心象風景の窓から

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「LOVE & PEACE」は戦争から世界を救うか? Part1

日露戦争、そして二度の世界大戦を経て、大日本帝國は1945年の8月15日に敗戦を迎えた。サンフランシスコ条約の講和のその後、大日本帝國GHQによって実質的に解体され、そして新たに平和立国を標榜する日本国として、再建されるに至った。世界大戦の敗戦、それは、一つの時代の終焉であり、また始まりでもあった。敗戦を迎えたそれからというもの、その忠実なる平和的中立国としての日本国は、その後の歴史的事件に対して、その随所随所で重要な国際貢献をしてきた。

 

例えば、1978年から、国中が内戦の炎に燃え盛っていた当時のアフガニスタンにおいては、幾度の国際的な支援を受けて、2014年にようやくテロ組織や軍閥の、大方の武装解除に至った。そしてその問題解決の陰には、特に日本国の支援が一躍を買っていたとも言われている。しかしそこには、単なる平和的中立国としての成果があった訳ではない。それは、過去に深く刻印された敗戦国という立場から発するメッセージが、結果としてアフガニスタン国内の和平を締結させる事を可能にしたのだ。そう、敗戦国という過去の刻印こそが、当時のNATO同盟各国よりも、アフガニスタンに対してより親身になれるという形で役立ったのだと、一部の研究者によって、そう分析されている。※1参照

 

約一世紀前の過去、大日本帝國は、大東亜共栄圏を大々的に掲げ、各国に攻入る形で散々に猛威を振るった。そしてその際には、幾万もの命の悲惨な犠牲を生んだ。しかしそのような凄惨なる現実がありながらも、また別の箇所では、欧米列強の国々に植民地支配を受けていた、当時弱小であったアジア諸国を、結果的に独立へと導いたのだとする研究者の話もある。このような研究は、悲惨さの象徴である大東亜戦争も、結果的にではあるが、それとは逆にアジア弱小国の独立の機運に繋がったと唱える事も、また可能であるという事を示している。これは空想の話ではない、その証拠に、それを実証するような、当時のアジア各国の高官の話も、記録されているようだ。※2参照

 

過去、大日本帝國が行ってきた世界大戦の痕跡を伝えるのに、現代の一般メディアは、様々な創作物を、または芸術を、広く流通させている。それは映画、文学、その他のイメージによってである。また、その表現の内容とは、戦場での、人間の過酷なる生と死のドラマを強調するものが多い。しかし却ってその方が、戦争という現実を、幅広く浸透させやすいという、経営上の目論見ももちろんあるだろう。このように敢えて広く民衆に伝わり易い形で表現したものを流通させる事の方がマーケティングの理論としては、真っ当なのかもしれない。しかし、そのように表現される悲惨で苛烈なヒューマンドラマだけが、「戦争」というリアルの全てなのではない。

 

では「戦争」とは何か、これから書こうとしている事は、あくまでもみやすけの仮説である。しかしこの論考が進むにつれて、チョイスする言葉のニュアンスによっては、時に戦争を美化するものとして映るかもしれない。しかし、ここで表現したいのは、「戦争」の醜悪さでもなく、またバックラッシュとしての美化でもない。この論考は結果的に、一つの結論で片付けられない、文末が取り留めの無いものになるだろう。しかし、この表現にも「戦争とは何か」という途方も無い議論の迷宮に一筋の光をもたらすような、生命を吹き込もうと思う。それでもこの論考内で繰り広げられるどのようなイメージも、現代の世界情勢に適った形で終始し、またその総体は、この世界を構成する様々なリアルの中のほんの小さな断片に過ぎない事を否めないにしても。つまり、どのように語り尽くしたとしても、結局は巨大な総体の内の、ほんの粗末な断片に過ぎないという事である。

 

ここで、敢えて先に言おうと思う、実際「戦争」とは、人間の悲惨さ凄惨さ、そして人間本性の醜悪さのみの集約の事を言うのではない。そう戦争とは、過去にアジア独立の機運へと導いたように、何かしらの未来を生み出す潜在的なパワーを持ち得るのだ、ということを。この仮説は、現代の世界情勢のリアルから演繹したものである。しかし歴史を決めるもの、それは未来である。この、たった「今」には歴史は宿らないのである。歴史を敷衍出来るもの。それは、その事件から充分な時間が過ぎ去り、そしてその事件に関する夥しい量の史料が発掘され、またそれらが考古学的に、十全な処理が可能となってからである。

