心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

ダイバーシティは社会を多様にするか?

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結局、ダイバーシティの機能性を重視するあまり、その目的である経済的価値の方が神聖化してしまい、その結果、地域というものが蔑ろにされてしまう可能性がある。また、経済的価値観が優位に信仰される世の中で、そのような経済的価値から外れたような人(特に男性)は、人間的尊厳や人間的価値からも排除される事にもなり得るだろう。それは、経済的価値観に目がくらむあまり、経済的価値観から排除されている地域社会の重要性を、全く考慮にされていないためだ。地域というのは、経済的価値社会との接点としても、またそれは時にセーフティーネットとしても、そこには補完的な役割がある。それは経済的価値社会にとっての単なる補助的な存在なのではなく、そこにはきちんとした人間の暮らしの営みとしての存在意義があるのだ。それは経済があって人間が営めるように、そこに人間の暮らしの営みが礎にあって、初めて経済が維持できるのと同じ原理だ。

 

経済的価値社会と地域社会は、相補完性によって、その両方に必要性が生じる筈なのだが、今までの(特にマイノリティなどの)権利運動などは、純粋な地域性を表明するのではなくて、このような経済的価値観(マジョリティ的価値観)に迎合する形でしか、その動力に意義を見出してきていないのではないか。そして経済的価値観の優位なる状況は、その周辺に排除されていた筈のマイノリティ界隈にも、徐々に拡がるようになるだろう。またその進行によって、マイノリティにも、経済的価値観の義務が課せられる事態になるだろう。それは、「経済的価値=人間の尊厳」の状況に陥っているマジョリティ(特に男性)に迎合するということである。

 

それは、ダイバーシティの概念が先鋭化するに従い、マイノリティにも、その経済的価値観を履行する義務が課せられるという事だ。つまり、そのようなマイノリティも、経済的価値を失った際に、人間の尊厳から排除される可能性が生まれるという事なのだ。それは、経済的価値を失ったマジョリティ(特に男性)が陥ってしまう苦境(犯罪や自殺など)に、マイノリティも、その同じ苦境に立たされる可能性がある事を、示唆している。そのようなダイバーシティの概念が勃興する中で、その輝きが神聖化して行けば行く程に、マイノリティとマジョリティを隔てていた領域は、融解していくだろう。

 

例えば、地域に管轄されていた責任を負っていた人は、現在のダイバーシティの概念が、社会的な領域で顕著になるに従って、その経済的価値観をも同時に義務化される事になるだろう。こういう人は、地域的価値と経済的価値の両方の義務を、追行しなければならなくなる。それに、多様性ダイバーシティの概念は、同一に混同してはいけない。多様性ダイバーシティは、目的概念が大きく違うのだ。ダイバーシティのみによって、社会が多様化するのは間違いで、とうのダイバーシティが優先するのは、あくまでも経済的効率。そこにマイノリティーの参入を可能にするのは、多様性の結果ではなく、そこに経済的な潜在的成長性が見込めるからだ。

 

経済的価値観を敷衍させる事のみが目的化してしまい、結果的に、そこに相補完的に林立している地域社会の位置付けが、矮小化されてしまうのなら、そこには、多様性の実現などは無く、ダイバーシティという理想は、単なる経済特区に成り下がってしまうだろう。地域社会というのは、経済的価値観に染められて、初めて成り立つわけではない。それは常に、経済的社会に林立する形で、相補完的に平行する社会である。

 

しかし例えば、家庭でなされる家事を、経済的価値観にすり合わせ、経済的価値を実際に算出して、それを家事労働と位置付けて、この家事も立派な賃金に還元すべき労働なのだとアピールしている集団もあるようだ。しかし、経済的価値観によって家事を労働と位置付けただけでは、それは経済的価値観に迎合しただけであって、いうなれば、地域内で、ピュアに存在し得る家事の役割を、地域から逆に排除する形にしかならないだろう。

 

ダイバーシティこそは、それに多様性の本質があるわけではない。ダイバーシティにとって多様性とは、ダイバーシティをより確信的にさせるための媒体に他ならない。現に新自由主義の流行が本流にある世の中で、ダイバーシティの持つ役割は、マイノリティの単なる社会参加に、その事態は収まらず、それは新自由主義が持つ本質である、格差という問題が、マジョリティの範囲だけではなく、マイノリティの範囲にも押し寄せるという事でもあるのだ。

合理性と死への快楽のエロティシズム 〜理性に緊縛された肉体は絶えず死を希求する〜

人間は他者を求めるとき、そこに自分の身体、精神の総てをその他者のイメージの中に投影しようとする。肉体が他者を求める衝動は、絶えず人間の存在を揺るがす。他者を愛するとは、自己の存在を総て、愛する他者の体内に浸透させようとする企てだ。愛の中に融けて行きたいと欲する人間の実存は、まさにその快楽の最中にこそにあるものだろう。しかし人間の輪郭を描く合理性は、絶えず自我の内部に、自己を呪縛する。それでも絶え間ない欲求の中で、自分が壊れてしまう事を恐れるのは、生命体としての秩序を守護するための装置である。

 

それはある意味での死への恐れである。人間は、実存としてではなく、生命の欲求として死を忌避する。生命が生命として秩序を維持するために、人間は人間であり続けようとする。その中での快楽とは、この合理性の世界に縛られた肉体を、その合理性から解き放とうとする思惑なのだ。それは、合理性によって構築されている森羅万象からの逃避の願望なのだ。人間を組織立てるあらゆる細胞の作用は、森羅万象の理を象る合理性の象徴である。人間の存在とは、そのような合理性の荒縄に緊縛された形で成り立つのだ。

 

