心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

現代の政治で国民は平等になれるのか? 〜「地域スケール」と「政治的ビジョン」から見た対立という構造〜

最近のマジョリティとマイノリティで問題に感じるのは、地域性と政治性の両テリトリーが占めるフィールドをごちゃ混ぜにしてる所ではないかと、みやすけは思っている。人間が、ある地域に包括される事と、ある権力者が一国を統治する事は微妙に違う。それを解りやすく言えば、全く面識もその得体も知れない他人が隣に住んでる事を受け入れられている事と、またその住民が権力掌握してガナって来るのとはまたその時の対応は違うだろう。地域というコミュニティーが大まかに「和」を基調としているテリトリーであるのなら、政治というフィールドとは、いわばもっと緊密にコミットした形式を基調としたグループであろうと言えないだろうか。

 

そして更にこれを一般に昇華した話にすれば、マジョリティとマイノリティがお互いの差を認め合って共存可能にする為には、制度という骨組みを改革する為に、政治的ビジョンに深くコミットする事も必要だ。が、しかしそれ以上に地域性の問題をも同時にピックアップする必要がある筈である。

 

何故なら、政治的にしてもそれが広く社会的であろうとも、人間の住む「地域」という場所が無ければ、先ほど書いたようなどのようなフィールドも、その存立は不可能であるからだ。でも、それが社会的にマクロなスケールに拡張され、その際にどうのこうのとなっても、必ずやそこにパワーバランスは発生する。また仮に、それが政治が管轄するフィールドともなれば、そういうパワーバランスがよりトランスな形で社会的構造を構成していたりもする訳である。

 

それにマイノリティの運動というのが、果たして、地域のご近所さんの世間話に参加したいなというレベルのものなのか、はたまた社会的な全承認の上で、政治的な場で統治機構にコミットしたいのかを、丁寧に分けて考えなければならないだろう。特に、みやすけが今まで閲覧してきた大抵の文献では、このような地域スケールと政治的ビジョンが混在し、ついには両者のテリトリーが混同されて書かれていたものが多かったように感じていた。がしかし決して、議論の中に地域スケールと政治的ビジョンがある事に違和感があるのではない。要は、その二つのテリトリーが丁寧に扱われていなくて、それらが漫然と使用されているという事に、この疑問の核心はある。つまり、地域スケールの現実性と政治的ビジョンの理想像が、悪いように作用し合っているように見られるという事こそが、みやすけの問題提起なのだ。

 

しかし、確かに地域スケールと政治的ビジョンが語られること自体には、もちろん現実性はある。だが、せっかくの地域スケールの現実感が、あやふやな政治的ビジョンでぼやけてしまい、その結果、宙に浮いた理想論的なイメージが先行してしまっているという、その事に問題があると見たのだ。そしてその視点は、もちろんその逆も然りである。つまり、二つのスケールが林立するという所までは良いのだが、しかし時として互いのミスマッチな部分が、互いの良い意味で語られている現実感を、結果的に、地に足の着かない理想論的なベースにまで矮小化させ合っているのだ。

 

それとマイノリティとマジョリティというのが、基本的にパワーバランス上の相互作用というフレーズで社会的にシェアされてる語である限り、存在の相互理解を理想形とするインターカルチュラリズム(※)で幾ら取り繕うとも、その本義からは逸れるだろう。ましてや現代の統治機構そのものが、対立と闘争で成り立っているものである限り、支配被支配のようなパワーゲームは大小様々な分野で残り続けるだろう。

 

そのようなパワー構造が暗黙の裡に広くシェアされているのであれば、地域性がどれだけ豊かになろうとも、そのまま個人の政治的寛容さにフィードバックされる訳でもない。そう、地域で安心して平凡なる暮らしが立てられていても、現実性のある政治感覚、いうなれば、そこに政治的ビジョンが反映されている訳では無いというように。むしろ一般の政治感覚とは、時折、放映される選挙特番のような「年に一度のお祭り」のような感覚なのではないか。