 

ここで話を戻すと、例えば、数万もの命が奪われる悲劇を生み出した大東亜戦争を、逆の見方に転換した時、当時、植民地支配に苦しんでいたアジア各国を、大日本帝國が独立へと導いたと位置付ける事も、実は可能なのである、ということ。ここでいうアジアの独立とは、列記とした史実である。だから、そこから推理して、このように位置づける事が可能となる訳である。つまり大東亜戦争によって、世界情勢が変わったのである。しかしこれまでは、戦争を悪いものとしてしか見てこなかった。しかしこれをアジア独立の契機にもなったと、逆に見て取ると、それは良いものにもなり得る。つまり史実とは裏表一体なのである。歴史上の一つの事件を取ってみても、それを個人的な良し悪しで一方的に定義付けようとする行為や、またその事件に包摂されている巨大なスケールは、遥かに人間の思考範囲を凌駕しているのだ。それは、大東亜戦争という一つの現象を持ってしても、そのようであるという事が、まさに今ここで証明されようとしている。しかし、その表裏一体な史実の特性によって戦争が全面的に支持される訳でも、または期待される訳でもない。でもそれらの見方も一つの真実なのだとすれば、「良」「悪」を共に一体とする現象こそ「戦争」の本質なのだと、考えられるのだ。

 

そしてこのような表裏一体の史実が、真実であるとされるのなら、戦争という現象は、人々の命が無残にも殺戮されるという凄惨で悲惨な面を持つだけのものではないという事になるだろう。またそうなるのだとすれば、我々は一般的に流布されている戦争というパブリックイメージよりかも、もっとこの現象には、より深遠なるプリミティブな領域がある事に気づかされるだろう。だから今一度、より慎重に俯瞰してみる必要性があるのだと思う。そう、この史実の持つ「表裏一体」の原理によって、戦争という真実は、実は更なる複雑な次元を構成するダイナミズムに揺らいでいて、またその極地には、より深いプリミティブな「戦争」という原初の体験が存在しているとの仮説が立てられるのだ。

 

そこでは、一般の研究的理論化という手法を持ってしても、まだ到底語り尽くす事の出来ない、より深い複雑でいてピュアな戦争の体験が存在し得るのだと思われる。そういう意味では、現象の大枠を意味する「戦争」と、またその双対である「平和」というものも、これらとまったく同じ論理で、「戦争=悪」「平和=善」という表面的なニュアンンスを超越し得るのではないか。また、このような事実によって、それらを普遍的な形で一般化する事も、単純な結論に還元化する事も、それを不可能にすると考えられるのだ。つまり、「戦争=悪」「平和=善」という図式も、遥かに永い史実のスパンにおいて、そのような定義に固定化する事は、実質的には不可能であるという事なのである。つまり、どのような歴史的事件も実のところは複雑怪奇でいて、それもあらゆる事柄は混沌未分でもあり、また総ての現実同士が、密接に錯綜し合っていると言えるのだ。

 

また、史実を構成する大きい事象から小さな事象にかけてのどのような関係にも、そこに包括し切れない正と負の作用因が、無数に存在しているものである。かつ、それらは複雑に入り組み、真実の探究をより困難にしている。つまりは、歴史上で起きるどのような事件も、たった一つの観点から、その事件に関する、あらゆる純然なる真実を導き出す事は、結果的に不可能であるという事なのだ。それは戦争という歴史的事件も同じである。

 

そして巷には、「LOVE & PEACE」を掲げ、戦争反対を訴える集団がいる。彼らは「LOVE & PEACE」で熱く戦争の悲惨なるリアルに立ち向かっている。だがしかし、これまで見てきた中で解るように、彼らが主張するような「LOVE & PEACE」という理想もまた、この悪辣な歴史の流れを、より良きものに変化させるような、唯一無二(ゆいいつむに)なる真実なのではない。

