心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

悲劇的リアリズムを生きる 〜IS(Islamic state)と若者〜 Part2

悲劇は日々繰り返される。その怒涛なる世界の内側で、まるで首を締め付けられるような苦しみに、のたうち回る彼らの呻き声が、このすぐ傍にまで滲み出している。しかしこの悲劇を視まいとする群衆の犇めく自惚れが、その救いを求める彼らの手を払い退けるのだ。群衆は、自らの保身のために、救いを求めるその手を突き放す。そして群衆は彼らに唾を吐き捨てる。臭いものには蓋を。群衆は、彼らが被る現実の悲劇を捩じ曲げ、人間世界にあまねく浸食しているネガティブを拒否する。そして彼らの悲鳴を、まるで掻き消すかのように、錯綜する祭り囃子。群衆は、すぐ傍にある筈の悲劇をも、まともに見ようとしない。そんな陶酔した群衆の一人一人の、その眼は赤く充血している。どこまでも終わり無く、昂揚し続けるテンション。祭り囃子は、その度に錯綜し、群衆の眼をさらに赤く充血させる。そこからは、誰一人として降りる事も、待ったをかける事も出来ない。そして躍動する群衆を映すその影には、今にも生命の光を掻き消されようとしている、彼らの虚ろな眼差しが映っている。

 

自分の住んでいる世界が、壊れて行く。ある日、音も無く。それはどこからともなく忍び寄り、あなたの首を掻き切るかもしれない。あなたは、自分の住んでいる街の景色が、徐々に色褪せていく瞬間が、本当に存在するのだろうかと思われるかもしれない。これまであなたが、この場所で生まれ、それから、物心がつくまでの間に縦横無尽に過ごしてきた、この街との信頼関係、そして絆。とてもすばらしい事だ。ここまで、何の脅威もなく過ごせてきた、かけがえない時間と想い出。そこにはなんの疑いの余地は無く、大切な人達と、出逢えるだけ出逢えた想い出がある。その確かな温もりは、あなたの心の裡で柔らかく脈を打つのだろう。その随所随所のあらゆる瞬間も、これまで心から大切にして過ごせてきたのなら、そんなあなたは大変すばらしい。

 

そう、平凡なるこの日常の何気ない流れも、そしてあの景色の何もかもが、わざわざそう意識しなくても、この街の日常への信頼が、これからも永遠に続いていくものだと、本当にそう思えているのなら、あなたはとてもすばらしい人生を歩めている事だろう。

 

それならば、あなたにぜひ尋ねてみたい事がある。いつかそれらさえもが、いとも簡単に崩れ去る瞬間が訪れる可能性が、少しでもあるとすれば、その時、あなたはどう思うのだろう。そんな事は、決してあり得ない。あなたは、この質問を跳ね除けるかもしれない。そう怒りを交えながらも。しかしそれでも、果たしてそう言い切れるだろうか。その全てを信じ切れるだろうか。この街を、そしてこの世界を。あなたはそこに、温かに脈打つ安心感と、世界への信頼があるのかもしれない。しかし少し待ってほしい。それならば、たった今、あなたの目の前に暗然としているものはなんだろう。

 

あなたの目の前にあるテレビでは、連日、犯罪に手を染めてしまった不幸なる人々が、大量の報道カメラの前に頭を垂れて、連行される姿が映し出されている。それも次から次に、その数はどこまでも知れない。そしてアナウンサーが原稿を、次々と読み進める度に、その不幸な人間に向ける報道カメラのフラッシュは、テレビ画面全体を覆う。そう瞬く間に、画面は鋭い閃光に満ち溢れていくだろう。では、あなたにはこの光景の意味が解るだろうか。

 

それでも、あなたはこの世界を信じられるだろうか。何気ない日常の中で信頼感を満たしている、あなたの立つこの足場が、とある簡単なきっかけで脆くも崩れ去る運命にあるのだとすれば。それでも何気ない日常が、これからも続いて行くものだと確信するのだろうか。ならばもう一つ、尋ねてみたい事がある。あなたは今、幸せですか。もしそうなら、それは果たして本当ですか。不幸を写し続けるテレビの閃光は、あなたの脳裏に問いかけている。そう、もうしかしたら明日のまったく同じ時刻に、今度はテレビの画面越しの報道カメラに頭を垂れ、この街の全てに絶望している、あなたが映っているかもしれないという事を。そんな光景をあなたは想像できるだろうか。そう、幸せな生活を送る何気のない日常が、もしかしたら、近い将来、崩壊するかもしれないという事を。つまりは、あなたの日常のあらゆる人間関係、常識、そしてあの頃の想い出さえも、いつ何時、その全てが崩壊するかもしれないという事を、果たして、あなたは想像出来るだろうか。

 

あらゆる安定が、敵意に満ち瓦解していく時、悲劇的リアリズムは、音も無く発生する。この北大生の口からは、未熟であるが故に不感症に陥った、愚鈍な現代青年の闇は一切感じられない。その語り調は何か乾いていて、そしてどこかよそよそしくもある。彼の紡ぐ言葉は、とても静かだ。しかし彼の発する言葉の隅々には、肉体的リアルの消失感が滲み出ている。この虚無感こそが、行き場のない焦りへと、駆り立てるのか。また、別にこのまま死んでもいいのだ、という乾いた静けさを醸すのとは、誠に対照的に、躍動を満たすような戦闘への憧れと、その熱意も見せているのだ。果たして彼の内部に持つであろう、激しさに滾るようなこのギャップとは、一体何だろうか。それは生と死が、彼の自己同一性の裡でせめぎ合いながらも、それらは一切混じり合う事もなく、むしろ背反し続けているようにも見える。

 

つまり死を望む「静寂」と、戦闘を望む「躍動」との、一見、互いに背反し合う筈の、生と死の両極端を司る感情が、彼の裡では、そのどちらもが、高いエネルギーを保持しながらも、互いに拮抗し合っているのだ。彼の言葉を聴くに、そんな彼とはまさに、この世界に見切りをつけ、死へと消えて行きたいという風にも取れる。しかしまた、それでもこのような現実の不条理の最中にでも、肉感的な生を実感して行きたいという風にも感じられるのだ。

 

彼の裡では、生と死のその両方が、相当なエネルギー量を持っている。そしてその膨大なポテンシャルが、渇いた現実の中で、感情がどれだけ虚構に苛まれている渦中にあろうとも、それでも熱意を持って躍動しようとしている。それこそ彼の強固なる意志へとリンクしているのかもしれない。そんなエネルギッシュな生と死が濃厚に満ちているジレンマこそが、彼を、IS(Islamic State)が創り出すユートピアに対する渇いた熱意へと駆り立てるのだろうか。彼の裡(うち)の「生と死」は、それらがエネルギッシュにただ林立しているだけではなく、その二つは、濃厚なるジレンマを形成しているのだ。

 

しかし、こんな絶望だけの世界にでも、確かな意義を見出そうとしている。その手段が、例え破壊をも孕む戦闘であろうとも。彼は必死にこの世界に確固とした居場所を求めている。恐らく、彼は「この世界」に対して、基本的な信頼が厚いのだ。ここまで世界に絶望しようとも、確かな安心感を求めているのは、それこそ、彼がこの世界にそれほどの信頼を寄せていたという、かつての名残なのではないか。あの頃の安心と信頼は、命共ども、全てを消し去ろうとする行為の邪魔をする。それは、この世界への厚く信頼に満ちた愛情のようなものだろうか。彼は、かつての安心を、IS(Islamic State)の創り出すユートピアに求めている。そこではかつての彼の安らぎが揺らめいている。IS(Islamic State)という夢が、彼の乾いた心に、そっと寄りかかる。彼にとっての確かなもの。それはかつて彼が当たり前に送っていたであろう、何気ない日常の延長のようなものなのだろうか。例えそれが戦闘という悲惨さの中であろうとも、そこには、とても肉感的な魅惑が満ちているのではないか。また却ってこのようなかつての信頼感こそが、彼が完全なる死に呑まれるのを、阻止しているのではないか。

 

このように悲観的リアリズムは、現実で起こるあらゆる現象の内で、あるきっかけでその安心と信頼が失われ、そしてそのような名残を引きずりながらも、むしろその過去の温もりに縋ろうとして、すでに荒廃してしまった世界を生きていこうとする中で生まれる。それはいうなれば、死の裡に生きるという事である。例え、世界への信頼が死に瀕しても、その心の根本に沁み渡った信頼感だけが、亡霊のように生きている。そしてその形骸化した筈の信頼が、過去の温もりの中で生き続けているのだ。だから簡単には死に切れないし、むしろその過去は、もうすでに触れられないが故に、大きく誇張されてしまう。そしてその誇大化された過去が、ユートピアという夢に変遷して行き、ついにはその幻想の裡で、大幅に理想化されてしまう。

 

