心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

【知(ソフィア)】を【愛(フィロ)】する 〜フィロソフィーと「私的」社会構造〜 Part1

「知る」とは一体なんだろう。何をもって、人は知るに至るのだろうか。人間はこれまで「真実」に対して真摯に取り組んできた。人間は知る事を無上とし、知ろうとする事によって様々なものを手に入れようとしてきた。「知る」とは恩寵であり、また時にそれは神の領域に跨がる為の神聖な儀式でもあった。知るという事、それは神の御姿に触れる体験でもあった。神に触れたその法悦の瞬間こそ、【知る】という目的において最上を手に入れた瞬間であった。

 

しかし人間にとって「知る」とは、ある物語においてパンドラの箱を開けると形容されるように、時にこの世界を悪夢に変える力をも生み出し得る。また人間は、この世界に物質的な現世界=形而下の世界と、魂、美、真実等の概念の棲む世界として、それを形而上とを対置した。このように人間は、魂、美や真実などの決して現世界を棲家としない世界の概念を、形而上的であるとしたのだった。そしてこれらが形而上であるという意義は、自分とは「決して知り得ない存在」とする事にその本義がある。これまでの哲学(フィロソフィー)は、特に古代ギリシアにおける古代哲学においては、【フィロソフィー=知を愛する】という風に非人称名と動詞を倒置させる事によって、より密接な関係性をそこに表現していた。

 

この【知り得ない】者としての人間が宿命的に持つ限界こそ、哲学(フィロソフィー)という言葉を【知を愛する】というふうに倒置させる形を取る事によって、その不完全性が間接的に表現されている。まさにそれは人間の本能が持つ愛の営みである。決して知り得ない恋人の心象を詠う恋文や詩は、古今東西どこの地域にも散見されるものである。しかし【愛】とは、知り得ない恋人への永遠の憧れである。恋人を永久に想うその心こそは、永遠に到達不可能な理想郷への憧憬から起こるものである。人間は、知り得ない存在に対して興味を掻き立てられる。かつその先に、輝かしい恩寵があるとなれば、なおさら人間はその対象に惹かれ、求めるのである。

 

恋人に憧れるのは、その恋人に、自分が持っていない何かを感じるからである。それもとても素晴らしく輝かしい何かを感じるからである。また人間はそこへ到達しようとするし、触れたいとも想う。だから【愛】は関係性になり得るのである。輝かしい何か=【知】、とそれを希求しようとする探求心の現れである【関係性】の発露、またそれを知ろうとする心地の良い感情=【愛】とが、快く交わっているのが、つまり【哲学(フィロソフィー)】なのである。

 

しかしこの関係性が、時に哲学を志す人間を愚昧にしてきた。それは、恋人を愛するあまり盲目になる時がままあるように。このように愛とは時に盲目である。恋に恋をしている時、また恋人をずっと手中に収めていたいという支配欲や、弱いものを護りたいとする守護本能、その様々なシチュエーションによって、人間はいかようにも、その愛の関係の最中に盲目に陥るきっかけを有している。

 

しかし「決して知り得ないもの」としての恋人とは、そこへ幾ら手を伸ばそうが、欲するあまり唇で想いを幾度となく重ねようが、常にそこに恋人の真理が現れるという結果が保証されている訳ではないのが、真実なのである。またそれは愛の真理でもある。恋人が不意に微笑んだ瞬間、また手をさりげなく握り返してきたりとかのその瞬間瞬間に、人間はそこに恋人の心の奥底を【知る】手応えを感じ、また恋人の本当の心を【知った】と自惚れるものである。また哲学において言うなれば、それは真理に到達した瞬間の恍惚であるとも形容出来るだろう。【知った】という感触、それを探求する心にとっては安堵の瞬間でもあり、またそれは間違いを犯す動機でもあるのだ。

 

また【決して知り得ない】とは、それは「決して触れられない」「決して対面出来ない」という事実の暗喩でもある。では一体、哲学〔フィロソフィー〕とは、何か。それは、【知】と【人】との愛の関係性である。まさに「知〔ソフィア〕」を「愛する〔フィロ〕」というイメージからは、まるで愛しき人に想いを馳せる、深い情景を連想させる。

この「決して知り得ない〔もの〕」。真実とは決して到達不可能な理想である。しかしこれが「触れられない」「到達不可能」な【知〔ソフィア〕】であるからこそ、これに【愛する〔フィロ〕】という表現を与えたのだろう。決して触れられない高嶺の花にこそ、人間の愛は、深く燃えるものである。こうした「知〔ソフィア〕」と「愛する〔フィロ〕」が限りなく親密に関係し合うような関係性とは、恋人を想う心そのものである。そのような「知り得ないもの」に対する、甘美なる表現は、人間が「知」という現象に対して抱く、温かいエロスを表象しているようにも見える。それは、現象の一部である【知】を人格として喩え、更にそれを決して「触れられない」「到達不可能」である理想の恋人を想う心地、そしてさもそのような関係性が、人間と人間との甘い愛になぞらえているように、思うのだ。

つまりフィロソフィーとは、【知】と【人間】との人間的な愛を介した蜜な関係を謳ったものではないか。つまり、そこには人間が本能的に持っているエロスが、暗喩として篭められているように思える。そして、その実践者を「知を愛する者〔フィロソフィスト〕」と呼ぶように、このような名に関しても、そこには、醸成されたより親密なムードが表現されているようでならない。【人間】は愛を持って、【知】と対面し、そこに密接な関係性が生まれる。そのような連想を想起させるのは、決してただの夢想ではないだろう。