ときに緊縛された人間に欲情するのも、そこに合理性に縛られた存在としての自己を、そこに投影するからだ。その緊縛され横たわる人間の姿こそ、森羅万象を象る合理性に同じく縛られた、自己の存在をそこに投影できるのだ。またそれがときに美しく想えるのも、そこに対面した自己が、その対象と同一化する事によって、一時的にその荒縄の緊縛から解かれたと感じるからだ。人間は、愛する対象と対面することで、自己の合理性の緊縛を解くことができるのだ。それは空中に浮遊したとき、重力を感じなくなる作用と同じだ。

 

森羅万象を象る合理性は、人間の肉体を締め付けるこの荒縄こそに、妖艶に象徴されているのだ。また荒縄に縛られた人間の姿は、合理性によって秩序立つ森羅万象もまた象徴しているのだ。よって、合理性を解くためのこの快楽こそ、森羅万象の理の世界から解き放たれた、本来の実存と合一化するための方法なのだ。それは人間を愛すること。またそこに合一を希求することもまた、森羅万象を超越する実存へのアプローチなのだ。そしてこの合理性こそは、生命たる人間を形作る生命体の本質をも意味している。

 

しかしその合理性の瓦解してしまった身体は、理性を見失った狂気の世界に引きずり込まれることになる。しかしこの狂気の世界こそは、生命として生存するためだけの生まれ出た肉体を持つことになった事態の所以である。このような狂気の世界は、秩序ある生命として生存している肉体の構造には、それが組み込まれていないのだ。人が狂気に襲われるのは、そこに秩序立つ肉体があるからだ。人間を象る肉体にとって、快楽に溺れ狂気に呑まれる事は、単なるエラーに過ぎない。

 

しかしとうの狂気の世界こそは、その外縁は、人を魅了する妖艶なる皮膜に覆われている。その皮膜は人間を仕向ける芳醇なる香りを漂わせているのだ。がしかし、大抵の人は、その内部には、決して足を踏み入れようとはしないものである。では、その狂気を忌避するのは、生命としての本能なのだとすれば、この世界の生存する人間の実存は、いかなる方策によって存在し得るのだろう。

 

人間は、快楽を求める所に、本当の意味での実存を求める。この合理性の鎖から解かれた瞬間にこそ、自己は燦然と、その実存が輝き始めるのだ。しかし合理性の破滅こそは、すなわち生命体としての肉体の死を意味している。しかし人間は、絶えずこの死の中で、実存の意義を見出そうとしている。死に本当の解放があるのなら、人間は、その死を欲求する快楽の中にこそ、本当の人間としての実存があるのだ。人間は、死への快楽に肉体の輪郭を融かし、その死に触れる瞬間に、本当の人間としての実存を感じるのだ。しかし人間は、そこに禁止の鍵をかけてしまい、それを禁断としてしまったのだ。人間は更にそこに、抑圧の構造を造り出してしまったのだ。

 

人間が人間を愛するとき、自己を形成するあらゆる細胞組織が震えだす。そして確固たる自己は、このとき愛する人間とのイメージの中で融解してしまう。肉体の輪郭が無くなるほどに燃え上がる愛とは、まさに死に触れる体験である。その死の前触れに、全身の細胞はその脅威に怯え、震えるのだ。人間は燃える愛の中に、絶えず死を希求している。愛に満ちる快楽は、合理性の縛られた存在ではなく、そこにこそ合理性から解き放たれた瞬間の芳醇なる実存の姿があるのだ。

 

人間は、森羅万象の理を形作る合理性からの解放を願っている。不意に沸き上がる人間を愛したいという欲望も、それは合理性の荒縄に緊縛された姿からの解放を願ってのことだ。人間が愛すること、その愛に飢えた姿は、きつく緊縛され身動きの取れない状態に苦痛を感じるからだ。人間は人間として肉体として存在していることに窮屈を感じる瞬間がある。ときに縛られた人間が身悶えする姿に興奮するのも、まさに人間の持つ自虐性に根ざす感情によるものだ。どのような人間もすべからず、人間の苦痛に歪む姿を見るのが快楽になることがある。それは、苦痛に歪む人間を見て嗤うことによって、きつく緊縛され、その苦痛に表情を歪めている自己の姿を嗤っているのだ。

大量生産の論理は経済を成長させるか 〜「モノの取捨」から見る経済成長論〜

経済の循環というのは、いわば生体のリズムと同じである。一個の生体はその生命を維持するために、モノをしきりに食べ、それらを使って絶えず代謝をしなければならない。が、その代謝には、必ずや老廃物が伴う。そしてその老廃物は、身体の外部に排泄されなければならない。何故ならば、発生した老廃物は、その生体のリズムにとってすでに必要でないものだからだ。またそれらは残留し続ける事によって、時に、生体のリズムにとっての致命傷にもなり得る。だから発生した老廃物は、生体の外部に排出されるのだ。しかし老廃物が排泄されてそこで全く終わる訳ではなくて、それらはまた別の存在にとっての栄養になる。この世界には関係性がある。特にそれを生物学では生態系と言われているが、それらはある意味そのテリトリー内で自己完結をしているもので、その内部では、どのようなモノも、誰かにとっての必要なモノになり得る。それは老廃物と栄養の関係も同じだ。そう、そのどちらもが、誰かにとっての必要なる双対性でリンクしているのだ。

 

この「誰かにとって必要なものが絶えず廻っている」という、このような前提こそが、特に経済を語る上では、もっとも重要な事だと思われる。それは生態系の仕組みでも同じ傾向にある。このように生物学的な生態系を改めて敷衍する中に、再び、経済成長における仕組みのまた違った新たな一面を、垣間見る必要があるのではないか。

 

