心象風景の窓から

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日本の誇りとしての漢字熟語 〜英語公用語化は、なぜ問題なのか?No.2

施光恒・九大大学院准教授「英語押しつけで日本人は愚民化」-日刊ゲンダイ デジタル-

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/162236?pc=true

 

巷の本屋さんには、外国の学術書が所狭しと並んで居ますね。これは、日本の翻訳のレベルの高さを意味しているのです。が、今の日本で、国外の学術文献を日本語で読めるのは、明治維新後に当時の賢人たちが外国語の文献を日本語に翻訳し、さらにその大元となる漢字熟語を造ったからなのです。しかも、そういうモノが当たり前に流布されている国は、特にその当時はとても少なかったのです。

 

それに国外の学術文献を、それも最新のトレンドを母語で読める国もまた少ないのです。ましてや、岩波文庫、筑摩文庫、そして講談社学術文庫のような名だたる学術書が、一般の書店で並んでるのが常態化していて、またそういう光景が当たり前である国は、日本国外ではあまり見かけないようなのです。しかも文庫本というサイズで、そこそこリーズナブルな値段で買えるものとしては、破格のようです。また特記すべき事に、そのような学術書を、貧困層であろうが富裕層であろうが、あらゆる層の人が、お金さえあれば買えるような国はもっと貴重らしいのです。

 

現代の日本で、教育の場でも趣味の範囲でも学術が広く普及しているのも、一般の庶民が理解しやすいように、尽力した明治時代の賢人が居たからなのです。今読める学術書も、彼らの不断の努力による結晶なのです。そうこれは極端な話ですが、これまでの日本の勃興の源泉こそ、彼らの尽力が故と言えるのです。

 

特に明記しなければならないのは、国外の学術を「日本語に翻訳した」という事なのです。そこにこそ、当時の賢人が果たした重要な意義はあるのです。そして、そうした尽力と共に施行された重要な制度があります。そう、それは学校制度です。当時、教育勅語が謳われて、その号令の下に学校法が制定されました。そしてその号令と共に、そこへ大勢の人が甚大な労力を注いだのです。このような賢人の驚異的な学習力と、それを国民に広く普及させる為の学校制度こそ、それらは目くるめく時代の世界情勢と相関しつつ、日本国においては、富国強兵や殖産興業との政策と、相乗効果を生み出していったのです。

 

このように、国外の学術を母語である日本語に翻訳し、さらに学校制度を通して大勢の人が学ぶ事が可能になった、それは明治の賢人による賜物なのです。このような時代の流れにあって、結果的に、国民に広く学術を学ぶ機会を与えることになりましたが、それらは学校制度の歩みと共に、より広範に行き渡ることになるのです。しかも特記すべき事に、当時の公的教育の場のほとんどは、母語である日本語で行われていたのです。

 

そしてこのような、大勢の人たちの膨大な労力のお陰で、現代でも日本国として確固たるアイデンティティを保つ事が可能になるのです。かつてのように国外の文化を日本語に翻訳して、それらを自分の文化として吸収する。それも国外の言語に、まったく迎合するのでもなく、逆に自国の文化に翻訳して図太く吸収する。それはとてつもないエネルギーだったでしょう。またその甚大な底力こそが、当時、植民地支配が横行していた、動乱の時代を生き抜くための知恵だったのです。

 

このように欧米各国の植民地とならないために、当時の賢人たちは尽力したのです。それは、脅威である国の文化を、ただ恐れるのではなく、逆に学び吸収する事、そしてその途方もない努力が、植民地とならないためには絶対的に必要である事を、当時の賢人と高官は見抜いていたのです。つまり「敵を墜とすためには、まず敵を知れ」という事です。

 

そのように植民地とならない為に、当時は一心不乱だった。この当時を無くして、現在の日本は、おそらく存在していなかったでしょう。当時の賢人、そしてなによりその時代の潮流に大勢の人が尽力した事、これらの出来事がなければ、とうの今頃も日本はどこかの国の植民地だったでしょう。この事は、歴史家にもそう言っている人がいますね。

 

また、当時の欧米列強国と肩を並べる事が出来たのも、ただ運が良かっただけではありません。それは当時の欧米列強国の知識や学術を、日本語で学び自分の身に吸収したという事が、その大きな理由の一つとしてあるのです。決して欧米各国に迎合しなかった。この事が、その後の日本国の運命を決定的に変えたのです。

 