彼の静かなる言葉には、厚く信頼していた今までの世界が、もはや確かなものでは無くなったという絶望感がある。また、そんな現実世界のあまりの脆さに失望している。しかし信頼感の充実していた現実の中で、のびのびと構築されて来たであろう、彼のリアリティは、突然の瓦解に見舞われる事態となった。一体何がそのきっかけだったのかは、一切触れられてはいない。がしかし、とうの彼は比較的に高学歴であり、他の学生よりかも、彼なりに世界が幅広く見えていたのではないか、という事しか推測できない。

 

そして、世界への絶望は、やがてこの世界との信頼感と共に育まれて来た、彼のアイデンティティにも、同じく危機が迫る事になる。彼のこれまで育んできたアイデンティティは、世界への信頼の崩壊と共に、その土台から脆くも、その全てが崩れ去る事になるのだ。世界への信頼と安心を元に、共に育まれてきたアイデンティティは、安定する世界と共に生きていた。だからその世界が根本から瓦解する事は、彼のアイデンティティに打撲のような脅しを受ける事になる。故に、彼は世界への絶望と共に、その世界と共にあった自己同一性もが、その崩落を共にしたのだ。事実、そのような境遇に置かれた人間は、普通、それからを正気で生き抜く事は、不可能である。

 

例えば、あなたの友人の態度が豹変し、突然、あなたが居なかった事にされたらどうだろう。あなたの信じている考え、嗜好の全てを、いきなり否定されたとしたら。また、あなたの家族、友人、そして同僚など、あなたの周囲に居た全ての人々から、突然、あなたを全否定するような言動、または態度を取られるとすれば、果たしてどうだろう。かつてあなたの周りで慕っていた人々は、あなたを置いて去って行く。やがてそこに遺るのは、あなたがかつてその輪の中に居て、その友人達との交友を楽しんでいた、その「過去の温もり」だけであろう。そして尚の事、その温もりを、忘れる事が出来ないのだとしたらどうだろう。あなたはまた別の場所へ、その温もりの代理を求めにいくだろう。そう、あの時の温もりを引きずったまま、あなたは誇大化された過去と共に、すでに荒廃し切った世界の中で、それでも生き続けるだろう。そう、信じられる友人も、同僚も、また家族さえも居なくなってしまった、このちんけな世界でも。そうこれこそ、この世界に対するかつての信頼なのである。しかしそのような形骸化した世界で、あなたは、正気を保って生きて行く事が出来るだろうか。とうの彼はそれが出来ず、異国の土地で、ジハードに赴き、敵に銃を突きつける事を選んだ。それは彼なりの生きるという事の、最後の選択であったのだろう。

 

例えば、現代の潮流では、相対主義が勃興し、その根はよりこの世界の深部へと拡がるにまで至っている。そしてその時流が徐々に世界を侵食するに従い、「善」と「悪」は共に絶対的な指標ではあり得なくなってしまった。つまり「善」とは「悪」とは何か、それを無限に問うのが現代なのである。それは自分の信念に支えられて来た正義が、いとも簡単な変革によって、無限に覆される世界なのだ。つまり現代の資本主義の立場も、実は確かな地位に永続しているような希望なのではなく、それはいつでも転覆の危機に晒されているのだ。そう現代にとって資本主義とは、たかが脆い足場の一部分に過ぎないのだ。

 

ある日、その優しい世界中の眼差しが、突如として、悪辣さへと豹変し、あなたに牙を剥き出す。今とは相対性の時代である。そうこれは、それまであなたを優しく包んでくれていた眼差しが、突然、あなたに襲いかかる事を予言しているのだ。そんな現代とは、あらゆる物事が、相対性の中で流浪する時代である。そのような、もはや絶対の無い世界では、今包まれている安心も、もしかしたら突然、近ければ明日にでも、あなたを突き放すものになるかも知れないのだ。昨日信じられていたあらゆるものが、今になって、いとも簡単に目の前から崩落して行く。全ての物事は、相対性のなす流動の中に、壊れて行く定めにある。そうそれは、あなたの何気ない日常も、そしておそらく、彼が過ごして来た過去の厚い信頼もが。

 

しかしその不安定になった世界でも、あなたは単純には死に切れない。なぜなら、あの頃の安心感を、今でもあなたの身体が憶えているからだ。一度その温もりを感じて受け入れた体験があれば、なおさら、簡単には裏切れないものである。それは、突然あなたを突き放した大切な人に対しても、そうすぐには簡単に、心から見限る事が出来ないのと同じように。また、その大切な存在の規模が大きければ大きいほど、そのような傷はいつまでも、あなたのぽっかり穴の空いた心に残り続けるだろう。そしてそれまでの温もりを、また別の形で求めるようになるだろう。そう、今抱えている虚しさを、また別の存在で埋めようとするのだ。

 

かつての世界への信頼感が、その信頼の厚さが故に、自殺に駆り立てるまでの決意を躊躇させる。そしてその過去の感覚が、すでに失われたが故に、歪んだ形で誇大化され、あなたはその誇張された夢の中で力無く浮遊しながら、いつまでも、優しい幻想を見続けるのだ。それはまさしく、死の裡で生きているという状態だ。彼が、IS(Islamic State)にユートピアを求めるのも、またそこで破滅的な生を生きようとするのも、そこにかつての信頼していた世界の偉大さを投影するからだろう。また、そのような絶大な信頼感が故に、それはより大きな衝動になっているのかも知れない。たとえそれが、異国の土地での凄惨な戦闘であろうとも、そこに彼は、偉大なる世界が崩れ去った後の救いを、求め続けるだろう。この世界が例え終焉に伏したとしても、その死の裡で、しぶとく生き続けようとする。そう、今では遠い過去となったあの日、確かであった世界の優しい幻影を見ながら、北大生の彼は、これからを生き続けるのだろう。このような事実こそが、悲劇的リアリズムを更に歪んだものにしている。

 

今回参照した記事の中に「これからもイスラム国への賛同を示す若者は、後を絶たないであろう(※)」という予言があるのだが、それは、IS(Islamic state)という、凄惨なユートピアに縋り付いてでも、崩れ去った過去の安心感を取り戻したいという、現代の若者の絶望を言い表しているようにも感じる。崩れ去ったモノの存在が大きく、かつそれが大切であると感じていたものほど、その代理となる夢はより増大され、それは歪んだ形に化ける。そしてあなたはそのゆりかごの中で、虚しさをどこまでも埋めようとするだろう。しかし、それにより心が完全に満たされる事はない。なぜならあの時の優しい体感は、もう二度と、この世界に戻っては来ないのだから。

 

このように、IS(Islamic state)という存在は、安住の居場所を探し続ける彼らにとっての、最後のユートピアなのだろう。しかし、これまでの話とは、そんな彼らに我慢の精神が足りず、思考が短絡的になっているのとは、少し次元が違う。むしろ、彼らの見ていた世界は、とても雄大なもので、むしろ心は満ち足りていたのだろう。それも、我々の想像が及ばない範囲で、リアルに。しかしそこの部分は、緻密に文字で描写出来るほどの技量も無いし、またそれらは言葉以前のより深部に沁み渡る、人間性の根幹を形成するナイーブな部位であろうとも思う。そこには、言葉として簡単に表現出来ない繊細なる人間の感情が存在していると感じる。だからここでは、その詳述を避けようと思う。

 

そして凄惨な戦闘をしてでも、再びその過去の安らぎを手に入れたいという、彼らのこの世界に対する貪欲さこそ、彼らの信頼していたかつての世界の重要さを物語っているように感じられる。むしろ彼らには、人間的感情を豊かに包摂した、ある意味でのピュアさがあるように感じた。彼らの感情がピュアであるからこそ、素直に傷つき、そして深くこの世界に絶望したりするのだろう。絶望というのは、ある意味では、期待の裏返しでもある。だからこの裏返しの作用にこそ、彼らがこの世界に対して、厚く信頼寄せていた、真の動機が見えるようだ。それは絶望から見える、彼らの本来の姿なのだろう。

 

しかし、IS(Islamic state)のような、一見、煌びやかであるそのユートピアにも、またその安定を崩壊させる、退廃の影は映っているのだ。相対性の世界は、いずれ、そのゆりかごさえも絶望に変えるだろう。そう、その終わる事の無い相対性の循環の中で、この世界への信頼感は、どのような強固さであっても、いずれ粉砕されてしまう運命にある。ここは諸行無常の世界。それならば、もはやこの世界に信頼の土地を求めるのは、終わる事の無い虚構を見る事と同じなのだろうか。やがて北大生の彼には、彼のジハードを遂行する瞬間が訪れるだろう。しかしやっとの事で手に入れたその安心も、どこまでも広いこの優しい世界は、これからも無限に裏切って行くのだろう。そう、そんな彼らが偉大なる過去から、その心が完全に解脱出来る、その時までは。

 

 

〜IS(Islamic state)と若者〜 

参照の記事

北大生は違ったフィクションに生きたかった
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20141008

北大生支援の元教授インタビュー
公安の事情聴取を受けた 中田考氏が語る「イスラム国」
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4290