そのような循環の作用を廻る老廃物と栄養とを、総括して有機物と形容できるが、この有機物とは、幾重もの食物連鎖を巡り、再び生体の代謝を促す栄養になって行くものだ。そこには、すべての生態系を巻き込む、混沌未分なる連鎖の理がある。このような無数の循環の中では、老廃物と栄養は、その限りのない複雑なる作用により、そのいずれもが共に等価である。つまり、そこには絶対的な優劣などの指標はないのだ。またそれがあるのだとすれば、つまりそれが自分にとって必要の無いものであるか、または有るかの違いだけである。そこには、栄養と排泄された老廃物とを介した、代謝と排泄の作用が、交互にあって、それは一個の生体全体での、または生態系でのよりマクロなスケールのリズムを作り出している。

 

しかしとうの生体は、そのような作用の中で、一個の体として維持されているが、それは決して、ある一定のゾーンに常に固定されている、という訳ではないのだ。つまり生体というのは、その絶え間のない代謝と老廃物の排泄の作用で、それ自体では確固とした一個体を維持しながらも、その形態は、微妙な膨張と縮小のリズムを繰り返している。だから昨日の自分は、明日の自分と同じではあり得ない。その形態は代謝と老廃物の排泄とで、入れ替わり立ち替わりしながら、形体の膨張と縮小を繰り返しているのだ。そして、この一連の流れ中で、一つの生体の仕組みを維持している訳である。そして、このようなリズムを打つ循環の中では、そこで常に固定している指標などは、全く皆無である。このような絶対の無い循環の中で、生体というものは維持され、代謝と排泄、それに伴う身体の膨張と縮小とを体験し、絶えずバイオリズムを形成しているのだ。

 

そして、経済成長を語るのであれば、またそこに必然性があれば、そのような生体のリズムを意識しなければならない場合があるのではないか。とうの生産活動が、このような経済システムでいう所の代謝になり得るのなら、その代謝には必ずや老廃物が出てくる。そのようなものは、俗に温室効果ガスなどと言われているものであろうが、このような老廃物は、そこのテリトリーにとって必要のないものだから、必然的に排泄されなければならない。しかし、経済的な生産活動にのみ専念するあまり、それに躍進し続けると、必ずやどこかで歪むが生まれる。例えば、モノを散らかすだけ散らかして、日々の部屋の掃除を怠ると、どんどんとその場所の空気が淀んでくるだろう。これと全く同じ状況は、経済成長にも当てはまる。そう、特に現在のように、経済の成長に欠かせない生産性にばかり眼が囚われている最中で、環境に関する問題ばかりが先送りにされ続け、やがてその影響で、いつの間にか温室効果ガスは吹き溜まり、地球の環境はみるみる裡に悪化していくばかりである。それはいうなれば、部屋のゴミが散乱し、誰にとっても不潔な場所になってしまっているような状況である。ましてやそのようなゴミは、即急に処分しなければならないのだ。

 

そういう重要な事に気づき、晴れてそれらのゴミを捨てた際、結果的にモノは減り、部屋は少し殺風景になるだろう。これと同じ作用は、経済の規模の一時的な停滞、低下という状態と同相である。しかし、その部屋の掃除の後に、新たにモノを置くスペースが、仮に出来たなら、そこを有効活用する余地が生まれた訳だ。更にもし、その新たなるスペースに、別の必需品を新しく備える事が出来たのなら、その部屋には、必要なモノが増える事になる。つまり、ゴミだらけの汚染された部屋は一掃され、それにより古いモノは捨てられ、そのようにして新たなモノが置かれる。つまりこの作用によって、その部屋の環境が一新されたのだ。ここで重要なのは、ただ単に綺麗になったというのではなく、ようは、「要らないモノを捨てた」事によって、「新たにモノを置く余地が生まれ」、結果的に「必要なモノが新たに増え」「部屋の様子が心機一転した」という一連の現象である。そしてこの原理を応用する事こそが、経済成長論を支えるもう一つの面になり得ないだろうか。つまり経済成長には、要らなくなったモノを「捨てる」という前提が必要なのだ。そう、生産効率を無理にでもアップさせ、モノを無尽蔵に造り続ける事だけが成長なのではないのだ。「捨てる」事から「増える」事に繋がる。この作用が、今こそ必要なのだと思う訳だ。

 

このように経済成長というのは、要らなくなったモノを捨て、新たにモノを置くスペースを用意する事によって、可能になる現象なのだ。縮小あって、拡大の余地が生まれる。つまり、巷の経済成長肯定論者が信仰するような、ニュー・マーケットを外部に開拓するという理論には、百歩譲って、それなりの根拠があるのだが、それは脱経済成長論者が異議申し立てをするように、それには理論上、無限の領域が必要になるのだ。果たしてそれはどうだろう。この世に無限の可動領域など存在するだろうか。しかしモノを置くには、絶対的にそれなりのスペースがいる。それも、モノが多くなれば、それだけに見合った、更に広いスペースも必要になってくるのだ。そのような未知なるスペースに対して、目指すべきニュー・マーケットの、肯定的な信仰を捧げるのも、あながち間違ってはないが、このような広大な領域を外部から外部へと、それも際限なく確保し続けるのには、必ずや限界が来るのだ。それも、経済活動の源であるとうの地球は、明らかに有限の大きさしかないのだから、そのような経済成長肯定の論理は、絶対に頓挫する夢想である。しかし経済成長のためにフロンティアを目指せた時代は、歴史的な一経過の中では、確かにあった。これは立派な史実である。しかし、この地球上の至る所で、大勢の人間が経済的な活動をせっせとこなしている現代では、そんな旧時代の論理が、そのままの形で通用する事は、まずあり得ない。なぜなら、経済成長理論が奉祀するフロンティア思想は、地球の絶対的有限性という地点で、必ずや頓挫する宿命にあるのだから。

 

