心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

大学の英語公用語化は、なぜ問題なのか?

本稿は、大幅な改訂をしたため、以下のアドレスにお引越ししました。よろしくお願いします。

 

グローバリズムを生き残る 〜英語公用語化は、なぜ問題なのか? No.1

http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2016/10/15/075332

 

日本の誇りとしての漢字熟語 〜英語公用語化は、なぜ問題なのか?No.2

http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2016/10/15/075954

「皮膚」を脱ぐ為の表現行為 No.3

思想
編集
【「皮膚」を脱ぐための表現行為】は、大幅な改訂をしました。
なので、以下のアドレスにお引越しです。
よろしくお願いします。    

                ブログ管理者 みやすけ


「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part1
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/120933

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part2
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/121234

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part3
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/121441

「皮膚」を脱ぐ為の表現行為 No.2

【「皮膚」を脱ぐための表現行為】は、大幅な改訂をしました。
なので、以下のアドレスにお引越しです。
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                ブログ管理者 みやすけ


「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part1
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/120933

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part2
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/121234

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part3
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「皮膚」を脱ぐ為の表現行為 No.1

【「皮膚」を脱ぐための表現行為】は、大幅な改訂をしました。
なので、以下のアドレスにお引越しです。
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                ブログ管理者 みやすけ


「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part1
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/120933

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part2
http://miyasuke.hatenablog.com/entry/2017/07/14/121234

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part3
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サービスはタダという意識について

日本人は、ちと働き過ぎなんじゃないか? そう周りの国からよく言われているみたいですね。でも、あくせく働く割にはなんだか景気もアレだし、最近は国際的な経済ランクの方も? みたいな事もありました。こんなにみんなが働いてるのになんで? その原因を探ろうとする究明はいろんな方面から仮説が立てられています。

 

その原因を、ニートが増えたからだとか、引きこもり、やれ専業主婦だのと、なにかと無生産の人たちを揶揄するような言葉も多くなっていますね。そして女性活躍推進とも、ときの政府からも言われるまでになりました。景気の低迷もみんなが働けばなんとかなる。だから働かないでダラダラしてる人はダメはなんだ。働かなくちゃ! と、なんだか日本中がそういう切羽詰まった声で窮屈になってきています。

 

しかし言っても生産している人の方が圧倒的多数なんですね。大抵の人は働いてる。世間から尻を叩かれるそんな無生産な人は極々少数な割合なんです。ではその圧倒的な多数の人々のその動員にも関わらず、なぜいつまで経っても景気が悪いと言われるのでしょうか? それは、みんながあくせくと働き過ぎる割には、ムダが多過ぎるのではないかというのが、みやすけの感想なんですね。

 

みやすけはかつて喫茶店でウェイターをやっていました。で、そこのオーナーからは、勤務時間内は、とにかくヒマな時間は無くすように言われていました。なのでお客さんが少ない時でも、すでに綺麗なカウンターとかを、ひたすら布巾で磨いていました。

 

仕事というのは、大まかにいえば物やお金を生産し、それらをやり取りする事です。かつて働いていた喫茶店にとっての仕事とは、お客さんに食べ物を注文して頂き、それに応じて料理を作り、その出来立てをみやすけがお客さんに運ぶ事なんですね。その一連の中で、お金のやり取りが生まれてお店に利益が入ります。

 

でも単に料理を作るだけでは味気ないので、食物の素材や味を凝ったものにしたりしますよね。また料理を運ぶ方も、それだけでは、なんだか機械的なので、笑顔を作ったり、声も優しくトーンを落として対応したりします。単なるお金のやり取りを味気なくさせないようにするために、このようにお店は、お客さんのために色々と嗜好を凝らします。これをサービスと言うんですね。

 

で、とりわけ日本の場合は、このような気配りや嗜好は、実質タダでしてくれます。サービスだからタダなんでしょ? 当たり前だよね。これが実質的な日本人の合意なんですね。言ってもすべてはお客さまありきの商売です。だからすこしでもお客さまに満足してまた来店して頂くために、お店側は、精魂込めてサービスをするのです。しかもその料金はタダです。せっかくのおもてなしにお金を払えというのは厚かましい、そう日本人は考えてしまうのでしょうか? では、外国ではどうでしょうか? 向こうのウェイターさんウェイトレスさんは、お客さんに良い接客だと認められたら、お小遣いをくれたりするらしいですね。そう俗にいうチップというものですね。つまり外国ではサービスはタダじゃないんです。それに似合ったお金をくれるわけです。

 

このような、日本のようにサービスはタダなんでしょ? おもてなしにお金を払えとは厚かましいと鼻を高く括るのか、また外国のように、サービスしてくれたらそれに似合うチップを渡すべきでしょ? と思うのか、というこの意識の差こそ、仕事がムダになるのか、また生産的になるのかの分かれ道になるんだと、みやすけは思うのです。

 