正義が悪を欲する世界 〜IS(Islamic state)と若者〜 Part1

かつて2001年9月11日に、同時多発テロがアメリカで起きた。その際、当時のアメリカ大統領が、この報復処置としてアフガニスタンへの侵攻を開始した。そしてその翌年、当時のアメリカ大統領が一般教書演説にて、当時のイラン・イスラム共和国イラク(バアス党政権)などを「悪の枢軸」と、声高に罵り、国際社会に対し、テロリスト根絶への強い同調意識を求めた。

 

その当事者であるアメリカを始め、先進国の陣営は、何かとイスラムテロリズムを、直接的に結び付けようとする事が多い。連日報道される、武装した過激派の姿。確かに、そのような狂気の一面も、彼らは持ち合わせているのだろう。でもこのような狂気は、どのような宗教でも垣間見る事が出来る。しかし、どのような宗教もそのような一面のみで、括られる事は決してない。だが、同じ宗教である筈のイスラム教は、また違った扱いをされているような気がする。なぜイスラムテロリズムとが、闇雲ながらも同一視されるのだろう。各国のメディアがこぞって、いとも容易く、彼らをそのようにラベリングするのには、何か特別な意味があるのだろうか。

 

しかし、イスラムの社会的な性格とは、実際どのようなものなのだろうか。我々が、イスラムテロリズムとを、容易に結びつけてイメージしてしまうのは、実際の彼らの素顔なり、その生活の姿を、ほとんど何も知らないからではないか。そんな我々は、彼らの実情を一切知る事もなく、そのイメージを安易にテロリズムと結びつけているのだ。なぜなら、一般的なメディアで、イスラムが取り上げられるのは、多くの場合、爆弾を炸裂させる過激派のそういう狂気の一面であって、むしろそういう情報こそが、我々が目にする彼らのイメージの、ほとんどを占めているのだ。だから実際我々は、イスラム教といっても、イスラムの宗派の中でも過激派以外に、必ずや存在している筈の、穏健なる宗派の一面すらも知らない。また、その一切を、知らせるべきメディアからは、まるで知らされてもいない。そんな状況の中では、彼らの素顔に触れる機会も、ろくに得られず、また彼らを知る手がかりさえも、まともに見出せてもいない始末だ。

 

そんな情報の貧困なる状況に晒されている我々は、今こそ、イスラムという宗教の本当の存在を知り、その姿に触れなければならないだろう。また世界中のあらゆる場所で、ネット・インフラが飛躍的に整っていく中で、世界の可視化はどんどんと進んでいくだろう。この事実は、我々に突きつけられる抗えない現実である。しかしそんな動向の最中で、我々は、本当のイスラムの姿を知る必要性に、これから幾らでも迫られるだろう。そうこれからは、決して知らないままでは済まされない、世界のダイナミックな流れに、身を委ねる事になるのだ。しかし、自己の自律があやふやなままで、このような巨大な波に晒されるのは、とても危険である。またそれを放置し続ければ、これからは、心身共に危ない事態に巻き込まれ兼ねないであろう。


つまりは今ここで流布されているイスラムのイメージとは、あるべく彼らの原型が、なんらかの作用で歪曲されたものだったのだ。そしてそれが我々に届く頃には、すでにそのイスラムの真実は、まったく失われていたのだ。

 

またそれが事実なら、そのような歪曲化された誤った情報でしか、我々は、イスラム教の姿を知らないでいるという事なのだ。つまり我々が知っているのは、彼らの誤った姿なのだ。それは今こそ払拭されなければならない。そう我々は、メディアが流通させている彼らの誤ったイメージではなく、本当のイスラム教の姿を、知る必要性に迫られているのだ。

 

それにイスラム過激派は、なぜ先進国を憎むのだろう。彼らは、先進国に対し、ジハードを掲揚(けいよう)し、そして自身のテロリズムを正当化しようとする。しかし、国際社会が、テロの根絶を称揚するキャンペーンを繰り広げている昨今、そんな彼らの主張するジハードが良い意味で報われるのは、到底、望めないそうにもない。それでも、そんなイスラム過激派を生み出すような土壌を造り上げた犯人とは、資本主義を信仰する先進国である。それは泥沼の歴史である。また今日表面化している史実とは、また見えない形で、事件の一端を、更に担っていたという事実も、これから幾らでも発掘されるだろう。このような罪は、決して簡単に拭い去れるものではない。そして、そのようなイスラムに対する先進国の愚行は憶測ではなく、数多くある歴史書が明示している史実である。

 

現代のように、高度資本主義と形容される時代において、そのあちこちで経済成長神話のペンキが剥がれ始めている。そしてその剥がれた絵の中から、たくさんの歪みや疑問が浮き彫りになりつつある。やがてそのような不穏なる空気は、人々に将来への不安を感染させ、この渦中に居る人々を、やり場のない憤懣に染めてしまう。そんな現状にとって、イスラム過激派という悪のイメージは、このような不安定な群衆にとって、ストレスを発散するのに格好の的となる。

 

そんな悪者の脅威から、不安定な先進国は自身のテリトリーを死守し、この荒廃したリアルに、なんとか現実感を持たせようとしている。世の中に蔓延る、あのようなイスラム過激派の悪いイメージこそ、資本主義を信仰する先進国が、その内部から腐食していく現実に、無理矢理にでも昂揚感を持たせようする為のものではないか。それは、希望を失っていく自身を奮い立たせるための、虚偽のストーリーなのである。そう、瓦解していく粗末な現実に怯え、その上で自己正当化を図るために、腐敗していく身体が非現実を欲しているのだ。

 

その壊れた身体が、過去の栄光とともに飢えいく非情さの渦中で、イスラム過激派が、先進国の圧倒的な軍事力の前に、崩落していく様を嗤う。そうして瀕死の身体を奮い立たせているのだ。それは実に簡素な自己保守のプロセスである。しかしその効果の程とは、攻防戦を繰り広げている「その間」だけの刹那的なものでしかない。つまりイスラム過激派という「悪の象徴」こそは、その裏を返せば、資本主義がそれほど自身で統括する安心と信頼を、徐々に失いつつあるという事である。寧ろその切迫感を、イスラムテロリズムの図式は、くっきりと浮き彫りにしているのだ。

 

「正義」と「悪」は、ただその辺に分散しているものではない。それは危機に瀕した「正義」が、自らの現実感を取り戻そうとした時、無作為に「悪」は創られるのだ。正義の名によって袋叩きにし、やがて悪が瀕死に陥り、彼らのもがき苦しむ様を眺めて嗤う、先進国独特のこの行為こそは、正義を称揚する資本主義にとっては、改めて自身の正当性を体現するものと言える。そして正義の名において制裁される、イスラム過激派のそのイメージこそが、歴史的な運命の果てに凋落して行かざるを得ない、資本主義の断末魔を具現化しているのだ。このように悪が苦しみもがく様を、先進国が見て嗤う、その刹那的な昂揚感こそが、再び自身の確信を取り戻すためのカンフル剤になっているのだ。

 

正義が声を高らかにする時、それはあらかじめ根絶されるべき悪が、そこにあったからではない。それは、リアルを失いつつある資本主義のイデオロギーが、再び確信とその統率力を取り戻すために、彼らにその「非現実」を求めるからに他ならない。つまり、国家にとって国家が悪になり得るのなら、キリスト教に所以のある資本主義にとって悪になり得るのは、同じ宗教という構造を持つイスラム教であるという事だ。そしてその中でも分かり易くキャラクターを演じる事を可能にするのが、先進国に恨みを持つイスラム過激派であろうという事なのだ。

 

現実の生活からリアルを失う。北大生の彼は、そのリアルを再び見つけるために、シリアへ行きジハードへと赴く。そんな彼を大抵の人は、おかしな未熟者だと嗤うだろう。しかし、毎年、何万人もの人々が自殺し、人間と人間が殺し合っている。そんな世の中の澱んだ空気に侵されて、徐々に窒息していく関係の中で、政府の統計によれば、300万人以上も精神に異常をきたす人々がいる。そしてその内の何割かは慢性化している。やがて精神を病んだ末に、自殺していく人々も後を絶たない。そんな中で、そこまでの逼迫感はないものの、それでもネット上には、匿名で書かれる日頃の恨みや鬱憤などのネガティブな言葉が、日ごとに勢いを増すかのように、無数に書き込まれていく有様である。このような動向は、あらゆる先進国で蔓延している。そして北大生の彼がこの記事中で云うような、現実感を失いつつあるというこの境遇こそは、今あらゆる国で共有されている資本主義の苦境とまさにリンクしている。

 

正義の旗を翻す、この荒々しい波風。それは、閉塞感に侵され、徐々に窒息していく運命の渦中でしか共有され得ない不安の声が、形になったものなのだろうか。もし、あなたの眼に、異国の土地で、悪が蜃気楼のように靡くのが見えたなら、それはあなた自身の心が不安に脅かされているからなのかもしれない。明日は我が身。そんな狂気に病んでいくこの国の住民の中で、北大生の彼の決意を嗤える者は、果たしてどれだけ居るのだろうか。