そんな状況の中で、現代のようにモノが溢れたら溢れたなりに、今あるスペースを有効活用して行くという発想も、また立派な経済的活動にリンクするのではないだろうか。それに大抵の人は、今住んでいる家の中で、なるべくその立地にあった規模で、物事をやりくりしようとするのではないだろうか。そしてその過程の中で、やがて要らないモノが出れば、時に友人なりに譲り、それさえもままならなければ、最終的に捨てるだろう。そして、その必要が生まれれば、新たに必需品を購入し、部屋の雰囲気共々、心機一転させるのだ。それは経済の構造でも同じではないだろうか。つまり経済というのは、家での生活を維持するのと同じく、「縮小の必然性」と「拡大の可能性」とを、セットにして語らなければならないという事だ。しかし経済成長の論理が全て幻想なのだといって、無闇にモノを捨ててばかりだと、結果的にいつしか、生活に必要なモノまでも無分別に捨ててしまう事にもなり得る。それもいけない事だ。捨ててばかりの行為もまた、それも不可能である。モノが捨てられるのも、要らないモノが有ってこその動機である。またそれは、逆にいえば、モノを生産できるのも、そういう必要なモノが無いから可能であるのだ。だから、必要なモノを無闇に捨て続けても、また無尽蔵に要らないモノを造り続けても、そのどちらも結果的には、行き着く先には破滅があるのだ。つまりは、経済成長が一方的に神話化するのも、確かに問題だが、では逆に、脱経済成長論の自己主張が強くなり過ぎても、また問題なのだ。

 

そういう意味で、経済は循環しなければならない。それは、ひたすら成長し続けるモデルでもなく、またそれを否定してばかりの理想なのでもない。経済が成長しないのは、それは生産の効率が悪いからではなくて、もうその場所にモノが置けないという事だからである。スペースの無い箇所には、どのようなモノも置けない。かつそのスペースが有限であるならなおさらである。だから要らないモノは、捨てなければならない。しかしそれは単に使いものにならない無機物ではなく、それは誰かにとっての有機物でもあるのだ。ちなみに要らないモノと必要なモノとの本質的な相違は、要は、ニーズのバランスの問題であって、自分が要らなくなったものを、他者に譲ったからといって、そこに優劣が発生するわけではない。そこには、純然なる交換の仕組みがあるだけである。

 

しかし、そのようなモノも栄養として過剰に溢れれば、結果的に、生体のリズムを脅かすものになるだろう。環境が汚染されるのも、そこに過剰さがあるからだ。食物を無理やり詰め込まれた胃袋は、自己防衛で吐き出してしまうが、その吐瀉物は、一見誰にとっても違和感のあるものにしか見えない。大気を汚染する排気も、地球の大気のバランスを乱す温室効果ガスも、そのいずれもが、生命を構成し得る有機物であるのにも関わらず、それが汚れて見えるのは、まるで道端に落ちているナマの吐瀉物のように、それらが自然の作用に消化されないままの形で、雑然と散らかっているからなのではないか。そう、ナマの吐瀉物は誰にとっても、嫌らしく感じるものであるように。しかし、環境汚染の原因は、そこに経済成長があるからではない。モノの生産性だけをあまりにも重視するために、未消化なままのナマモノが、吐瀉物として散乱している状態にこそ、その原因があるのだ。しかしだからといって、そのような環境汚染を道具に、一方的に経済成長を否定し続けるのも間違っている。なぜならば、誰かにとって必要なものは、いずれ生産しなければならないからだ。そのニーズは決して絶える事は無い。必要なモノがあればそれを造る、それは人間の生命活動の根本を成す必然である。

 

しかし経済というのは、どちらかの一方的な理論の大黒柱で成り立っている訳ではない。また、現状ではそうなっているのであっても、その状態は、経済のシステムとして根本的に間違っていると思われる。どちらか一方のみの柱は、必ずやガタが来るだろう。とどのつまり、ようはバランスである。それは生体のリズムが代謝と老廃物の排泄との作用の裡にあるように。そして経済システムもまた、このようなバイオリズムを意識する時代が来ているのだ。

 

痴漢問題を少し考えてみる 〜なぜ「どうせ冤罪でしょ?」と云われるのか〜

「痴漢? どうせ冤罪でしょ?」といわれるのには、それなりの動機がある。それは実際冤罪が多いという事にある。巷では、このような周囲のからかいに腹を立てている人も居るだろう。しかし当方が本当に考えなければならないのは、「どうせ冤罪でしょ?」と揶揄される事ではなく、なぜそう思われるのかの、この所以を知る事である。

 

痴漢冤罪というのは、決して虚言なのではなく、現実に起きている事件である。しかしそれがあるからといって、実際に痴漢被害に遭った被害者の事を自意識過剰であると嗤い、またそれを許す社会の空気は、確かに世も末かもしれない。しかし、冤罪加害者が痴漢被害者を装い、無実の人に示談金を要求したり、また時に、全くの誤解で起きてしまう冤罪もまた、現実にはある。そして、このような冤罪があり続ける限り、痴漢被害を疑う眼や、その被害者の自意識過剰さを嗤う空気は、淀んだ形で残り続けるだろう。

 

また自身の痴漢被害の体験は、その個人に唯一のものである。だから、そのような個人的な憎悪を、痴漢問題の総てに還元する事は、極力避けなければならない。なぜならその憎悪こそは、痴漢問題の全てを一刀する真理ではあり得ないからだ。そのような万能感は、おのずとまた別の個所で、違う形の暴力を再生産させるだろう。

 

そして現に示談金目的に見られるような、冤罪事件が、実際にある中で、その動機さえも、痴漢の存在に全てを集約させようとする嫌いがままある。しかし、このような加害者の思惑は痴漢という存在から、直接的に派生するものではないだろう。なぜなら冤罪を企む犯人が抱く犯行意識の本質こそは、それが痴漢が存在するかしないかとは全く別に、それ自身が本能的に自律していると思われるからだ。そのような自律した本能的な犯行意識が、たまたま痴漢という存在に巧くリンクしたのではないか。つまり示談金目的に繋がる加害意識こそは、たまたま居た痴漢の存在に、ただ便乗しただけであって、単に自身の犯行を正当化する為だけに、痴漢を便利な道具として利用しているのではないか。なのでそのような犯行意識は、もし痴漢が存在しなければ、また別の存在に、その正当化を求めただろう。つまり、この事が仮に正しいとするなら、冤罪の犯行意識と、実際の痴漢の存在とは、全くの別のものである筈なのだ。よって、示談金目的の犯行意識が実在する事と、痴漢が実際に存在する事とは、その全てがリンクする訳ではない。