 

このような特に現代の政治のように、少数の統治者を国民の中から擁立するような、代議制民主主義という制度で成り立っている限り、マイノリティとマジョリティという不平等は無くならないだろう。むしろそこには権利と利益の奪い合いのような無限の闘争があるだろう。しかし、それは政治的フィールドでの話であって、いつも挨拶をしてくれるご近所さんのような地域的ミクロスケールであれば、またこの感触が違ってくると思われる。その証拠に、地域の人と交流する時に、その当方が政治的に絶大な存在である必要性はないし、仮にその当方に政治的なイニシアチブを持っていても、その権力が地域のミクロコミュニティに単純に還元されるかといえば、また少し話は違うであろう。

 

またマイノリティとマジョリティ間の不平等を是正する為に、機会均等を求めるのであれば、それは別にマイノリティであるかマジョリティであるかは、あまり関係がないと思われるのである。差別されている権利が保障されている、または支配されているという状態は、あくまでも相対的なモノの見方であって、そこに絶対性などは無いからである。むしろ、それは例えばマイノリティが頑としてそのような弱者の立場で絶対化してしまう事態にこそ、そこに逆差別的な作用が存在するというような事も、時として言えるのである。

 

そして、このような観点を今一度敷衍して再び見てみると、マイノリティが絶対的な弱者であるという想定の上で、また彼らに対してだけ、政治がプロデュースをするから、結果的には、マジョリティに対する逆差別というように、負の構造が連鎖してしまっているのだ。しかしまた、とある属性に対する差別とそれが故の不平等の撤廃を標榜していた筈の平等という目的が、いつの間にか、機会の方でなくて、結果を示す数値の是正に置き換わってるから、また事態は一層ややこしくなっている訳である。

 

また仮に、地域の中であれば、どんな人間であろうとも「あら! 変わった人ねー」で済む事でも、政治の場であればきっちりとした対立構造に組み込まれる訳である。なぜかと言えば、政治で物事決める為には、まず与党に躍り出る必要もあれば、またその中でも首相とか大臣とかも選ばなければならず、そしてその為には更に政党のような徒党を組む事も必要だからだ。

 

〜参照記事URL〜

(※)基調講演「インターカルチュラリズム」とは何か 

ケベック、そしてグローバルな観点から ジェラール・ブシャールhttp://www.jripec.aoyama.ac.jp/publication/journal/jnl005_02.pdf

 

参加型民主主義と文化的多様性の概念的混同について 長山智香子

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/2010/pdf/session4/j/nagayama_j.pdf

人間が人間を裁く事は可能か? 〜不完全なる人間が、神の視座にひざまずく時〜

本来、人間は人間を真の意味で裁く事は、不可能である。また人間は人間を裁きをしていけない。司法の概念が生まれたのも、人間が人間を裁く際に、度を越した応酬とならないために整備されたものが最初の筈である。このような度を越した応酬は、ネットでの私刑を見てみれば判るだろう。あなたは、何かの事件が起きるたびに、どこからともなく私刑を行い、それに酔い痴れている人たちに、異様さを感じた事はないだろうか。人間が人間を裁くとき、あのような欺瞞は、絶対に起こる。だから、法の概念と、それの臣下にある司法システムは、一般の人間から人間を裁く行為を取り上げたのだ。人間が人間を裁く原理があまりにも自由になりすぎると、あのような人間の無闇さをさらけ出すのだ。

 

人間が人間を裁くのは、本来絶対にしてはならない事で、それは神にしかできない事である。人間が人間を裁くとき、そこには絶対中立性が必要になる。しかし、人間には、このような器量を本質的に持ち合わせてはいない。その事から、絶対中立なる概念こそは、神に所以するものであって、そのようなものを、一人の人間が振りかざす事は、絶対にあってならない。司法の意義とは、そのような神の観点を拝借する事にある。そしてそれを司るのが、裁判官という役職なのだ。裁判官なる役職とは、いわば神の領域を代行する事に、その意義があるのであって、それはいわば神事を執り行う事と同質なのだ。裁判官は、裁判において、そこでは人間としてあるのではなく、神に従う神官としての役割を引き受けるのだ。