「LOVE & PEACE」は戦争から世界を救うか? Part2

そういう意味では、日々主張される「LOVE & PEACE」もまた、それ単体だけでは、世界の未来を生み出す訳でも、また結果的に歴史が創造される訳でもない。なぜなら、大枠の歴史というのは、何らかの絶対的な真実だけが唯一存在し、かつ、それを絶対軸にして一方的に紡がれてきた訳ではないからだ。つまりそれが歴史的であるとは、史実における良し悪しという単一なるスケールを遥かに凌駕(りょうが)し、むしろそれらは表裏を一体にし、絶え間の無い複雑性を総合した、超スケールの事を意味するのである。一言に「戦争」「平和」と言っても、それは単に一般的な名詞を表している訳ではない。そのような、とある歴史的な事件を名付ける名詞をも、そのたった一片の言葉だけで、総ての相互作用が内包されているという完璧さそのものは、一切存在しないのだ。

 

つまりは、ある歴史的事件に良し悪しを言う時、それはどのように議論を煮詰めても、結果的には、完全に個人的な感想という範疇からは、決して逃れられないという事である。そしてあらゆる歴史的史実が、複雑に混在化された多面的多様性の上でこそ、その歴史的スケールの存在が可能になるのだ。歴史とは、終わらない議論の過程の裡にこそ存在する。論議が絶え間なく移り変わるその狭間にこそ、歴史の本質は宿っているのである。そこでは、あらゆる現象が歴史という複雑系に内包され、かつそれらが複合的に作用し合いながら、混沌未分なる人類史全体を創り上げているのだ。そこには正と負の作用も共にあり、またそれの逆の作用もある。正は時に負となり、また時に負は正に作用する。よってそれらの要素が巨視的なレベルで、逆説的超スケールを発生させながら、カオティックに歴史的ダイナミズムを躍動させているのだ。

 

またこうも言えるだろう。つまり「歴史」という全体性には「正」も「負」もない。また「善」も「悪」も、もちろんあり得ない。「歴史」とはまさに、このような正と負の、そして善と悪との作用によって、不断に脈動しているものであると。またそれらは歴史的な超スケールの裡で複雑怪奇に「今」と相互作用しているのだ。また、時にそれ以上の多様な次元をも包摂しながらも、それらはお互いにその一切を余す事もなく、夥しく切磋琢磨しながら、人類の歴史というものを築き上げてきたのだ。

 

そういう意味で、「LOVE & PEACE」のように、それのただ一方のみが作用しているだけでは、これからの歴史が構築されて行く事は、まずあり得ない。またそれと全く同じ構造で、もちろん戦争「だけ」でも、歴史は成り立っては行かないのである。つまりどちらか一方だけの結論では、新たな歴史というのは、生まれないのだ。よってその両方が作用し合ってこそ、「戦争」と「LOVE & PEACE」とが両立する訳である。これが歴史という本質なのだ。しかも更にいえば、このどちらかが一方的に不要なのだという事も決してないのである。そう「戦争」と「平和」こそ、それらは互いに両立してこそ、戦争と平和の、両方の存在意義を確かなものにするのである。むしろそのどちらもが、歴史という全体を成す、重要な構成要素であるのだ。

 

その昔、人間愛を標榜し、人類世界の平和を謳ったヒューマニズムが勃興した時代があった。そしてその華々しいデビューから、それらは次第に、活気のある流行となって行った。しかしその時流がますます強くなって行くに従い、その内部では、神聖化絶対化の闇が疼き始め、やがてその病魔によって、ヒューマニズム勃興時の誇り高い理想は、無残にも腐食する事態となった。そしてその病状が悪化して行くに従い、ヒューマニズムを信仰する理性的人間と、ヒューマニズムを標榜しない人間外とされる人種との差別化が、ますます酷く拡がるに至った。それから、そういう存在から富を奪取せよ、それ以外を信仰する集簇に対してなら、また自国がより栄華して行く為であれば、野蛮な彼らには何をしても構わないと、狂ったようになるまで、その理想は凋落した。やがてその愚行によりヒューマニズムは自滅の途を辿ってしまった。そんな過去がかつてはあった。※3参照

 

それと同質的に、「LOVE & PEACE」の待つ、それが次第に絶対化するような流れもまた、それ自体が平和構築への原動力に結晶化されて行くのではなく、むしろ「LOVE & PEACE」を標榜する善と、それ以外の悪との差別化が、より露骨になる事態となり得る事を示している。また、平和こそが最善であると信仰されているからこそ、それらの對立(はよりどぎつく深化して行くのではないだろうか。そういうあらゆるライツが辿るこのような誤作動は、歴史的にも充分に証明されている事である。

 

愛が人を守るのではない。その愛は、愛する者以外の存在を排除するだろう。平和が人間を護るのではない。ある人が平和を謳歌するその外縁には、過酷な労働に耐える末端労働者の苦悩の滴る汗水がある。故に愛と平和だけが、確かな誇りなのではない。しかし仮にそれが全てだと謳うだけの「愛と平和」があるのだとすれば、その理想は、「愛と平和」以外の現実を盲目にさえするだろう。故に正しい事だけを美しく謳う「愛と平和」は、時にそこだけの快楽に、身を閉じ込めもするだろう。それでは、むしろこの世界は閉じていくばかりだ。

 

それでも、ほとんどの戦争はそのような世界をも破壊する。そう、愛と平和を美しく謳歌する人々の暮らしをも。そしていつなん時、どこかの敵国の爆撃によって、その全てが無残にも破壊される瞬間が訪れるかも知れない。しかし、国会議事堂前で叫ばれる「LOVE & PEACE」もまた、「LOVE & PEACE」を標榜する以外の悪人という存在を造り出しているのかもしれない。破滅への戦争が、ときに未来への創造の一端になっていたのなら、逆に「LOVE & PEACE」もまた、それを標榜する人間以外の悪しき存在の滅亡を望んでいるのかもしれない。そしてここまでの巨視的スケールとなって初めて、「戦争」と「LOVE & PEACE」とが内包している善悪は逆転する。

 

しかし真実がそうであるならば、このどちらかの主張が間違っているのだろうか。「LOVE & PEACE」の裡に秘めるある種の偽善性にも、戦争という現象の必然である「破壊と破滅」の凄惨さにも、むしろ、そのどちらにも人間性の暗い一面が染み出している。またそれらは、時に希望でさえもある。このどちらの要素にも、その一方が抱える、人間の悪質性を成す本質が含まれていて、また逆にそれらは、人間を良きものに導く良質性をも兼ね揃えているのだ。しかしであるからといって、そのどちらかが一方的に正しいという訳でもない。また、そのどちらもが、間違っている訳でもない。このような、お互いに補完し合う正負両面なる要素が、「歴史」というものを、完全無欠なる包括的結論に帰結させないように作用しているのだ。つまり、「戦争」と「LOVE & PEACE」とが交わる作用場の本質に拡がるジレンマは、ここにこそ存在しているのだ。

 

戦争と平和、そのどちらの方にも正と負の因子が混在している。よって「戦争」と「LOVE & PEACE」との間で、それらのどちらか一方が絶対化する時流の中では、むしろそのどちらもが「悪者の破壊」という括りで、一つの大きな同相を作り出しているのだ。

 

一方で「LOVE & PEACE」と、そのみんなが謳う言葉には、その外縁で殺されていく人々の現実が排除されているように見える。実際、大勢の若者が国会議事堂の前で、どれだけ「LOVE & PEACE」と叫んでも、今隣の国で起きている戦争に終止符を打つ事さえも出来ない。むしろそこにこそ、「LOVE & PEACE」という理想と、それでも「終わらない戦争」という現実の狭間(はざま)で、苛烈なる歴史的宿命の応酬があるのだ。そこには、厳然とした終止符のようなものは、存在しない。しかし、それは歴史の宿命が秘める無情さでも、また人間が作り出す運命の卑劣さでも決してない。そのような「LOVE & PEACE」と「戦争」を隔てる間隙には、互いの似姿を無作為に投射し合う、無限に繰り返される自己投影の極限がある。

 

そしてそれ単体では、完全に正しい主張である筈の「LOVE & PEACE」もまた、時に独善の事態に陥る事があるというのは、歴史的に観て、充分に証明されている真実である。よってだからこそ、これからもそういう事態はあり得るのだ。その瞬間の「LOVE & PEACE」は、それに賛同しないそれ以外の人を嘲るだろう。そうなれば、「LOVE & PEACE」も、この場合では悪となるのではないだろうか。そして「戦争」もまた、これまでの認識以上のマクロなスケールでは、誰かの幸福へと繋がり得るのだ。全ては相補性的である。それも時に逆説的に。しかしこのような逆説的な作用とは裏腹に、またそれよりかも遥かに広い別の位相では、これらとはまた全く逆の作用をも、当然のように存在しているのだ。つまり、逆説の逆説である。そしてここから更に内部のフィールドに入る事は、人智を遥かに超えるステージに突入する事となるのだろう。

 