今でもここ日本では、溢れんばかりのサービスがあります。大抵のお店では、優しくきめ細やかな接客をしてくれます。そんな日本では、サービスをする事こそが仕事なんですね。サービスしてくれない店は、ケチだと陰口を叩かれます。でもそのサービスにはお金のやり取りはありません。お店に感謝する割には、その対価を渡そうとはしないのです。なぜなら、そうしてもらって当たり前だと思っているからです。でも愛だけじゃお店は経営できませんね。

 

よく日本人は働き過ぎだと言われています。でも仕事とは、本来はとても単純な作業なんですね。その単純な作業というものも、数的には、実はあまり多くはないのです。喫茶店の仕事も、単に注文に応えてそれに応じるだけなんです。オーダー訊いて、それを作って運んで、食べ終わったら会計を済まして、気分良く帰って頂く、それだけですよね。でも仕事をするというだけではなんだか味気ないので、大抵のお店は、めいいっぱいのサービスをして、お客さんにおもてなしをしようとします。

 

よく言われる日本人の働き過ぎとは、このようなサービスの過剰さにこそ、その本質があるような気がします。それも大抵のサービスはタダなんです。それでは気疲れだけが残りますよね。しかも儲からない。そのような気疲れと儲からなさこそが、景気が低迷したままの原因なのではないか? そうみやすけは感じます。タダのサービスばかりが膨大になり、そこには生産が生まれていないのです。

 

なので、今の日本人の仕事ぶりは、実質的には無給と変わらないのかも知れません。日本人は働き過ぎだと、よく言われるのですが、その働き過ぎる仕事の内訳をよく見てみますと、実は単純な仕事が多過ぎるのではなくて、実質的には、無給のサービスが多過ぎるのではないかと思うんですね。

 

これは一面的なものの見方なのですが、とどのつまりここの部分にこそ、みんなが毎日毎日あくせくと働けども、日本の経済が、いつまで経っても儲からないカラクリがあるのではないかと、みやすけは思ってしまいます。現状のようにサービスなんてタダでしてくれるもんでしょ? 当たり前だよね。という意識が、みんな変わらない限り、日本の経済はいつまでたっても儲からない。また働いている人も、なんの利益も発生しないサービスに追われているだけで、なんだか忙しい割には、給料は低いままなんです。このように今の日本では、こんなサービスだらけの世の中の割には、なんの対価も貰えずにいる。だから働くだけ働くけども、その苦労もお金にはならずみんなが疲弊しているのかも知れません。

被災者にこそ、性欲を満たす為の支援が必要ではないか 〜熊本地震で思う事こと〜

被災地域への支援というと、食料とか衣服であるとか、最近では女性の生理用品の事とかも話題になってるみたいですね。でも、みやすけは一連の報道で、ふと疑問を感じました。じゃあ、被災地域の人たちって性欲はどうしてるの? と。

 

性欲とは人間の三大欲求といわれるもので、食欲、睡眠欲、そして性欲と並び称されるものなんですね。被災した地域には大量の救援物資が送られてきます。それは食べ物であったり、生活の必需品などらしいのです。が、その三大欲求の一つの柱である性欲に関する物資が救援されているという情報はまったくと言っていいほどに入ってきませんよね。では、そのデリケートな部分を、被災した方たちはどうしているのでしょうか?

 

もしかしたら被災地域に、アダルトグッズとかを救援してるNPOとかがあるのかもしれません。でも、その報道はありませんよね。特に被災地域で不足するものというのは、食料や衣服はもちろんの事です。そしてその事に関しては連日よく報道されていますよね。でも被災地域で、圧倒的に不足するのは、実は、アダルトコンテンツのような気がするのです。でもその事はメディアは折にも触れていません。そんな中で、救援物資により食欲や睡眠欲はある程度満たされても、性欲だけは満たす事が出来ていないのではないかと思います。

 

被災して家を失った人たちには、プライベートを確保するための個室はおろか、壁も無いと思います。そんな中で、性欲だけが人知れず溜まっていく。でも人の目があるので発散のしようがない。相談も出来ない。そんな中で、性欲をうまく発散出来ずにムクムクと、その欲求だけが膨れ上がっていく。想像しただけでも、とても恐ろしいです。

 

それに、人間の性欲というのは危機的状況の方が高まると聞きました。それを抑圧しながらも、何ヶ月も、ヘタをすれば何年間もの間、被災した人たちは耐えてるわけですよね。それと被災地域では、とりわけ性犯罪が多発するというような話も聞きます。その事を巷のライターは、被災地域では人間は変態化するというような事を書いていたりもします。でもよく考えてみれば、これは現実を名付けるだけの短絡的な切り捨てだと思います。そういうライターは、事実を書いているわけではないのです。恐怖と未知を煽っているだけです。それはライターがやってはダメな、現状の歪曲化です。

 

被災地域への支援は食料はもちろん、その生活にはそれなりの必需品もいります。でも、性欲をどう発散させるかという問題も、また深刻だと思います。それもたやすく他人に相談する事のできない内容なので、なおさら深刻なんだと思っています。

 