 

日本では、基本的に裁判官は、実質的に公務員扱いだが、そもそも裁判を公務員が執り行う事自体こそが、大きく間違っているのであって、それこそ神の領域を冒涜する暴挙である。裁判こそ、神事であるべきで、それは裁判官ではなく、神官が執り行うべきだと思われる。日本の裁判官が、審判を行うに際して保持する人間性にこそ、日本の司法システムを腐敗させているのだ。それに日本の司法での「有罪確定率99.9%」という現状は、そもそも司法システムの不全性を示すものであって、半ば裁判官は、裁判をしていないのと同等なのだ。このような現状を見るに、日本の司法制度においての審判の意義とは、半ば、流れてくる書類に判を押すだけのような、流れ作業に、その本質があるように見える。

 

本来、「疑わしきは、罰せず」という言葉があるように、逮捕、嫌疑での段階では、容疑者はなんの罪の意識を持つ必要も、また罰する視線に晒される所以もない筈である。よく世間では、「逮捕」され抑留された人に、侮蔑を送るが、そもそも「逮捕」とは「嫌疑をかけられ、一時的に拘留されている状態」を指すのであって、犯人だから逮捕というのでは決してない。また逮捕されたから、その人は犯人であるという認識は、根本的に間違っている。そこを正しくいうなら、「有罪判決を受けたから、その人は犯人」というべきである。そこの部分が、特にメディアでは、全く認識も共有もされてもいない。「犯人逮捕」という報道は、絶対に慎むべきだ。「逮捕」という状態と「犯人」という判決とは、全く同等であり得ないし、またそうであると思いこむのも、絶対してはいけないからだ。特に、日本の司法制度やそれを司る人間は、人間が罪を背負うという事に対して、あまりにも軽く見過ぎている。ある人間の下される罪が重いのなら、それと同等の厳粛さを全体が共有すべきだ。

 

人間に対して罪を審判できるのは、そもそも「神だけ」であるのに、その権利を一般の人間が無闇に、さも当然のごとく行おうとするのは、それこそ神への冒涜である。またそれは、人間の持つ欺瞞であり、傲慢さでもある。人間が人間に裁きを加えるとき、そこには裁きを与えた人間に対する罪をも発生する。そのような裁判官の罪を意識させるために、ある国では、裁判開始時に聖書に誓いを立てる。それは、人間の愚行である私刑を遥かに凌駕する、神聖なる領域に、人間が侵す事に赦しを請う行為であるとも取れる。

 

人間を裁くのは、ネットで個人情報を晒すのでも、またその個人をバッシングし侮蔑するのでもない。それは、人間の持つ傲慢さが現れているものである。また、あのような私刑こそは、当然の如し制御されるべきものであって、そういう事態は存在してはならない。司法システムの意義とは、このような人間の持つ不完全さや、欺瞞性を、全能なる神の視座に、一旦返納した上で、再度それを畏敬の念を持って拝借する事にある。そもそも神が全能である意義とは、人間の不完全性を意識し、またそれを制御しようとする事にある。本質的に不完全な存在である人間は、不完全であるからこそ、絶対的権力を掌握するのではない。それはあってはならない事だ。そのような全能感を、一旦、神に返納した上で、人間という不完全性を内観する事にこそ、神が全知全能である意義がある。

 

神が全知全能であるからこそ、人間は不完全な自己に対して内省を可能にさせる。また不完全であるが故に起こりうる、人間としての自分の愚行や欺瞞をも、見つめ治そうとする気概をも生まれる訳だ。そのような全知全能の存在こそが、人間に不完全であるが故の「原罪」をも意識させるのだ。そのような流れで、それらを深く見つめ、そして探求し、人間という不完全なる存在を俯瞰しようとする、アカデミズムなる思想が、勃興もしたのだろう。

 

なので、自分こそが裁判官にでもなったつもりで、容疑者に対して侮蔑を送るのは、もう止めなければならない。そんなあなたは、絶対的に中立でも、また公平なる立場にいるわけでもない。それは神のみの視座である。また、そのようなあなたの誤った全能感こそが、人間という存在を、さらに深刻な罪へと導くだろう。

投票率が上がると政治的パフォーマンスも向上するか?