このようにこれまで議論を進めて来たが、それでも戦争という悲劇から脱却しようとする「LOVE & PEACE」なるアクションが、全くの無駄であるという事を、結論にしたいのではない。そういう、「LOVE & PEACE」なる理想もまた、より良き歴史の未来を提起するに当たっての、より重要なファクターであるのだ。なぜならばそれは、純粋に正しい事であるからだ。けれど、それでも何らかの諸外国から、戦争という銃口を、どこからともなく突きつけられている現実も、またリアルなのである。そういう状況にある渦中でも、それらを十分に加味し吟味にかけた上で、自衛隊のこれからの意義や、憲法の再解釈に当たる議論が、広く活発に展開されるようにと、切に願っている。そのように考えを不断無く巡らせる行為もまた、これからの日本国の未来を考える上での、重要な行動であると思うからだ。

 

大切なのは、考えを巡らせ続ける事だ。それは決して一つの結論に綺麗にまとめる事ではない。たとえ議題が「LOVE & PEACE」であろうと、「戦争」であろうとも、そこに「絶対化という停滞」が存在し続ける事こそが、あらゆる事態を悪化させて行くのだから。そして、「LOVE & PEACE」や「戦争」が共に、「正」と「負」の部分を持ち合わせているという、この二つの真実こそは、その両方ともが、「戦争」や「平和」という歴史的現象を語る上では、より重要なテーゼとなり得るだろう。

 

しかし、みやすけは、そのどちらかの一方の主張だけが、絶対的に正しいという事を言っているのでは、決してない。みやすけの願いとは、議論を有意義に巡らす事である。流れのあるところに、清き水はある。

 

これまで見て来たように「LOVE & PEACE」が絶対的真理を持てないなら、「戦争」という現象も、それと同じ動機で、また絶対的な真理にはなり得ない。しかし、この二つの命題というのは、まったく分け隔てられた存在ではない。むしろこの二つの命題こそが、それぞれの影を投影し合って、より密接な関連を作り上げているのだ。よってこのそれぞれは、それぞれを独立的に語る事を許さないだろう。それらは、互いの領域を共に跨り、かつ各要素は複雑に作用し合い、そしてそれらはお互いに、混沌未分なる本質的なスケールをも共有し合っているのだ。だから、そのどちらもが、決して欠いてはならないし、また、どちらかの自己主張が強すぎてもならない。

 

「戦争」と「平和」は、その根本を共有するフィールドでは、互いに渾然一体を成している。よってそのどちらもが、どちらに対しても、一方的な独善に陥らないように議論を展開する為の抑止力になり得るのだ。つまり「戦争」と「LOVE & PEACE」という二つの命題は、どちらか一方の独善的議論へと陥るのを、抑止させる作用を持ち合わせている。ようはバランスの両立である。つまり「戦争」や「平和」という歴史を議論するにおいては、この両方こそは必要必然となるリアルなのである。そして、絶対的真理化を許さない、このような歴史的現象は、その矛盾率が満遍なく包摂されるような絶え間のない、不断に流動する相互作用の狭間にこそある。そしてそのバランスの両立によって、「戦争」か「LOVE & PEACE」かのどちらかだけが神聖絶対と化して行くのを抑止する効果を生むのだ。よってこのような、より広範なる「戦争」や「平和」という現象に関する議論を、行い続ける気力を持つ事が、まさに今こそ必要なのだと、みやすけは思っている次第である。

 

 

〜「LOVE & PEACE」は、戦争から世界を救うか?〜

 

※1参照の記事

「日本のアフガン支援は何を意味しているのか」

https://www.jri.co.jp/file/report/tanaka/pdf/5407.pdf

マスコミが報道しないアフガニスタンの実情 - AKIRA-MANIA

http://www.akiramania.com/out/dr.nakamura.html

 

※2 事実確認について

今回参照したのは、YouTubeに数多くアップロードされている動画によるものである。きちんとした事実に根差しているかの議論があると思われるが、ここでは省いた。

 

※3 ヒューマニズムの歴史的位置付けについて

ここの箇所に関しては、歴史的経緯は予め掻い摘んだ形を取った。ご了承下さい。

 

〜参照の記事〜

安保法制について考える前に、絶対に知っておきたい8つのこと

伊勢崎賢治『戦場からの集団的自衛権入門』から

http://synodos.jp/international/14646

 

 

 

 

 

「LOVE & PEACE」は戦争から世界を救うか? Part1

日露戦争、そして二度の世界大戦を経て、大日本帝國は1945年の8月15日に敗戦を迎えた。サンフランシスコ条約の講和のその後、大日本帝國GHQによって実質的に解体され、そして新たに平和立国を標榜する日本国として、再建されるに至った。世界大戦の敗戦、それは、一つの時代の終焉であり、また始まりでもあった。敗戦を迎えたそれからというもの、その忠実なる平和的中立国としての日本国は、その後の歴史的事件に対して、その随所随所で重要な国際貢献をしてきた。

 

例えば、1978年から、国中が内戦の炎に燃え盛っていた当時のアフガニスタンにおいては、幾度の国際的な支援を受けて、2014年にようやくテロ組織や軍閥の、大方の武装解除に至った。そしてその問題解決の陰には、特に日本国の支援が一躍を買っていたとも言われている。しかしそこには、単なる平和的中立国としての成果があった訳ではない。それは、過去に深く刻印された敗戦国という立場から発するメッセージが、結果としてアフガニスタン国内の和平を締結させる事を可能にしたのだ。そう、敗戦国という過去の刻印こそが、当時のNATO同盟各国よりも、アフガニスタンに対してより親身になれるという形で役立ったのだと、一部の研究者によって、そう分析されている。※1参照

 

約一世紀前の過去、大日本帝國は、大東亜共栄圏を大々的に掲げ、各国に攻入る形で散々に猛威を振るった。そしてその際には、幾万もの命の悲惨な犠牲を生んだ。しかしそのような凄惨なる現実がありながらも、また別の箇所では、欧米列強の国々に植民地支配を受けていた、当時弱小であったアジア諸国を、結果的に独立へと導いたのだとする研究者の話もある。このような研究は、悲惨さの象徴である大東亜戦争も、結果的にではあるが、それとは逆にアジア弱小国の独立の機運に繋がったと唱える事も、また可能であるという事を示している。これは空想の話ではない、その証拠に、それを実証するような、当時のアジア各国の高官の話も、記録されているようだ。※2参照

 

過去、大日本帝國が行ってきた世界大戦の痕跡を伝えるのに、現代の一般メディアは、様々な創作物を、または芸術を、広く流通させている。それは映画、文学、その他のイメージによってである。また、その表現の内容とは、戦場での、人間の過酷なる生と死のドラマを強調するものが多い。しかし却ってその方が、戦争という現実を、幅広く浸透させやすいという、経営上の目論見ももちろんあるだろう。このように敢えて広く民衆に伝わり易い形で表現したものを流通させる事の方がマーケティングの理論としては、真っ当なのかもしれない。しかし、そのように表現される悲惨で苛烈なヒューマンドラマだけが、「戦争」というリアルの全てなのではない。

 

では「戦争」とは何か、これから書こうとしている事は、あくまでもみやすけの仮説である。しかしこの論考が進むにつれて、チョイスする言葉のニュアンスによっては、時に戦争を美化するものとして映るかもしれない。しかし、ここで表現したいのは、「戦争」の醜悪さでもなく、またバックラッシュとしての美化でもない。この論考は結果的に、一つの結論で片付けられない、文末が取り留めの無いものになるだろう。しかし、この表現にも「戦争とは何か」という途方も無い議論の迷宮に一筋の光をもたらすような、生命を吹き込もうと思う。それでもこの論考内で繰り広げられるどのようなイメージも、現代の世界情勢に適った形で終始し、またその総体は、この世界を構成する様々なリアルの中のほんの小さな断片に過ぎない事を否めないにしても。つまり、どのように語り尽くしたとしても、結局は巨大な総体の内の、ほんの粗末な断片に過ぎないという事である。

 

ここで、敢えて先に言おうと思う、実際「戦争」とは、人間の悲惨さ凄惨さ、そして人間本性の醜悪さのみの集約の事を言うのではない。そう戦争とは、過去にアジア独立の機運へと導いたように、何かしらの未来を生み出す潜在的なパワーを持ち得るのだ、ということを。この仮説は、現代の世界情勢のリアルから演繹したものである。しかし歴史を決めるもの、それは未来である。この、たった「今」には歴史は宿らないのである。歴史を敷衍出来るもの。それは、その事件から充分な時間が過ぎ去り、そしてその事件に関する夥しい量の史料が発掘され、またそれらが考古学的に、十全な処理が可能となってからである。

 