 

なぜなら、この「LOVE & PEACE」もまた、それ単体だけで、平和の根本を構成している訳ではないからだ。仮にこの世界が、正と負の作用の両立で成り立っているのなら、それはまさしく戦争と平和もまた、これと同一の作用の元で両立するものとして、同一視しなければならない。つまり、「正」と「負」とは一つの極に全く分節化される現象なのではなく、それらは相補完的に作用し合って、ある一つの巨大な現象を創り出しているのだ。またこれからの議論においては、史実とはそういうものとして見直し、これまでの歴史を改めて考え直さなければならないだろう。

 

それは、「平和」という現象でも全く同じ帰結である。つまり「LOVE & PEACE」の一方のみでは、世界平和の樹立を可能にする為の、唯一絶対なる正しいテーゼにはなり得ない。つまり「LOVE & PEACE」とは、それ自体では善ではあっても、それ単体としては決して絶対的な善ではあり得ないという事である。それはかつての大日本帝國の戦争が、あくまでも結果的にではあるが、アジア各国の独立の起因になったと、そう逆の見方が可能であるという事からも、そう言えるのである。この事実は、当時のアジア各国の高官による伝承が証明している事である。

 

だとすれば、それは逆説的ではあるが、平和を一方的に主張する事こそが、未来の戦争を勃発(ぼっぱつ)するに当たっての、重要なポイントとなる事態を予期させるのだ。つまりは、「戦争」もまた単に破壊や殺戮という面だけで存在する訳ではなく、それは時にケース・バイ・ケースで、一国の未来を創造する起因にもなり得る。そして一般的なイメージでは最善とされる「平和」も、辿る道筋を見誤れば、時に戦争へと駆り立てる原因にもなり得るのだ。

 

それでもほとんどの戦争は、たしかに人々の命や、その生活をも根こそぎ破壊する。それは愚行としてあり、決して許されはしない。それこそは正しい主張である。しかし、大日本帝國の戦争が、結果的に、欧米の列強国から、アジアの国々の独立を可能にさせたと伝承されているように、仮にそれが真実なのだとすれば、戦争という現象も、極一部分ではあるが、これからの世界を生み出す起因にもなり得るのだ。つまり戦争とは、ある場所を破壊し、時に殺戮も招くが、また別の箇所では、平和の創造に作用する事がある。これは実に逆説的な仮説である。一口に戦争といっても、そこには正と負の両方の作用が、逆説的なスケールで作用し合い、かつ存在している。そう、このような前提があってこそ、正と負の作用が複雑に入り混じった表裏一体を形成し、結果、逆説的な戦争という混然一体の実状を観る事が出来るのだ。そう、「戦争」と「平和」、これらは、一辺倒な理論で簡単に解く事も、また単純な一般論に包摂する事も出来ない、歴史的現象である。

 

つまりこれまで観てきた事柄を一旦まとめるなら、この一見矛盾なる結果、つまり巨大なスケールでの戦争という見方においては、単純に「善」と「悪」という二分律で、どちらか一方にのみに結論を下す事は不可能であるという事、そしてそれらを単純に思考しようとする行いは、時に「戦争」という本質を見逃す結果に至るという事である。つまり戦争というのは、厳密に言えば、ただそれだけでは「善」でも、また「悪」でもない。しかし「破壊と殺戮を招く」という一面が現れてこそ、初めて戦争は悪であり得る。戦争によって人間が無意味に殺戮されて行くのなら、そういう一面での戦争というのは、どのような観点を取り入れようとも、それが絶対的な正しさであるとは言えないだろう。それは間違いなく罪あり、むしろ絶対的な間違いである。しかし、「戦争」という、より「巨大な現象」としてのスケールにおいては、決してそれが「絶対悪」であるという訳ではない。つまり、あらゆるケースを総合した「戦争」という現象には、それ自体には、良し悪しという小さなスケールのような単一性は皆無であり、むしろ相矛盾する逆説性を巨大に包摂する、複雑なファクターが内在化されているのだ。そこには、「良し」「悪し」のみの尺度で、それを語る事を許さない、壮大な「戦争」という現象が存在しているのだ。