 

これらを加味した上で、今一度、痴漢に対して自分の憎悪を、一方的に差し向ける行為が、痴漢問題の本質的な解決に、本当に貢献しているのかを内省すべきだろう。そしてこのような、単なる誤解、そして示談金目的のような加害行為などを含めた冤罪がある限り、痴漢問題は、簡単に厳罰化にすれば良いというように、短絡的に解決されるものでは、まったくあり得ない。むしろそのような短絡的な厳罰化は、現実に起きている冤罪被害に見られるように、暴力の再生産の起因になりかねない。痴漢問題とは、なるべく解決されるべき命題であって、個人的な攻撃性を差し向けるサンドバッグでは、決してないのだ。

 

だから、痴漢犯罪を厳罰化するなら、このような事実を深く吟味した上で、慎重に議論されるべきだろう。そして、実際の痴漢という存在と、それに便乗して冤罪をけしかける加害者をも含めての、複雑に入り組む構造を意識する必要がある。このような実際の犯行と冤罪加害とのケースを共に敷衍出来てこそ、初めて痴漢問題は、対処すべき問題であり得ると思う。痴漢問題こそ、そこには様々な悪意が渦巻いていて、それらは一筋縄の論理では簡単に解けない、複雑なる負の構造を形成しているのだ。そこでは、痴漢とその被害者という二項対立のような、一見、それで完結しているように見える関係もまた、それは問題の表面上を覆う、薄い事柄に過ぎない訳である。つまりは、問題のもっと深い場所を見る必要があるのだ。なぜなら、一方的に恨みの感情をぶつけるように言い放っていた「痴漢に厳罰を!」という短絡的なスローガンは、あまりに多くの無実の犠牲を生み出して来たからである。それは、痴漢問題の解決とは、絶対に言えない。

 

確かに、被害者にとって、痴漢に遭ったその体験は、絶対的に許しがたく、大いに憎いだろうと思う。しかし、被害者の自意識過剰さを嗤う空気の、その問題の根本とは、現実の被害者の存在でも、また被害者に対して軽口を叩いている人々の自惚れの方にあるのでもない。それはとうの冤罪事件が、それも決っして少なくはない件数が、実際に実在するからこそ、そのようなからかいの根本も存在しているのだ。確かに巷の被害者が憤慨しているように、そのような被害体験を嗤う空気に、ただ無闇に便乗するのも、間違いだ。その憤りこそ、批難される余地の無い、完全に正しいものである。そしてこのような、実際に痴漢被害を受けた被害者に対して、一方的に自意識過剰のレッテルを貼り付けるような、周囲の軽率なる行為こそが、結果的に、痴漢問題を矮小化させている一因となっている事も、確かに否めない。

 

しかし痴漢冤罪のえげつない所は、嫌疑をかけられたその瞬間に、その人の社会的ステータスが総て死滅するという事である。「疑ってごめんなさい」では、絶対に済まされない現実が、その嫌疑をかけられる側にはある。実際、痴漢と勘違いされ、その結果、取り返しのつかないレベルに社会的生活が、脅かされた人も、大勢居るのだ。その現実こそ、もっとも意識すべきなのだ。間違えたら謝れば良い、その判断は結果的に、冤罪の被害者に対して、決定的な過ちを犯す事にもなり得るだろう。がしかしこのような現実があるからと言って、痴漢被害者の憤慨を一方的に糾弾する事も、また不可能なのだ。またこの指摘によって、痴漢の犯行が相対化される訳では決してあり得ない。痴漢の犯罪こそ、そこに厳然と存在する問題なのだ。それこそ、厳罰に処されるべきだろう。それは、正しい感情である。

 

またこのような指摘で、被害を訴える側にも、一方的な非があるのだという、立場を論理的に逆転させるだけ、そうさせただけのような結論にするつもりも無い。被害者は救われるべきであるし、またとうの加害者こそ処罰されるべきである。しかし、痴漢被害を装い、冤罪事件を企む加害者が、現実に居る限り、このような構造までをも具に見定めて、総合的に判断しなければならないのだ。まさにこのように、完璧な敵を特定した上で、スムーズに悪を糾弾出来ずに、様々な負の思惑が堂々巡りになっているこの状況こそが、現実の被害、加害という二項対立のスケールを大きく超えて、冤罪の被害、その加害をも、更に含まれる、よりメタでパラドキシカルな問題の構造を構成しているのだ。この存在こそが、痴漢問題における、解決方法を探る上での、大きな障壁になっていて、それが頑固なジレンマを形成しているのだ。

 

しかし、巷で言われるような、どのような冤罪の構造があろうとも、それらは痴漢をする側にこそ、その全ての原因があるのだというような論調も、決して間違っている訳ではない。むしろ一見、痴漢問題を構成する問題のポイントを総て射たようにも見える。しかし「疑いあれば、即痴漢」というようなそっけいな判断が、直接的に冤罪に結びついているケースが実際にあるのだとすれば、そのような断定も、また違う次元で過ちを犯している事になる。そのようにして、無実の人たちが、そうした被害を装うの行いの末に、社会的な死に追いやられていったケースは、現に数多く報道されている。しかし、このように報道されているのは、実は極々一部分で、そういう冤罪の被害は、見えないところで多く発生しているのかもしれない。

 

 