ここで話を戻すと、例えば、数万もの命が奪われる悲劇を生み出した大東亜戦争を、逆の見方に転換した時、当時、植民地支配に苦しんでいたアジア各国を、大日本帝國が独立へと導いたと位置付ける事も、実は可能なのである、ということ。ここでいうアジアの独立とは、列記とした史実である。だから、そこから推理して、このように位置づける事が可能となる訳である。つまり大東亜戦争によって、世界情勢が変わったのである。しかしこれまでは、戦争を悪いものとしてしか見てこなかった。しかしこれをアジア独立の契機にもなったと、逆に見て取ると、それは良いものにもなり得る。つまり史実とは裏表一体なのである。歴史上の一つの事件を取ってみても、それを個人的な良し悪しで一方的に定義付けようとする行為や、またその事件に包摂されている巨大なスケールは、遥かに人間の思考範囲を凌駕しているのだ。それは、大東亜戦争という一つの現象を持ってしても、そのようであるという事が、まさに今ここで証明されようとしている。しかし、その表裏一体な史実の特性によって戦争が全面的に支持される訳でも、または期待される訳でもない。でもそれらの見方も一つの真実なのだとすれば、「良」「悪」を共に一体とする現象こそ「戦争」の本質なのだと、考えられるのだ。

 

そしてこのような表裏一体の史実が、真実であるとされるのなら、戦争という現象は、人々の命が無残にも殺戮されるという凄惨で悲惨な面を持つだけのものではないという事になるだろう。またそうなるのだとすれば、我々は一般的に流布されている戦争というパブリックイメージよりかも、もっとこの現象には、より深遠なるプリミティブな領域がある事に気づかされるだろう。だから今一度、より慎重に俯瞰してみる必要性があるのだと思う。そう、この史実の持つ「表裏一体」の原理によって、戦争という真実は、実は更なる複雑な次元を構成するダイナミズムに揺らいでいて、またその極地には、より深いプリミティブな「戦争」という原初の体験が存在しているとの仮説が立てられるのだ。

 

そこでは、一般の研究的理論化という手法を持ってしても、まだ到底語り尽くす事の出来ない、より深い複雑でいてピュアな戦争の体験が存在し得るのだと思われる。そういう意味では、現象の大枠を意味する「戦争」と、またその双対である「平和」というものも、これらとまったく同じ論理で、「戦争=悪」「平和=善」という表面的なニュアンンスを超越し得るのではないか。また、このような事実によって、それらを普遍的な形で一般化する事も、単純な結論に還元化する事も、それを不可能にすると考えられるのだ。つまり、「戦争=悪」「平和=善」という図式も、遥かに永い史実のスパンにおいて、そのような定義に固定化する事は、実質的には不可能であるという事なのである。つまり、どのような歴史的事件も実のところは複雑怪奇でいて、それもあらゆる事柄は混沌未分でもあり、また総ての現実同士が、密接に錯綜し合っていると言えるのだ。

 

また、史実を構成する大きい事象から小さな事象にかけてのどのような関係にも、そこに包括し切れない正と負の作用因が、無数に存在しているものである。かつ、それらは複雑に入り組み、真実の探究をより困難にしている。つまりは、歴史上で起きるどのような事件も、たった一つの観点から、その事件に関する、あらゆる純然なる真実を導き出す事は、結果的に不可能であるという事なのだ。それは戦争という歴史的事件も同じである。

 

そして巷には、「LOVE & PEACE」を掲げ、戦争反対を訴える集団がいる。彼らは「LOVE & PEACE」で熱く戦争の悲惨なるリアルに立ち向かっている。だがしかし、これまで見てきた中で解るように、彼らが主張するような「LOVE & PEACE」という理想もまた、この悪辣な歴史の流れを、より良きものに変化させるような、唯一無二(ゆいいつむに)なる真実なのではない。

 

なぜなら、この「LOVE & PEACE」もまた、それ単体だけで、平和の根本を構成している訳ではないからだ。仮にこの世界が、正と負の作用の両立で成り立っているのなら、それはまさしく戦争と平和もまた、これと同一の作用の元で両立するものとして、同一視しなければならない。つまり、「正」と「負」とは一つの極に全く分節化される現象なのではなく、それらは相補完的に作用し合って、ある一つの巨大な現象を創り出しているのだ。またこれからの議論においては、史実とはそういうものとして見直し、これまでの歴史を改めて考え直さなければならないだろう。

 

それは、「平和」という現象でも全く同じ帰結である。つまり「LOVE & PEACE」の一方のみでは、世界平和の樹立を可能にする為の、唯一絶対なる正しいテーゼにはなり得ない。つまり「LOVE & PEACE」とは、それ自体では善ではあっても、それ単体としては決して絶対的な善ではあり得ないという事である。それはかつての大日本帝國の戦争が、あくまでも結果的にではあるが、アジア各国の独立の起因になったと、そう逆の見方が可能であるという事からも、そう言えるのである。この事実は、当時のアジア各国の高官による伝承が証明している事である。

 

だとすれば、それは逆説的ではあるが、平和を一方的に主張する事こそが、未来の戦争を勃発(ぼっぱつ)するに当たっての、重要なポイントとなる事態を予期させるのだ。つまりは、「戦争」もまた単に破壊や殺戮という面だけで存在する訳ではなく、それは時にケース・バイ・ケースで、一国の未来を創造する起因にもなり得る。そして一般的なイメージでは最善とされる「平和」も、辿る道筋を見誤れば、時に戦争へと駆り立てる原因にもなり得るのだ。

 

それでもほとんどの戦争は、たしかに人々の命や、その生活をも根こそぎ破壊する。それは愚行としてあり、決して許されはしない。それこそは正しい主張である。しかし、大日本帝國の戦争が、結果的に、欧米の列強国から、アジアの国々の独立を可能にさせたと伝承されているように、仮にそれが真実なのだとすれば、戦争という現象も、極一部分ではあるが、これからの世界を生み出す起因にもなり得るのだ。つまり戦争とは、ある場所を破壊し、時に殺戮も招くが、また別の箇所では、平和の創造に作用する事がある。これは実に逆説的な仮説である。一口に戦争といっても、そこには正と負の両方の作用が、逆説的なスケールで作用し合い、かつ存在している。そう、このような前提があってこそ、正と負の作用が複雑に入り混じった表裏一体を形成し、結果、逆説的な戦争という混然一体の実状を観る事が出来るのだ。そう、「戦争」と「平和」、これらは、一辺倒な理論で簡単に解く事も、また単純な一般論に包摂する事も出来ない、歴史的現象である。

 

つまりこれまで観てきた事柄を一旦まとめるなら、この一見矛盾なる結果、つまり巨大なスケールでの戦争という見方においては、単純に「善」と「悪」という二分律で、どちらか一方にのみに結論を下す事は不可能であるという事、そしてそれらを単純に思考しようとする行いは、時に「戦争」という本質を見逃す結果に至るという事である。つまり戦争というのは、厳密に言えば、ただそれだけでは「善」でも、また「悪」でもない。しかし「破壊と殺戮を招く」という一面が現れてこそ、初めて戦争は悪であり得る。戦争によって人間が無意味に殺戮されて行くのなら、そういう一面での戦争というのは、どのような観点を取り入れようとも、それが絶対的な正しさであるとは言えないだろう。それは間違いなく罪あり、むしろ絶対的な間違いである。しかし、「戦争」という、より「巨大な現象」としてのスケールにおいては、決してそれが「絶対悪」であるという訳ではない。つまり、あらゆるケースを総合した「戦争」という現象には、それ自体には、良し悪しという小さなスケールのような単一性は皆無であり、むしろ相矛盾する逆説性を巨大に包摂する、複雑なファクターが内在化されているのだ。そこには、「良し」「悪し」のみの尺度で、それを語る事を許さない、壮大な「戦争」という現象が存在しているのだ。

エゴイズムの時代のサイエンス 【神は死んだ】のこれから 〜【私的】社会構造とサイエンス〜 No.3

しかしその際に現れる、それなりの弊害も、また危惧されるべきであると思う。それは、「私的な」という観点から広範な社会的現象を「語る」事に際しての自身のスタンスと、その振る舞いである。そこには、自ずと錯綜した視点と、それに絡んだ自分のスタンス上の盲目性に、着眼せざるを得ない状況に突き当たる事になるだろう。そういう傾向の弊害なのか、あちらこちらで、自らを神であると自称するような言動が、事もあろうがサイエンスを標榜する学者の間にも、その感染の規模が拡張してる傾向が観られるのだ。

 

「私的な」からの観点を軸においた探究には、先程にも述べたように、強烈な快楽的多幸感を伴うシチュエーションが想定され得る。このような多幸感こそは、思想を体系化するに際して、危険を伴う事があるのだ。かつてニーチェは、“神は死んだ” と、警句を延べた。ではなぜ “神は死んだ” のか。実のところその神を殺したのは、現代のサイエンスで流行している「私的な」の観点から思考する際に陥りやすい、強烈な思考的オーガズムではないか。思考的オーガズムとは、つまり自分の雄姿に酔い痴れている状態である。

 

かつて、サイエンスで流行の兆しを迎えようとしていた、この「私的な」という観点こそ、それはやがて “神が死ぬ” 予兆として現れたのかもしれない。この「私的な」という観点による探究では、時たまこのような多幸感は観られる。実はこの「私的な」という観点からは、思想的独善が生み出され易くなるのだ。そしてかつて、ニーチェによって “神は死んだ” と言われて久しい時間が経った。しかしそれにしても、ニーチェの言った “死んだ【神】” とは、一体何を指す語なのだろうか。その正体とはつまり、いわゆる社会で共有されて来た【絶対性〔ストーリー〕】を指す言葉なのではないか。