政治の事を語りたいのなら、まずは選挙に行きましょうと、そして選挙に行かない事は、国民として愚かな事だと、ある人々は言う。しかしそれ以前に、本質的な部分で国民の政治に対するレベルが、週刊誌並みに下落したものになってる感じもまたする。政治家をあげつらってただ嗤ってる、そこに自分の政治的スタンスとか、そこに参加している実感のようなものが、国民の間で希薄化してる、そんな気がするのだ。

 

選挙でいう投票というのは、いわば意思表明する事であって、その意思表明とは、ただ目の前に出されたものを選ぶという事で発生するものではない。それは自分の日頃の政治的スタンスをいかに固めた上で、どのように表明するのかという事でもある。今日は投票日かあ、えーと誰にすっかなぁ、では実は選挙にすらなってないのだ。

 

また、投票日には、何が何でも行かないといけないとか、投票しないなら政治の事を語るな、とか言う人がたまにいるけど、そもそもスタンスもあやふやで意思表明の無い投票こそが、選挙制を根本的に無力化しているのだ。選挙そのものは、政治への日頃のアクティビティーを表明する場であって、そういう目的の無い投票は、いくら数が多かろうが、それは無投票と同じなのだ。そもそも紙にただ名前を書く行為を選挙とはいわない。

 

本当の政治の問題とは、投票率うんぬんよりかも、選挙自体がまるで、年に一度のお祭りであるかのようなイベントと化しているという事にある。例え、投票率が高かろうが、そこに日頃の国民の政治的スタンスが表明されていない時点で、その投票には、民主政治を全く反映もされていないのだ。また極端な話ではあるが、そこに国民の政治的スタンスがしっかりと表明されているのなら、例え戦後最低でも全く問題は無いわけだ。投票率低下に見る国民の政治の無関心というが、投票率が上がった所で、そこに何も反映が無ければ、投票率上昇に伴う、国民の政治に対する無責任さは、回避出来ない。

 

政治を連想するときに、ある人はすぐに、それは派閥同士が果てしなく陣地を奪い合おうとする争いの場である、というようなニュアンスで語ろうとする事も多いが、それは間違いである。本質的に政治とは、反対派、賛成派、左翼右翼を含めて、それらの派閥が切磋琢磨して、その場を一緒に造り上げていくという事に、その醍醐味があるのだと、みやすけは思う。

 

今の安倍内閣とか、またそれに対する国民の批判(否定?)、そして無関心ぶりを見ていると、この事態は、安倍内閣の愚行どうのこうのではなくて、安倍内閣そのものが、実は、政治的スタンスのあやふやな国民の鏡写しなのではないかと思ったりもするのだ。国会中の議員の寝姿、そしてヤジを撒き散らして、議会の集中力を散らそうとするその様は、現状の国民の民度をそのままの姿で写したもののように見える。つまりは、現状の安倍内閣の姿こそ、政治をみんなで造るという発想を忘れた、国民のスタンス無きあやふやなる姿が、無残にも映っているという事なのかもしれない。

福祉政策の本義を再考してみる

昨今、北欧の福祉がもてはやされているので、ここでみやすけが思う事を書こうと思う。巷には、北欧は福祉が隈なく行き届いている。医療、教育、生活において、その国民は、日本の国民と比べて、比べ物にならない程の高福祉の制度に守られ、人々が幸せに暮らしている。だから日本も、それに見習うべきだ、そんな事を云う人たちがいる。

