心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

正義が悪を欲する世界 〜IS(Islamic state)と若者〜 Part1

かつて2001年9月11日に、同時多発テロがアメリカで起きた。その際、当時のアメリカ大統領が、この報復処置としてアフガニスタンへの侵攻を開始した。そしてその翌年、当時のアメリカ大統領が一般教書演説にて、当時のイラン・イスラム共和国イラク(バアス党政権)などを「悪の枢軸」と、声高に罵り、国際社会に対し、テロリスト根絶への強い同調意識を求めた。

 

その当事者であるアメリカを始め、先進国の陣営は、何かとイスラムテロリズムを、直接的に結び付けようとする事が多い。連日報道される、武装した過激派の姿。確かに、そのような狂気の一面も、彼らは持ち合わせているのだろう。でもこのような狂気は、どのような宗教でも垣間見る事が出来る。しかし、どのような宗教もそのような一面のみで、括られる事は決してない。だが、同じ宗教である筈のイスラム教は、また違った扱いをされているような気がする。なぜイスラムテロリズムとが、闇雲ながらも同一視されるのだろう。各国のメディアがこぞって、いとも容易く、彼らをそのようにラベリングするのには、何か特別な意味があるのだろうか。

 

しかし、イスラムの社会的な性格とは、実際どのようなものなのだろうか。我々が、イスラムテロリズムとを、容易に結びつけてイメージしてしまうのは、実際の彼らの素顔なり、その生活の姿を、ほとんど何も知らないからではないか。そんな我々は、彼らの実情を一切知る事もなく、そのイメージを安易にテロリズムと結びつけているのだ。なぜなら、一般的なメディアで、イスラムが取り上げられるのは、多くの場合、爆弾を炸裂させる過激派のそういう狂気の一面であって、むしろそういう情報こそが、我々が目にする彼らのイメージの、ほとんどを占めているのだ。だから実際我々は、イスラム教といっても、イスラムの宗派の中でも過激派以外に、必ずや存在している筈の、穏健なる宗派の一面すらも知らない。また、その一切を、知らせるべきメディアからは、まるで知らされてもいない。そんな状況の中では、彼らの素顔に触れる機会も、ろくに得られず、また彼らを知る手がかりさえも、まともに見出せてもいない始末だ。

 

そんな情報の貧困なる状況に晒されている我々は、今こそ、イスラムという宗教の本当の存在を知り、その姿に触れなければならないだろう。また世界中のあらゆる場所で、ネット・インフラが飛躍的に整っていく中で、世界の可視化はどんどんと進んでいくだろう。この事実は、我々に突きつけられる抗えない現実である。しかしそんな動向の最中で、我々は、本当のイスラムの姿を知る必要性に、これから幾らでも迫られるだろう。そうこれからは、決して知らないままでは済まされない、世界のダイナミックな流れに、身を委ねる事になるのだ。しかし、自己の自律があやふやなままで、このような巨大な波に晒されるのは、とても危険である。またそれを放置し続ければ、これからは、心身共に危ない事態に巻き込まれ兼ねないであろう。


つまりは今ここで流布されているイスラムのイメージとは、あるべく彼らの原型が、なんらかの作用で歪曲されたものだったのだ。そしてそれが我々に届く頃には、すでにそのイスラムの真実は、まったく失われていたのだ。

 

またそれが事実なら、そのような歪曲化された誤った情報でしか、我々は、イスラム教の姿を知らないでいるという事なのだ。つまり我々が知っているのは、彼らの誤った姿なのだ。それは今こそ払拭されなければならない。そう我々は、メディアが流通させている彼らの誤ったイメージではなく、本当のイスラム教の姿を、知る必要性に迫られているのだ。

 

それにイスラム過激派は、なぜ先進国を憎むのだろう。彼らは、先進国に対し、ジハードを掲揚(けいよう)し、そして自身のテロリズムを正当化しようとする。しかし、国際社会が、テロの根絶を称揚するキャンペーンを繰り広げている昨今、そんな彼らの主張するジハードが良い意味で報われるのは、到底、望めないそうにもない。それでも、そんなイスラム過激派を生み出すような土壌を造り上げた犯人とは、資本主義を信仰する先進国である。それは泥沼の歴史である。また今日表面化している史実とは、また見えない形で、事件の一端を、更に担っていたという事実も、これから幾らでも発掘されるだろう。このような罪は、決して簡単に拭い去れるものではない。そして、そのようなイスラムに対する先進国の愚行は憶測ではなく、数多くある歴史書が明示している史実である。