ではよりリアルな現状とはなんでしょうか? それは現地では、性欲をうまく発散させる場所やアダルトコンテンツが圧倒的に不足しているという事ではないでしょうか? このような実情こそが、一部の人を性犯罪に走らせる元凶なのではないか、みやすけはそう思いました。性欲の問題、これは男性だけではなく、女性もまた同じ悩みを持っている事でしょう。そして、このような現実が考えられるからこそ、被災者にアダルトコンテンツの支援は必要なんだと、みやすけは思っているのです。

犯罪を防ぐ為に大切なこと 〜犯罪を通して苦境から人を救う眼を持つこと〜

officerico.co.jp

 

前もって伝えておくが、みやすけは、犯罪者が、単に人権が守られるべき存在だからだとか、可哀想な存在だからだと擁護したいのではない。

 

よく巷の人々は、犯罪者は異常だから厳罰を死刑をみたいな、スローガンを掲げたがる。が、とうの犯罪者の過去を見てみると、凄惨なケースがとても多い。これはまぎれもない事実ではあるが、だからといって、どのような犯罪も許されるという事をここで言いたいのではない。しかし、犯罪に対して厳罰化されたとしよう、それで犯罪が減るだろうか。それは違うだろう。ただ、夕方のニュースで厳罰に処される犯罪者に対して「異常者!」とニヤける視聴者の姿があるだけだあろう。果たして本当にそれで良いのか、それが本稿での主張である。

 

よく世間では、犯罪が起きる度に、被害者側のポジションに立った犯罪者への応酬が、あちこちで繰り広げられている。そこでは犯罪者をとことんあざ笑い、侮蔑を浴びせかけている。しかしそこには醜い感情の応酬があるだけである。犯罪者に対して感情をぶつける、このような報復で本当に犯罪は減るのだろうか。

 

仮に、ある人間が凄惨な過去がきっかけとなり、犯罪を犯してしまったのなら、第三者である我々が眼を向けるべきなのは、そこの部分にこそある。みやすけはそう主張するだろう。しかし、いくら凄惨な現状に見舞われていても、全ての人が犯罪に手を染めてしまう事はない。それは正論である。が、現にそれが故に犯罪に手を染めてしまった現実がある限り、第三者の我々が、見つめなければならないのは、犯罪者のそうした凄惨な過去の方ではないのか。以下、さらに詳述をしてみよう。

 

「犯罪者には厳罰を!」そうした主張は、実際には犯罪の抑止ではなく、視聴する側のエゴを増長しているだけだと思われる。連日、テレビに放映される犯罪者。その彼らを異常者だと嗤い、エゴを満たしている、そういうとうの視聴者の姿こそ、本当の人間の醜態のように見える。それでも犯罪は、あってはならない事態だ。それこそ正論である。しかし、犯罪者のかつての凄惨な体験が、実際にそうさせているのなら、単に厳罰に処して、見捨てるだけではまるで意味がないだろう。後日、犯罪者の凄惨な過去が明らかになったとすれば、第三者である我々は、そこから学ばなければならないだろう。それは、かつての犯罪者と同じ境遇に置かれている人達が、まさに今、見えない場所で、存在しているという現実を。そしてそんな彼らにこそ、放映される犯罪者を通して、我々は眼を向け、救いの手を差し出さなければならないという事を。

 

犯罪者を嗤い、切り捨てる事はとても簡単だ。しかし、厳罰化で本当に犯罪が減り、世の中が平和になるのだろうか。仮に、犯罪者をあざ笑っても、そこには虚しい快楽しかない。それでは却って世の中は不健全になるだろう。そうした視聴者は、かつて犯罪者の置かれていた、凄惨な過去を見つめる事にこそ、本当の犯罪抑止に繋がる事を、よく知っておいて欲しいと思う。決して、単なる人権どうのこうのではない。それは凄惨な境遇に置かれている「他の存在を知る」という事である。

 

テレビで放映される犯罪者を嗤うその眼は、世の中に大勢存在しているだろう。むしろそのあざ笑う眼が、凄惨な状況に置かれている見えない他の存在に対して盲目になっている。このような犯罪者をあざ笑う視聴者の眼が、周囲に対して盲目になっている、そのような状態こそが、新たな犯罪を生む事に、加担しているのだ。放映される犯罪者を通して、我々に出来る事は、同じような凄惨な境遇に置かれている、見えない人達の存在を知る事である。


犯罪者は日頃の鬱憤を晴らす為の便利なサンドバックではない。だから今、我々がしなければならないのは、犯罪者に対して向ける嘲りから、その眼を解放する事である。その眼は、同じ凄惨なる境遇に置かれている人々に対して向けなければならない。そしてその苦境から救う為に、手を差し伸べる事である。そうそれは、彼らが将来、犯罪という誤った道に進んでしまうのを止める為の抑止力になるだろう。このような事を踏まえてこそ、犯罪者を視る眼なのであり、そしてその眼はいずれこれからの犯罪の抑止に繋がるのだと思っている。