 

でも北欧の場合は、福祉を充実させる分、所得、消費に占める税金の割合が格段に高い。特に消費税などは、そうで、それは娯楽とかにももちろん掛かってくるから、その分、娯楽の幅はとても狭いという話を訊くし、しかも仮にあったとしても金額が高いから、あまり人が行きたがらないとも訊く。このように北欧の人々の幸福を支えている高福祉の裏側には、高税率という軸があってこそ成り立っている面がある訳である。だから日本も北欧と同じ水準の高い福祉を実現する為には、消費税などの税率を大幅に上げなければならないという論調もある。しかし人口比と、地政学な見地から、単純に体制の枠組みを当てはめただけの議論は不毛だとの論調も見られる。と、ここまでは、反論としてよく巷で聞かれる論調だ。しかし、みやすけが重要に思うのはここからだ。

 

一般的に福祉政策というのが、特にとある巷の言論の界隈では、窮地に陥った人が最後に国から保障されるべき安全網のようなニュアンスで語られる事が多い。が、実は、福祉ないし福祉国家の成立の歴史的な経緯では、福祉予算という枠組みには、実質的には人間への投資というのがその本義にはある。これはどういう意味だろうか。一般的に、国家の掲げる予算には、大枠には教育や軍事などの、制度の枠組みに投機するというニュアンスのものがある。そしてそれに対して福祉というのは、その同じ動機を人間に対して行われるものの事をいう。また、あらゆる国家予算は将来への投資というニュアンスもあるが、それは国家の運用は、適正な予算の配分によって円滑になるという理念の下にあるものである。このように国家予算とは、端的に一国の経済効率を上げる為に練れる政策であるともいえる訳である。

 

そして、このような政略の動機と同じように福祉という予算の枠組みも存在する訳である。つまり、福祉予算とは、人間への直の投機であって、つまりはこちらがお金あげるから、これで心身のコンディションをきちんと整えて、それからしっかり働いて、いつかは経済に貢献して欲しいという思惑が先行している訳である。このように福祉政略の本質には人間への投機という目的がある。それは単なるセーフティーネットではない。またある意味、福祉とは経済政策上の延長に位置するものであるともいえるのだ。そして一般の議論では、高水準の福祉という響きは、耳触り良く聴こえるが、しかしより深く洞察をすると、逆にそれはとても経済に特化した政略であるとも取れる訳である。またそれを別でいえば、経済効率を上げる為にその他のムダを極力排除しているという事でもある。だから北欧で消費とか娯楽とかの分野での税率が特に高いというのは、こういう訳なのだろう。とどのつまり、国が高税率で徴収したほとんどのお金は、実質的には、経済活動優先に運用されているという事なのだ。

 

それに福祉国家というのは、基本的に、お金を人間へ直に投資する事で、その投資金が、結果的に経済効率に還元される事を目的とした国家の事をいう。経済あっての国家があるように、国民が稼ぎ出したお金は、税金で徴収され、そのお金は次の運用に回される。ここまでは、どのような体制をとる国家でもまったく同じだ。しかし福祉国家というのは、このような能率を更に純化させた形態だとも言えるのだ。そしてこのような枠組みの中で、福祉を受けるとは、ここまで生活を保障してあげるから、その分、また後で一生懸命働いて、経済に還元して欲しいと言われているようなものである。つまり北欧のような純度の高い福祉国家というのは、その分、経済効率に純化された国家であるといえるのではないだろうか。それは単に国から、居心地の良い居場所をただ一方的に与えられているという訳ではないのだ。

 

これまで見てきたように福祉政策というのは、ただ人に居場所を与えるのではなく、「余裕が出来たらまた働いて経済に還元して欲しい」という、この前提のルールがあって初めて機能するものである。とどのつまりそれは効率的に経済を回す為の政策の中の一つの形態に他ならない訳だ。