 

つまり、これまでの「絶対性〔ストーリー〕」が零落し、やがて、相対性の時代が到来する事を予言した警句だったのではないか。では、相対性の趨勢する時代における神とは、一体何だろうか。それは流動する相対性によって社会構造が不確定化、または不安定化するに際して、アイデンティティを通して絶対性を帯びた 【個人〔私的〕】 なのではないか。しかし神を、絶対性の象徴であると断言するのは、少々早計かも知れない。が、社会構造が不安定化するという状況において、なおかつ社会で共有されるべく「絶対性〔ストーリー〕」も成立し得ない時代においては、自ずと【個人〔私的〕】が絶対性を持つに至るのは、半ば時代の宿命である。

 

そうした【個人〔私的〕】の絶対化、それは思考する自分が、まるでこの世の神であるかのような錯覚を引き起こす原因にもなりうるだろう。更にそうした誤解により、さも自分は “この世界の全てを知った者” として、横暴な振る舞いを起こす事態にもなりかねない。それはつまり【自分こそが神】であるという、事実上の宣言である。

 

かつてのフィロソフィーでは、自分とは、“決して知りえない存在” であるというような、人間とはそもそも不完全な存在であるとする了解があった。だから、神、精神、そして魂や美の根源に対して真摯でかつ敬虔で居られたのだろう。しかし、そうした古代においても、それらの態度を損なった人達が居たのだ。そんな彼らは、皮肉を篭められて “ソフィスト” と、揶揄されていた。ソフィストとは、「詭弁者」という意味で使用されていた言葉である。詭弁者である彼らは、自らの誤ちを隠したり、自分の成果を無駄に誇張する為に、真理を偽造したり、故意に振りかざしたりしたのだ。

 

そんな彼らの振る舞いの発端には、「主観性=【個人〔私的〕】」と「客観性=【フィロソフィー〔関係的〕】」とを混同させて、そこから倫理的道義的に誤った思想を構築していたのだろう。しかし、何においてどのような観点が最善であり、唯一正しい哲学であるかという事は、そもそも本質論的に不確定である。だから、必ずしもそういう状況に陥る事が、最悪であり、偽善であると一方的に決定する事も、また不可能ではあるのだ。

 

しかし “神は死んだ” という警句が、自らを神であると宣言するサイエンティストが現れるという言葉だったとすれば、どうだろうか。自らが独善的に盲信する真理で、他者の真理を猛攻する時代の到来を、かのニーチェは予言したのだろうか。かつてニーチェが予言したであろう、社会で共有されるべく【絶対性〔ストーリー〕】が成り立たず、実質的に形而上学が成り立たなくなってしまったとすれば。しかしそんな現代においては、「私的な」から成り立つ個人の真理にとって、【他者の真理】とは、これまでとは違う形式で、形而上を継承する役割を待ち得る筈なのである。つまり、他者の存在が、思想的にも身体的にもより身近である現代特有の距離感こそが、逆に、そこに到達し得ない存在としてのポジションを持ち得るのだ。

 

これはどういう事かと言えば、つまり【他者の持つ真理】こそが、フィロソフィーでいう所の【決して触れられないもの】の箇所に相当するのではないかと推測されるという事である。例えば、相手がそこに居るにも関わらず、その心を完璧に知るという事は不可能であるという見方からも、それが伺えるだろう。近くに居るのにも、関わらずそれに触れる事も、知る事も出来ない、これは【他者】という存在だけではなく、これまでの形而上学の対象であった、神、精神、また魂や美という現象もそうである。決して触れられない存在として、その根源を探究する事、それはつまり人間の生き方であり、人間としての真善美であった訳である。かつそれが形而上的な現象だけではなく、【親しい友人】でさえも、その定義に十分に当てはまる。

 

しかし、形而上学で扱われるような真善美が、人類に普遍的なものとして共有される時代は、とうに終わったのだ。しかし、それは普遍的に共有されるべく大きなストーリーの【元型】を失っただけである。それは決して普遍性がというのではない。だからそのような普遍性という本質こそは、形を変えて現代でも残滓として残り続けている。そしてその名残はあちらこちらの箇所に観られるのだ。

 

例えば現代では、アイデンティティに規律された個人というものが信仰されている。またつい最近までは、「自分探し」に代表されるような、本当の自分とはなんぞやを探究する自己啓発が流行していた。そしてある人は、愛する人の裡に、本当の愛を夢見るものであり、またある人にとっては、日々意識を高める事に確かな充足感を求める。そしてこれらに広く観られるのは、自分にとっての【普遍的な生】というものである。このような現代特有とされている【普遍的な生】という理想こそ、実は、かつて様々なフィロソフィア達が、形而上学に求めた、人間の生き方の真理そのものである。

 

しかし現実では、自らを神と自称したサイエンティストが、自らの体験を真理として「全てを知り得たのだ」と陶酔しているような光景が多く観られるようになった。その大方は、無闇な正義欲に振り回されて、他者を執拗に攻撃している。つまり、サイエンスにおいて「私的な」の流行とは、また別の観点から見れば、いわば「エゴ」の時代を表象したものであるとも言えるだろう。また形而上の失われた時代というのは、普遍的な価値が、形而下すなわち神不在の物質的な価値観に置き替わる事を意味し、それが思想的独善を、生み出しやすい状況を作ってしまうのだ。つまりそれが、現代で 【思想的エゴイズム】が流行するという事の証左である。

 

そしてたった今、巷の書店では、精神世界の書籍が流行っていると言われている。その訳とは、こうしたエゴイズムの時代への適応を呼びかけたものではないかと、みやすけは推測している。こうして見ると、その時代の流行りとは、むしろ、その時代がそういう流行りの逆に偏ろうとするから、その抑止力として顕れるのではないかと、仮説が立てられる訳である。むしろそこには、その流行りと拮抗する世の中の流れがあるのだと、そう仮説が立てられる。

 

そんな形而上が事実上失われた現代において、改めてその普遍性を持ち得るのは、【他者】という存在である。人間は、社会を形成して、その関係性の中で生きる動物である。そしてこれまで、そのような智慧を、神や、精神、そして魂や美に、その普遍性を求めて探究して来た訳である。人間とはそうした広い世界に、想いを自由に馳せて、これまでの永い歴史を紡いで来た。しかしどれだけ遠くの土地に想いを馳せようとも、結局は、近しい人間との関係性に立ち帰って行くのだろう。そして現代、人類普遍の法則はもはや捨て去られた。そして新たに、人間と人間の関係を再考する時代に、たった今突入したのかも知れない。

サイエンスの解体とアイデンティティの行方 〜【私的】社会構造とサイエンス〜 No.2

これまでサイエンスは、「主観」とされるものを極力排除してきた。その傾向をより強めたのは、16〜19世紀の期間だとされている。この頃のサイエンスは、観察器具による現象の観察と、幾度の実験による検証という手法を確立した時期である。これら観察器具と実験の発達によって、サイエンスは飛躍的に厳密化されていく事になる。例えば、およそ16世紀にコペルニクスによって唱えられた地動説も、天体の厳密な観察によって立証されたものだった。それから一世紀を経て、ガリレオによって発明された天体望遠鏡によって、その傾向はより厳密かつ急速に発達するに至っている。

 

こうしたサイエンスを行う際の手法が、「私的な」を排除した理由とは、なんだろうか。それは恐らく、そこに自分こそが全能であるという惑いの余地を、あらかじめ封じる為のものであったのではないかと、みやすけは思うのである。

 

世界の根源を探究するというのは、ある意味、魔境を彷徨うのと似ている。それは、自分が世界を俯瞰するという状況において、まるで、自分が世界の総てを手に取っているのだ、という感覚を憶える瞬間があるためである。それは世界を「客観視」する事を、逆に、世界を「支配」していると錯覚する事によって生じるものである。

 

そしてそれは、「思考」という行為にも、その片鱗は現れるのだ。頭の中で、深化する思考。現実のあらゆる感覚を拒否し、より深く思考を研ぎ澄ませると、不意にとある臨界に達する瞬間を迎える。それは「ひらめき」と言われるものである。やがてそれに到達し、そこに深い手応えを感じると、自分こそが世界の覇者であるという全能感に支配されてしまうのだ。

 

こうした世界の全てを堪能しきった、あらゆるものを理解してしまったという体感、それはさも強烈な体感である。更にそこでは、酔い痴れるような快感が伴う。そうした極限の思考に到達される臨界点では、輝くような「ひらめき」があり、その更なる内部には、「世界を知ってしまった」という全能感が待っている。そしてその溢れ出す多幸の瞬間に、この世の神が現れるのだ。

 

このような体感とは、いわばこの「私的な」という観点からの思考が成し得る、耽美なる極限の形なのだ。そしてこの場合の神とは、身体感覚を強烈に体感する思考的オーガズムの渦中に現れるものなのだ。思考の極限にほろりと咲く可憐な華。そのような強烈な体感の最中に、全知全能の神は、煌めくような閃光を放って、探究する者を丸ごと呑み込んでしまうのだ。