そしてまた、痴漢に恨みを抱く人も、このような、深く吟味しなければならない複雑な問題の構造を意識せず、先ほど書いたこのような事実を見逃せば、これからの痴漢問題は、さらに軽い愚痴話と勘違いされ続けるだろう。しかし、揶揄する側のこの軽率な行為もまた、痴漢問題を撹拌させるだけの足手まといになるのだ。このように、お互いに注視すべきポイントはある。そして、その切実な部分こそを見逃したままなのだとすれば、その結果、痴漢の現場の切迫感は、お互いの上辺だけの軽口と共に、悲しく朽ち果てていくだろう。

 

痴漢問題のあるべき真相を無視し、お互いの軽口の狭間に、たった今、痴漢の脅威に苛まれている被害者の助けを呼ぶ声が掻き消えてしまう。それは、とても悲しい事ではないだろうか。そして現に、情報媒体上の至る所で書き込まれる軽口と、被害者の切実な恨みとのその応酬が横行している最中で、痴漢の被害に苦しむ被害者のその切迫さは、この問題の構造からは、排除されているように見える。目の前に見える、上辺だけを逆なでるだけの軽口の応酬は、痴漢問題をより深刻化させていく。その部分では、痴漢の被害で苦悩に打ちひしがれている「生の声」が排除されている。その中で本当の意味で泣くのは、嗤われる事に腹を立てている画面越しの人たちなのではなく、現実の現場で痴漢被害に深刻に苦しんでいる被害者の方々である。

絶対性の凋落、無限に相対化する社会に生きる 〜なぜ若者は自己肯定感が持てないのか〜 No.2

そのような高度経済成長期の時代の栄光も、ついにはイデオロギー集団の絶対的な構造と共に崩壊に向かう。それにも関わらず、その絶対的な集団の「意識」だけが残滓として遺った。そしてその当時のポジティブな差別化の構図と、その力学の原理が、そのままの形で絶対的な構造の崩壊後の社会にも残ってしまったのだろうと思われる。

 

このような時代的な潮流にも関わらず、現代の若者は、現在、かつてのジャパン・アズ・ナンバーワンのような明確な差別化による優位性を確立出来ずにいる。優位性というのは、必ずしもパワーバランスを形容するニュアンスでもなく、ここでいうニュアンスとは人間がアイデンティティを形成する上で、その自律性を維持するためのポジティブな動機に他ならない。また現代では、イデオロギー同士の大域的な対立はその影を落とし、自らのアイデンティティを構成するための差別化は、新たに発生した複雑な相対化の上に、危うく自律させなければならなくなった。

 

しかし、現代の若者は無意識にそのようなイデオロギー集団的な「意思の絶対性」を内面化し、更にその集団意識を固持しようとしている。それは丁度かつての「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を謳歌した世代の風紀が、何らかの仕方で、若者の意識に影響を与えているのだろうと思われる。そしてとうの若者はその風紀を内面化し、それを固持するのだ。

 

そんな現代では、冷戦構造のようなイデオロギー的な絶対性を失い、新たに「相対主義」が社会を席巻するようになっていく。それに従い、アイデンティティは、自己完結する動機を剥奪され、ついには「無属性」を強制されるようになる。それは、個人があるテリトリーに自己完結する事を許さない、時代の空気を作り出している。それにより剥き出しになったままの裸の個人は、無数の複雑な関係性の中で、たがいに激しく批判合戦を繰り広げるようになる。そしてやがて、剥き出しの自我は無限に相対化され続ける事になり、その結果、過敏になった自意識だけがどこまでも肥大化していく事態に見舞われるのだ。

 

そうなると当然の如く、些細な刺激でも、すぐさま自己矛盾を誘発し、ましてやそんな不安定な状況の中では、アイデンティティの成立がよりあやふやになってしまう。何が自分にとって正しい事なのか、また間違っているのかという、アイデンティティの核心を形成するオリジナルな指標をも、このような相対主義の吹き荒れる只中では、その自律を保つ事が出来ない。そのような時代の風紀では、かつてジャパン・アズ・ナンバーワンという無類の自己肯定感のような確実性の、その一切が無縁となっていくのだ。そのような時代の運命が、現代の若者の自己肯定感の無さに繋がるのかもしれない。

 

このような時代の渦中に陥ってしまった個人は、総じて自己肯定感が低く、そんな拠り所のない無力な自分は、絶えず、他者に承認してもらわなければならなくなる。そのような承認なしでは、この時代の渦中に陥った若者は、アイデンティティを自律させる事が不可能なのだ。この安心して自己完結する行動を許さない環境は、その空しさを補うために絶えず他者の承認を欲する。昨今流行っている、自分探しや、スピリチュアル、占いなどのブームは、このような背景が有って巻き起こったのかもしれない。

 

そのように、吹き荒れるような相対主義の摩擦熱は、また別の面で、人間関係の過度の密着、また過度の希薄を生み出しているように思う。それは、判り易い集団の属性間での差別化の困難な状況が、自他の境界線の融解を引き起こしている。絶対性の失われた、この世界では、まさにありのままの自分を絶えず探さなければならないのだ。

”ジャパン・アズ・ナンバーワン”の栄光と影 〜なぜ若者は自己肯定感が持てないのか〜 No.1

「少年よ大志を抱け」という言葉にあるように、若者というのは、壮大に夢を抱き、またそれを果たすように期待される。しかし、あらゆる世界で、己が自由に大志を抱けるには、自分の信念の安全性が保障されていなければならない。また人間は、素っ裸な姿では、自分をこの広大な世界に拓いて行く事が出来ない。自分が安心して、大志と共に羽ばたく為には、その基盤となるような他者や居場所が必要である。

 