 

そしてそのような福祉政策の失脚の末に出てきたのが、新自由主義だとの学説がある。それは福祉から降りたせっかくのお金を、居心地の良い居場所に居座り続ける為だけに使われてしまい、結果的に、福祉予算をかけた分だけに見合った経済的効率を生み出せなかったのが根本にあると言われている。つまり、こっちがお金あげても何もしないなら、今度はみんなと競争して自分でなんとかしてね、もうお金は簡単にはあげないよ、という流れになった。それが自由競争の原理、市場主義経済の枠組みの発端であるというのだ。

 

確かに、北欧のような、安心して子育てして働けてみたいな環境は理想的かもしれない。でも現実の北欧の暮らしはとても質素らしい。娯楽も少なく、あっても高いからあまり行かない。そのような質素な暮らしでものびのびと生きていけるのなら、彼らのような高福祉国家も目指せるかもしれない。しかし蓋を開けてよく観てみれば、そこには経済効率重視の国家という意外にシビアな姿が、みやすけには見えた。つまり福祉とは、国民がよりよく生活する為の政策なのではない。そうなるのはあくまでも結果論である。また福祉とは、経済効率主義から排除された弱者の最後の安全網であると言い切るのもまたニュアンスが違うのだ。そこには国家を運営する上での中核を成す経済を、どのように効率良く動かせるのかという思惑がある。また冒頭に、あらゆる予算は投機であるといった。それは福祉予算というスタンスも例外ではないのだ。


北欧社会福祉研究家による世界・北欧の福祉事情 「介護支援ページ ~kaigo-web~」

http://www.kaigo-web.info/kouza/hokuou/no1/index.html


北欧型モデル 増税すれば幸せになれるの?SYNODS 井出草平/社会学

http://synodos.jp/international/2045


ダイバーシティは社会を多様にするか?

bizmakoto.jp

結局、ダイバーシティの機能性を重視するあまり、その目的である経済的価値の方が神聖化してしまい、その結果、地域というものが蔑ろにされてしまう可能性がある。また、経済的価値観が優位に信仰される世の中で、そのような経済的価値から外れたような人(特に男性)は、人間的尊厳や人間的価値からも排除される事にもなり得るだろう。それは、経済的価値観に目がくらむあまり、経済的価値観から排除されている地域社会の重要性を、全く考慮にされていないためだ。地域というのは、経済的価値社会との接点としても、またそれは時にセーフティーネットとしても、そこには補完的な役割がある。それは経済的価値社会にとっての単なる補助的な存在なのではなく、そこにはきちんとした人間の暮らしの営みとしての存在意義があるのだ。それは経済があって人間が営めるように、そこに人間の暮らしの営みが礎にあって、初めて経済が維持できるのと同じ原理だ。

 

経済的価値社会と地域社会は、相補完性によって、その両方に必要性が生じる筈なのだが、今までの(特にマイノリティなどの)権利運動などは、純粋な地域性を表明するのではなくて、このような経済的価値観(マジョリティ的価値観)に迎合する形でしか、その動力に意義を見出してきていないのではないか。そして経済的価値観の優位なる状況は、その周辺に排除されていた筈のマイノリティ界隈にも、徐々に拡がるようになるだろう。またその進行によって、マイノリティにも、経済的価値観の義務が課せられる事態になるだろう。それは、「経済的価値=人間の尊厳」の状況に陥っているマジョリティ(特に男性)に迎合するということである。

 

それは、ダイバーシティの概念が先鋭化するに従い、マイノリティにも、その経済的価値観を履行する義務が課せられるという事だ。つまり、そのようなマイノリティも、経済的価値を失った際に、人間の尊厳から排除される可能性が生まれるという事なのだ。それは、経済的価値を失ったマジョリティ(特に男性)が陥ってしまう苦境(犯罪や自殺など)に、マイノリティも、その同じ苦境に立たされる可能性がある事を、示唆している。そのようなダイバーシティの概念が勃興する中で、その輝きが神聖化して行けば行く程に、マイノリティとマジョリティを隔てていた領域は、融解していくだろう。