 

特に現代は、この「私的な」の領域が、社会科学を中心に、半ば全面的に流入される時代となった。特に、社会科学の領域においては、「私的な」という一観点を用いて、人間社会を複雑に構築する、ありとあらゆる現象を解明して行く手法が流行している。

 

そんな現代とは、これらは既に言われている事ではあるが、前近代において機能していた階級制や身分制などの制度が成り立たなくなった世界である。更に現在の学説にならうと、前近代的な不自由で不平等な社会構造においては、アイデンティティで個人を規定する必要は、あまりなかったのだとされている。しかしこれは逆にいえば、社会構造が絶対的であるとは、いわば、その社会構造の内側の安定性を保証するものだった訳である。

 

特に現代では、様々な属性が多様化複雑化した世界となり、自らその最中で自己を確立し続けなければならない。また人間とは、社会を集団で形成しなければならない動物なのである。そうした渦中で、絶え間なく流浪して行く構造の最中に、独立した成員としての自我を保つ必要がある訳だ。そしてさらに、こうした構造社会の中では、この社会に対して、自らが充分に果たせるであろうメリットを、常に表明し続ける必要さえもある始末である。そう自分は、この社会にとって、常に有用なのだと宣言し続けなければならない。なぜなら、かつてのような絶対的な社会構造を失った為に、今度は、個人の自律を要請されるからである。

 

複雑多様化の社会とは、言い換えれば、それだけ不安定な社会構造という事である。そういう社会で絶対性を求める事は、ややもすれば差別を生み出す事にもなりかねない。なので、こうした社会構造に絶対性を定立させる事は不可能なのである。特に、今の世の中の時流は、相対性の時代である。そういう相対性の時代では、自ずと、個人というものを、それも自ら率先して安定させなければならない状況下に、晒される訳である。個人の安定化、それが現代社会の中で生き残って行く為の、必須なる術である。

 

そしてその最中で、常に「私的な」の一観点を導入するとは、絶え間なく流動する構造社会の裡で、ポジティブにアイデンティティを確立する為の手掛かりを、有益な形で提供をしているとも言えるだろう。これはどういう事かというと、順を追って説明すると、一つに、現代では形而上を形成する余地が、もはや無いのだという事実に、その解答の一端はあると見ている。

 

それは、この社会には、様々なアイデンティティを持つ人間が、同時に存在しているという事に深く関わっている。しかも、それが常に意識される範囲にである。そのような社会では、誰かしらの発言をも、そこに曝されるべく批判のようなものが、常に付きまとっている訳である。しかもそれは、決して見えない形で、周囲から常に見張られているような体感の下にである。つまり、社会の成員全てが合意し得る現象というものが、もはや成り立たたず、そうした渦中で、さらにその絶え間のない批判の眼差しに晒される上に、アイデンティティを確立した個人を形成する必要性に迫られているという事である。つまり、形而上学が成り立つ時代の、事実上の終焉において、個人というものがより前面化されるという事である。

 

そしてもう一つのキーとは、サイエンスにおける「私的な」の流行にある。それは、「アイデンティティ」という新たな個人の時代の出現に、深く影響されている。これらサイエンスの「私的な」の流行と、時代が要請する「アイデンティティ」の確立とは、実は、密接な表裏を共有しているのだ。このサイエンスの「私的な」の導入に際しては、それらは、主に社会運動に還元された形で、広くその思考体系が共有されるに至っている。それはつまり、「かつてのサイエンス」の事実上の解体を、余儀なくされているという事である。

 

それによって現代では、幅広い範囲に、サイエンスという思想が還元される契機にもなった。そこではもはや、かつてのような知識を待つ者、そして持たざる者という階級さえも消滅した訳である。つまり、サイエンスに「私的な」を導入した事、それによって様々な知識が溢れ出し、その移り行くトレンドの最中で、個人を確立するアイデンティティは、より醸成されて行くのだ。これらの事柄によって、アイデンティティがポジティブに確立されるに際しての手掛かりを示して見た。

 

フィロソフィー【知】と【人】そして愛の関係 〜【私的】社会構造とサイエンス〜 No.1

真実的なものが、形而上的であるという意義は、自分とは「決して知り得ないと存在」とする事にその本義がある。「決して知り得ない」それは、いわゆるサイエンスを志す者が身に付けるべき作法であると言えるだろう。また「決して知り得ない」とは、それは「決して触れられない」「決して対面出来ない」という事の暗喩でもある訳である。では、哲学〔フィロソフィー〕とは、何か。それは、【知】と【人】との愛の関係性である。まさに「知〔ソフィー〕」を「愛する〔フィロ〕」というイメージからは、まるで愛しき人に馳せる、深い情を篭めたような情景を連想させる。

 

この「決して知り得ない〔もの〕」こそ、これがそうであるから、これに「知〔ソフィー〕」に倒置させた、「愛する〔フィロ〕」という表現を与えたのだろう。俗に、決して触れられない高嶺の花にこそ、人間の愛は、深く燃えるものである。こうした「知〔ソフィー〕」と「愛する〔フィロ〕」が限りなく親密に関係し合うような、決して「知り得ないもの」に関する、そのような甘美なる表現は、人間が「知」という現象に対して抱く、エロスを表象しているようにも見える。それは、現象の一部である【知】を人格として喩え、更にそれを「決して、到達し得ない」という、さもそれが人間と人間との、甘い愛の関係になぞらえているように、思わず空想してしまうのだ。

 

つまりフィロソフィーとは、【知】と【人】との人的な愛を介した蜜な関係を謳ったものではないか。つまり、そこには人間が本能的に持っているエロスが、暗喩として篭められているように思える訳なのだ。そして、その実践者を「知を愛する者〔フィロソフィスト〕」と呼ぶような、このような名に関しても、そこには、醸成されたより親密なムードが表現されているようでならない。【人】は愛を持って、【知】と対面し、そこに親密なる関係性が生まれる。そのような連想を想起させるのは、決してただの夢想ではないだろう。

 

そして、それらを根源とするサイエンスという営みがある。それは、仮説と証明を繰り返して、知を体系化し、やがて真理へと限りなく近づく為の行いである。これまでサイエンスの手法では、「主観」といわれる、哲学上では「感情」とも分類される箇所を、極力排除してきた。それは、サイエンス的手法においては、「客観性」に基づく分析が、より重要視されている為である。そしてサイエンスとはその手順の上で、厳密に体系化されたものである。またそこでは、特定のルールを厳守した中で、さらに厳密な証明を施す事を、条件とされている。

 

しかしこれは、例え同じサイエンスの仲間でも、そこから様々に分岐したそれぞれの分野では、この証明される際に使用される手法の定義は異なる。だがあえて共通しているものとして、まとめられるならば、それは基本的には、観察される対象に課せられる自身の客観性というスタンスを、厳守しなければならない事であると言えるだろう。そして恐らく、これらは広くサイエンスという分野で、取り入れられているものであろうと思われる。そうして観る対象を、客体化して分節化可能な現象として扱い、それらを普遍的とされる理論に一体系化するという事が、主にサイエンスの分野でなされている仕事である。

 

しかし、サイエンスが勃興する以前の更に昔では、また事情は違っていた。特に古代哲学においては、人間としての在り方を、根源から問うという側面がより強く出ていた。それは、現代サイエンスのように、経済活動に直接応用されているような、実用的なものとは、また違うものであった。特に現代では、サイエンスの果たす役割は、純粋理論の分野だけではなく、応用理論としてより実用的な面に、幅広く利用されている。またサイエンスの発達と、人類の進化は、時代が進むに連れて、より加速的に密接な相乗効果を生み出している。このようにサイエンスとは、古代哲学が、「知を愛する〔フィロソフィー〕」と表現されるように、主に「人間の心の営み」に関して影響を与えていたものとは、違うものに発展して来たと言えるだろう。【しかし、数学の起源のような、農耕との関わりが深くあったとされる分野の研究もある。】

 

このように古代哲学においては、より良く人間が、僅かな期間の狭間で生きるという事に、どれだけの意味を持つ事が出来るのかを模索してきた。更にまた、より良い生き方とは、どのような意義を持ち得るのかという事を、広く探究されてもいた。つまり古代において哲学とは、人間がより良く生きるための智慧を、授かるための手段であった。

 

そうして古代哲学においては、精神、神の存在、また魂や美という現象を通して、この世界の根源を探究しようとした。そして、そこから様々な流派を派生させながら、人間の生という現象を模索して来たのだった。もちろん、その対象は、人間だけという事でもなかった。それは「自然」に関する好奇心がそうである。流派の中には、世界を構成する「自然」の根源を究明したいとした派閥も存在していたのだ。またそれらは、哲学と区分され自然哲学と呼ばれていた。そうして、この世界の根源を究明したいと湧き上がる欲求めいた感情や、またそれらを発端に、現実世界に内在する、様々な現象の根源を探究していこうとする哲学を、総括して形而上学と言われている。