しかし欧米各国から学術を学ぶにはまず、国外の言葉をマスターする必要がありました。なぜなら、その当時は、翻訳もなにもなかった時代だったからです。国外の言語を学ぶこと、それは必須でした。だからまず欧米各国の言葉をマスターしなければなりませんでした。そのような習得なしで、国外の最新のトレンドを学ぶのは不可能です。それもマスターしなければならなかった言語は、ただ英語だけではありませんね。それは無数にありました。

 

その当時、ドイツ語やフランス語など、その国の言語を学ばなければ、一片もその本義を身に出来ないような最新の学問に溢れていました。それを当時の政府は各国の語学に精通した人を集めて、各国に派遣し回りました。その中には、かの夏目漱石もいました。彼もそういう名目で派遣され、当地でノイローゼになった逸話は有名ですよね。

 

そして視察団が帰国した際に、次々と欧米各国の科学や思想を翻訳していったのです。そしてその時に大量に造られたのが、現在、巷にも溢れている「漢字熟語」なのです。欧米各国の科学や思想の翻訳こそ、その視察の本当の目的であり、そして大きな成果です。そのような成果により、漢字熟語が大量に発明され、その絶大な利便性と、学校制度が開始された時代の流れとに相まり、学術はより一般的な形で行き渡る事になりました。

 

またそれらは、一般庶民の為により噛み砕いた形に集約され、それは「学問」と言われていました。それは、学術の本質を広く国民に普及させるためのもので、今で言うところのハウツーに当たるものでした。それも当時の国民に広く行き渡る事になります。その契機となった書籍の中でも、福沢諭吉の「学問のすすめ」は有名ですね。あれは学術のスタイルを、生活の知恵レベルにまで、還元化したものでしたね。

 

そういう国民に分かりやすく学術の本質を学んでもらいたい。それはアテネ文庫というシリーズにも、その意向が反映されていたりします。これは現在でも復刻版として再版されています。また、富国強兵や殖産興業といった政策の一環でもあった、欧米各国の学術書を翻訳するという作業にこそが、ここはあえて端折った言い方をすれば、その功績で、現代の世界情勢にまで影響を与えてもいるのです。それほど、明治の時代に造られた漢字熟語は貴重なものなのです。

 

つまり以上のような明治の史実にこそ、現代の日本に引き継がれるべき精神が宿っているのです。かつて江戸の鎖国という保守的な時代から、ときの明治維新の開国により、その瞬間から膨大に異文化を取り入れるようになった。それも植民地支配の魔の手が、刻々と迫り来るひっ迫感の中でです。それは、甚大なエネルギーであったでしょう。でも、筆者の知識的な技量と紙面の兼ね合いで、どうしても掻い摘んだ形となってしまいました。

 

そして、ここで参照の記事に話しを合わせると、以上に書いた内容にこそ、日本の右翼の本性を成すものがあるとも言えるでしょう。しかし、今の総理が改革を起こそうとしている、大学での英語公用語化の案も、かつての賢人による不断の歴史的尽力の鼻を、結果的にへし折る事になるのではないでしょうか。異文化の膨大な翻訳、またはその甚大なエネルギーにこそ、連綿と続く日本の歴史に精通する魂があります。よって、その翻訳の賜物である漢字熟語こそ、その日本の誇りが、濃厚に結晶化されているのです。だから、この不断の精神を、決して途絶えさせてはならないのだと思います。

 

このように日本の歴史の叡智が濃縮されている漢字熟語を半ば廃止し、公用の一部を英語に一本化させる、このような事態は、これまでの圧倒的な歴史的努力の結晶を、全て葬り去るのと同じなのだと思います。それでこの参照の記事で言うところの「英語圏への隷属」というのは、このような明治開国以来の、日本の不断の努力の精神を、蔑ろにするという訴えなのではないでしょうか? 日本国の勃興という歴史的な誇り、それを象徴するするのが、当時発明された漢字熟語なのです。

 

日本語という母語公用語として、現代でも存立しているという事と、そして高等教育を、その母語である日本語で学ぶ事が可能であるという事、それらは、たんに偶然なのではありません。侵略しては国を拡張し、侵略されては、富や、挙句の果てには伝統もが丸ごと潰されるという、怒濤の歴史の渦中でも、日本という国が確かに独立を続けているのだ、という証なのです。

 

現在の日本のように母語が隅々にまで公用されている、しかも高等教育までも母語で行なう事ができる。このような国は、意外とあまり存在しないのです。よって、このような事実こそが、日本という国が豊かに成立しているという事、また、一国として独立出来ているという証となっているのではないでしょうか。