 

例えば、地域に管轄されていた責任を負っていた人は、現在のダイバーシティの概念が、社会的な領域で顕著になるに従って、その経済的価値観をも同時に義務化される事になるだろう。こういう人は、地域的価値と経済的価値の両方の義務を、追行しなければならなくなる。それに、多様性ダイバーシティの概念は、同一に混同してはいけない。多様性ダイバーシティは、目的概念が大きく違うのだ。ダイバーシティのみによって、社会が多様化するのは間違いで、とうのダイバーシティが優先するのは、あくまでも経済的効率。そこにマイノリティーの参入を可能にするのは、多様性の結果ではなく、そこに経済的な潜在的成長性が見込めるからだ。

 

経済的価値観を敷衍させる事のみが目的化してしまい、結果的に、そこに相補完的に林立している地域社会の位置付けが、矮小化されてしまうのなら、そこには、多様性の実現などは無く、ダイバーシティという理想は、単なる経済特区に成り下がってしまうだろう。地域社会というのは、経済的価値観に染められて、初めて成り立つわけではない。それは常に、経済的社会に林立する形で、相補完的に平行する社会である。

 

しかし例えば、家庭でなされる家事を、経済的価値観にすり合わせ、経済的価値を実際に算出して、それを家事労働と位置付けて、この家事も立派な賃金に還元すべき労働なのだとアピールしている集団もあるようだ。しかし、経済的価値観によって家事を労働と位置付けただけでは、それは経済的価値観に迎合しただけであって、いうなれば、地域内で、ピュアに存在し得る家事の役割を、地域から逆に排除する形にしかならないだろう。

 

ダイバーシティこそは、それに多様性の本質があるわけではない。ダイバーシティにとって多様性とは、ダイバーシティをより確信的にさせるための媒体に他ならない。現に新自由主義の流行が本流にある世の中で、ダイバーシティの持つ役割は、マイノリティの単なる社会参加に、その事態は収まらず、それは新自由主義が持つ本質である、格差という問題が、マジョリティの範囲だけではなく、マイノリティの範囲にも押し寄せるという事でもあるのだ。

合理性と死への快楽のエロティシズム 〜理性に緊縛された肉体は絶えず死を希求する〜

人間は他者を求めるとき、そこに自分の身体、精神の総てをその他者のイメージの中に投影しようとする。肉体が他者を求める衝動は、絶えず人間の存在を揺るがす。他者を愛するとは、自己の存在を総て、愛する他者の体内に浸透させようとする企てだ。愛の中に融けて行きたいと欲する人間の実存は、まさにその快楽の最中にこそにあるものだろう。しかし人間の輪郭を描く合理性は、絶えず自我の内部に、自己を呪縛する。それでも絶え間ない欲求の中で、自分が壊れてしまう事を恐れるのは、生命体としての秩序を守護するための装置である。

 

それはある意味での死への恐れである。人間は、実存としてではなく、生命の欲求として死を忌避する。生命が生命として秩序を維持するために、人間は人間であり続けようとする。その中での快楽とは、この合理性の世界に縛られた肉体を、その合理性から解き放とうとする思惑なのだ。それは、合理性によって構築されている森羅万象からの逃避の願望なのだ。人間を組織立てるあらゆる細胞の作用は、森羅万象の理を象る合理性の象徴である。人間の存在とは、そのような合理性の荒縄に緊縛された形で成り立つのだ。

 

ときに緊縛された人間に欲情するのも、そこに合理性に縛られた存在としての自己を、そこに投影するからだ。その緊縛され横たわる人間の姿こそ、森羅万象を象る合理性に同じく縛られた、自己の存在をそこに投影できるのだ。またそれがときに美しく想えるのも、そこに対面した自己が、その対象と同一化する事によって、一時的にその荒縄の緊縛から解かれたと感じるからだ。人間は、愛する対象と対面することで、自己の合理性の緊縛を解くことができるのだ。それは空中に浮遊したとき、重力を感じなくなる作用と同じだ。