またその際には、自分の存在感を安定して維持するために、時に自分と他者を明確に分別出来ている事も、大切な要素だ。そういう意味で、自分が確かな意志持って行動するには、他者との明確な相対化が必須になるだろう。それは、自分という存在は、生物学的な「皮膚」という境界線があって、初めて他者と自身を分別し、その上で交流が可能であるのと同じ原理だ。このように自分と他者が、皮膚という境界線を通して明確に分別できていて、かつその自己のテリトリーが、他者によって脅威に晒されない安心感が、並存して初めて、大志は抱けるのだ。

 

時に、1970年代の日本の国内情勢。当時の日本社会は、その高度な資本経済が円滑に巡り始めたのをきっかけに、戦後復興の途を辿る上での高揚感に包まれていた。それは、他の欧米列強国との明確で、ポジティブな差別化が可能だった時代だった。あの頃の物なし金なしの敗戦国という暗い空気は、この恵まれた時代の気運に流されて、それはかつての淀んだコンプックスをも、ついには勇ましく払拭するに至ったのだ。

 

このように高度経済成長期の日本には、当時の若者が存分に大志を抱くことの出来る環境が整っていた。その上昇し続ける時代の気運によって、日本国とその国民は、ついに欧米列強国と同じくその名誉を得られたという実感と、またそれ以上と讃えられた「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という輝かしい称号を得られたのだった。そしてそういう自惚れが、自分たちこそが、この日本という国を創り上げたのだという無類の誇りになった。まさに、当時の若者の自己肯定感は、この「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉に、満ち溢れているように感じる。それは、どこまでも誇り高く躍進する、終わりのない自己肯定感である。

 

しかし、朝鮮戦争や、ベトナム戦争など、経済的特需と共に日本の輝かしい時代の気運をもたらした冷戦構造の崩壊が訪れる。この後の世界では、アメリカが中東に侵攻を開始したのをひきりに、とうの日本経済では、二度のオイルショックが、それまで円滑に巡っていた市場経済に深刻なダメージを与え、その高度経済成長と謳われ軽快に疾走してきたその活力を、徐々に奪いつつあった。そして、その気運に踊らされた士気だけが、亡霊のように残留し続ける事になる。このような士気は、未だに自分の意志を、明確でポジティブに差別化が可能であると迷信されている。

 

かつての資本主義vs共産主義というように、当時の冷戦構造を形成していたのは、イデオロギー集団同士の対立という構成であった。かつてのジャパン・アズ・ナンバーワンが栄誉に成り得たのも、とうの日本の経済が、その当時のイデオロギーの優位性を推し進めていた冷戦の対立構造の空気を、そのままの形で内面化してしまったためだろう。つまり、ジャパン・アズ・ナンバーワンという栄誉も、当時の欧米列強国の圧倒的な勢力との差別化を、敗戦国というコンプレックスに淀む当時の日本国が、その国際的な立場を優位に働かせるためのシンボルだったのかもしれない。

人間の権利について 〜永久の人間の尊厳を生きるとは〜

近年、巷では「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」が、よく叫ばれている。しかし現在での、これらの言葉は、様々な思惑を浸透させた作為的なものになっている嫌いも、度々感じている。詰まる所、これらの言葉を「武器」にして、自己主張をする為のものになっているように感じるのだ。つまり単なる独善の手段にされている。これは実に危惧されるべき事ではないか。

 

「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」という、これらの語の起源には、「人間の尊厳」という概念が基軸とされている訳なのだが、この定義によれば、あらゆる人間とは天上の元において、すべて「平等」であると、かつその前提の上で「主体性」を確立し、これを「自由」に行使する権利を「個人」が持ち得るのだという、本来のニュアンスがある。

 

このように、一旦人間の存在を天上に返上し、再びこれを拝借する。この考えは人間を「神の子」とする一神教独自の思想である。神の子つまり人間とは、神から身を授けられた借り物の身でしかない。その真理からすべての人間は、神の名の下において平等であるという思想が生まれるのであるが、そのような荘厳な根幹を、現代、様々な場で叫ばれている「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」とシュプレヒコールする運動家の語気には、あまり感じられない。

 

何も、一方的に自己主張するだけが、これらの言葉の意味なのではない。また関係性を生まないシュプレヒコールは、単なる独善である。その誤った認識の上で「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」という語が叫ばれているのなら、それは歴史的な誤ちを犯している事になるだろう。なぜなら、それらの語と、それに籠められる語気こそは、過去の人間同士の凄まじい蔑み合いと抑圧の裡から、ふつふつと勃興してきた思想であるからだ。

 

これらの総称としての「権利」という発想は、そのまま「個人」という言葉のニュアンスへと受け継ぐものでもある。この「個人」という概念もまた、天上の元に保障され得る「自由」「平等」を前提とした概念である。「自由」「平等」とそれらによって保証される「個人」という発想は、「天上」から庇護されるものである。これらの前提と一緒にあって始めてそれを行使するのが、「人権」という権利なのである。

 

つまり「自由」「平等」、またそれらによって保証される「個人」から行使される人権とは、人間のオリジナルの造作なのではなく、それは人智を超える天上によって創造されたものであるとされる訳である。だからそれらは、人間の見勝手で侵してはならないのである。なぜなら人間とは、これらを管轄する「主」ではないからだ。神の被造物でしかない人間は、これらを行使する権利を与えられているだけである。またこれらの概念こそは、一神教を主体にする極めて西洋的な発想なのである。

 

これら権利の一群であるこの人権という言葉の起源は、中世ヨーロッパにおける階級制の歴史に、その所縁がある。中世ヨーロッパは、階級制が旺盛を誇っていた時代である。そこでは富を持つ者、持たざる者という人間中心的価値尺度が横行していたのだが、中世ヨーロッパの時代では、富を持ち、かつその位が高い者こそが、世界を支配する強者であった。また富を持たない貧者は、人間的な扱いさえもされない有様だった。

 

これら貴族と事実上の奴隷のように、はっきりと階級が分かれていた時代においては、このような人間中心の尺度が横行していたのだ。そしてこのような事態は必然的に、人間界にパワーバランスの乱れを起こす状況を生み出した。

