。