 

森羅万象を象る合理性は、人間の肉体を締め付けるこの荒縄こそに、妖艶に象徴されているのだ。また荒縄に縛られた人間の姿は、合理性によって秩序立つ森羅万象もまた象徴しているのだ。よって、合理性を解くためのこの快楽こそ、森羅万象の理の世界から解き放たれた、本来の実存と合一化するための方法なのだ。それは人間を愛すること。またそこに合一を希求することもまた、森羅万象を超越する実存へのアプローチなのだ。そしてこの合理性こそは、生命たる人間を形作る生命体の本質をも意味している。

 

しかしその合理性の瓦解してしまった身体は、理性を見失った狂気の世界に引きずり込まれることになる。しかしこの狂気の世界こそは、生命として生存するためだけの生まれ出た肉体を持つことになった事態の所以である。このような狂気の世界は、秩序ある生命として生存している肉体の構造には、それが組み込まれていないのだ。人が狂気に襲われるのは、そこに秩序立つ肉体があるからだ。人間を象る肉体にとって、快楽に溺れ狂気に呑まれる事は、単なるエラーに過ぎない。

 

しかしとうの狂気の世界こそは、その外縁は、人を魅了する妖艶なる皮膜に覆われている。その皮膜は人間を仕向ける芳醇なる香りを漂わせているのだ。がしかし、大抵の人は、その内部には、決して足を踏み入れようとはしないものである。では、その狂気を忌避するのは、生命としての本能なのだとすれば、この世界の生存する人間の実存は、いかなる方策によって存在し得るのだろう。

 

人間は、快楽を求める所に、本当の意味での実存を求める。この合理性の鎖から解かれた瞬間にこそ、自己は燦然と、その実存が輝き始めるのだ。しかし合理性の破滅こそは、すなわち生命体としての肉体の死を意味している。しかし人間は、絶えずこの死の中で、実存の意義を見出そうとしている。死に本当の解放があるのなら、人間は、その死を欲求する快楽の中にこそ、本当の人間としての実存があるのだ。人間は、死への快楽に肉体の輪郭を融かし、その死に触れる瞬間に、本当の人間としての実存を感じるのだ。しかし人間は、そこに禁止の鍵をかけてしまい、それを禁断としてしまったのだ。人間は更にそこに、抑圧の構造を造り出してしまったのだ。

 

人間が人間を愛するとき、自己を形成するあらゆる細胞組織が震えだす。そして確固たる自己は、このとき愛する人間とのイメージの中で融解してしまう。肉体の輪郭が無くなるほどに燃え上がる愛とは、まさに死に触れる体験である。その死の前触れに、全身の細胞はその脅威に怯え、震えるのだ。人間は燃える愛の中に、絶えず死を希求している。愛に満ちる快楽は、合理性の縛られた存在ではなく、そこにこそ合理性から解き放たれた瞬間の芳醇なる実存の姿があるのだ。

 

人間は、森羅万象の理を形作る合理性からの解放を願っている。不意に沸き上がる人間を愛したいという欲望も、それは合理性の荒縄に緊縛された姿からの解放を願ってのことだ。人間が愛すること、その愛に飢えた姿は、きつく緊縛され身動きの取れない状態に苦痛を感じるからだ。人間は人間として肉体として存在していることに窮屈を感じる瞬間がある。ときに縛られた人間が身悶えする姿に興奮するのも、まさに人間の持つ自虐性に根ざす感情によるものだ。どのような人間もすべからず、人間の苦痛に歪む姿を見るのが快楽になることがある。それは、苦痛に歪む人間を見て嗤うことによって、きつく緊縛され、その苦痛に表情を歪めている自己の姿を嗤っているのだ。