 

そのような状況は、結果的にパワーのある少数の者が、独断の権力を寡占するに至るわけだが、生み出される富の偏重、それに比例するようにより強靭になって行く、少数による寡占的権力が、多数の隷従を生み出した訳だ。まさにこのような地と天を無限に分け隔てて行くような閉鎖的な矛盾の中で、「自由」「平等」「個人」またはそれらによって行使されるべく「基本的人権」は、宣言されるに至ったのだ。

 

しかし、後のフランスなどの人権宣言にみる「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」という語のその濃厚な重みは、単に闘争によって首を勝ち取ったというような對立に集約される訳ではない。そうではなく、そのような基準を遥かに超えて、むしろ一神教に由来する信仰というプリミティブによって、あらゆる根幹を震わす、気迫感を生み出している訳である。それこそ神の根源を感じさせる迫力さえも滲ませている。それらの体験が人権宣言には濃厚に凝縮されているのだ。それは、人間中心的価値観の内に澱んでいた世界の停滞を、天上から射す光によってようやく融解するに至った、歴史的な事件である。

 

むしろそういう体験は、歴史という壮大な潮流を超えた、人間の尊厳を永久に保障するであろう途を照らし導くものだ。「永久に保障されるべき人間の尊厳」という響きは、単に戦勝の末に建てられた凱旋門のようなものではない。これらの言葉は、過去の栄華を讃えるものでは、決してあり得ないのだ。むしろ人間界の支配下にあった「人間の尊厳」というものを、そうではなくて、これを天上の賜物であるとした事、またそれが故に神の被造物に過ぎない人間が、これに無闇な解釈も、また無差別な外傷を加えてはならないとした事に、その功績があるのだ。

 

それは人間中心的な世が犯した、人間の途方も無い傲慢さや周囲を省みぬ姑息な猜疑心を払拭する為のものなのだ。神を省みない人間とは、ただの欲望に忠実な獣物である。そしてそのような罪を綿々と受け継いで来たのが、中世ヨーロッパの世界だったのだ。

 

そして、その永久の尊厳の内に、「個人」が立脚している。個人とは、この永久の尊厳を単に一方的に享受されるだけではなく、その歴史的な重厚感を、今こそ体感し、それを体現し続けなければならない。なぜならば、永久の人間の尊厳は、常に天上の存在を元に、意識し続ける必要があるからだ。紙の文字に記されただけの尊厳など、ただの知識になるだけであって、それが深い体感には成り得ない。声を上げるだけの事なら誰だって出来る。問題なのは、それがいかに歴史の体験を継承し、その史実を忠実に具現化しているかという事だ。

 

それらの理想は、神の信仰の名の下に追行される。神の元に在らぬ尊厳など、全く何も無いに等しいのだ。このように、永久の人間の尊厳を理解する為には、そもそも人間を創り出したのは、人間の領域を遥かに凌駕する超越的存在である、という真理を意識する事である。だからこそ、人間が侵してはならない領域があるとなる訳である。それが神であり、神の元に保証される「平等」「自由」「個人」や、それらを約束する「基本的人権」なのである。それらは「人間が侵してはならない領域」である。よってただの人間は、それらを「行使する権利」を、与えられているだけである。それを被造物である人間は意識し続けなければならない。何故なら、神の眼に晒されない人間とは、リードの無い猛犬と同じ存在だからだ。

 

しかし人間存在の永遠の真理である神の姿は、我々の人智では、決して見る事も触れる事も出来ない。しかし神とはあるものではなく、常に傍に居るものである。だからこそ、常に意識し続ける必要がある訳だ。神は常にこの片隅に居る、だからこそ自戒や畏怖の念が生まれ、猛威を振るおうとする欲望を抑制しようとする訳である。

 

また、見えない遥か遠い存在は、絶えず自身の心の中に居るものだ。まるで逆説的に見えるこのような真実が、むしろ神と人間に交感を生み出すのだ。そう、絶対的で超越的な存在とそれを映す心との交感を。そのような「永久の人間の尊厳」の持つ、うっとりとするような重厚感こそは、人間に純粋な自主性を育ませるだろう。また全知全能なる神に庇護されているという安心感から生じる自信により、人間の核を成す個人がより輝くのだ。しかしそれは、決して過信ではない。

 

それは、永遠に繰り返される歴史を、「主体的」に生きるという事だ。その永遠こそ、神の名の元にある。そしてその視座に畏怖し超越的絶対者を信仰するその心こそが、神の御心なのである。そしてその延長に、「人間の尊厳」は果てしない歴史の潮流と永久に交差し合っている。よってその永遠の流れを汲む「人間の尊厳」というのは、決して紙の上の条約で証印されて、機械的に承認されるものではあり得ない。それは、永久の尊厳を、被造物である人間に賜って下さった神の存在を意識する事によって、個人が自主性を確立し、その天上の導きの下に、主体性を行使するという事なのだ。

 

すべての人間の尊厳は、天上により保障されている。それは他者の行使するあらゆる力や独占によって冒される事はあり得ない。なぜなら「尊厳」という天上の賜物は、人智を遥かに凌駕しているからだ。しかしそれによって意図的に穢され、ある少数の手の内に収める不正を不可能にさせているのだ。

 

このような超越的絶対者を瀆す資格など、人間には持ち合わせていない。だからこそ、すべての人間は、その「尊厳」によって庇護されるのだ。そう、誰にも穢され得ない大きな腕に包まれ、すべての存在が護られている。このような全知全能の絶対者による守護、それこそは、神の寵愛である。

 

このような歴史的な流れに琢磨されてきた、重厚でうっとりするような根幹を意識した上で、現代でも「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」の持つ、このような壮大な歴史を敷衍するニュアンスを、どうか大切にして、現実の社会運動に繋げてほしいと思う。