 

現代のように、高度資本主義と形容される時代において、そのあちこちで経済成長神話のペンキが剥がれ始めている。そしてその剥がれた絵の中から、たくさんの歪みや疑問が浮き彫りになりつつある。やがてそのような不穏なる空気は、人々に将来への不安を感染させ、この渦中に居る人々を、やり場のない憤懣に染めてしまう。そんな現状にとって、イスラム過激派という悪のイメージは、このような不安定な群衆にとって、ストレスを発散するのに格好の的となる。

 

そんな悪者の脅威から、不安定な先進国は自身のテリトリーを死守し、この荒廃したリアルに、なんとか現実感を持たせようとしている。世の中に蔓延る、あのようなイスラム過激派の悪いイメージこそ、資本主義を信仰する先進国が、その内部から腐食していく現実に、無理矢理にでも昂揚感を持たせようする為のものではないか。それは、希望を失っていく自身を奮い立たせるための、虚偽のストーリーなのである。そう、瓦解していく粗末な現実に怯え、その上で自己正当化を図るために、腐敗していく身体が非現実を欲しているのだ。

 

その壊れた身体が、過去の栄光とともに飢えいく非情さの渦中で、イスラム過激派が、先進国の圧倒的な軍事力の前に、崩落していく様を嗤う。そうして瀕死の身体を奮い立たせているのだ。それは実に簡素な自己保守のプロセスである。しかしその効果の程とは、攻防戦を繰り広げている「その間」だけの刹那的なものでしかない。つまりイスラム過激派という「悪の象徴」こそは、その裏を返せば、資本主義がそれほど自身で統括する安心と信頼を、徐々に失いつつあるという事である。寧ろその切迫感を、イスラムテロリズムの図式は、くっきりと浮き彫りにしているのだ。

 

「正義」と「悪」は、ただその辺に分散しているものではない。それは危機に瀕した「正義」が、自らの現実感を取り戻そうとした時、無作為に「悪」は創られるのだ。正義の名によって袋叩きにし、やがて悪が瀕死に陥り、彼らのもがき苦しむ様を眺めて嗤う、先進国独特のこの行為こそは、正義を称揚する資本主義にとっては、改めて自身の正当性を体現するものと言える。そして正義の名において制裁される、イスラム過激派のそのイメージこそが、歴史的な運命の果てに凋落して行かざるを得ない、資本主義の断末魔を具現化しているのだ。このように悪が苦しみもがく様を、先進国が見て嗤う、その刹那的な昂揚感こそが、再び自身の確信を取り戻すためのカンフル剤になっているのだ。

 

正義が声を高らかにする時、それはあらかじめ根絶されるべき悪が、そこにあったからではない。それは、リアルを失いつつある資本主義のイデオロギーが、再び確信とその統率力を取り戻すために、彼らにその「非現実」を求めるからに他ならない。つまり、国家にとって国家が悪になり得るのなら、キリスト教に所以のある資本主義にとって悪になり得るのは、同じ宗教という構造を持つイスラム教であるという事だ。そしてその中でも分かり易くキャラクターを演じる事を可能にするのが、先進国に恨みを持つイスラム過激派であろうという事なのだ。

 

現実の生活からリアルを失う。北大生の彼は、そのリアルを再び見つけるために、シリアへ行きジハードへと赴く。そんな彼を大抵の人は、おかしな未熟者だと嗤うだろう。しかし、毎年、何万人もの人々が自殺し、人間と人間が殺し合っている。そんな世の中の澱んだ空気に侵されて、徐々に窒息していく関係の中で、政府の統計によれば、300万人以上も精神に異常をきたす人々がいる。そしてその内の何割かは慢性化している。やがて精神を病んだ末に、自殺していく人々も後を絶たない。そんな中で、そこまでの逼迫感はないものの、それでもネット上には、匿名で書かれる日頃の恨みや鬱憤などのネガティブな言葉が、日ごとに勢いを増すかのように、無数に書き込まれていく有様である。このような動向は、あらゆる先進国で蔓延している。そして北大生の彼がこの記事中で云うような、現実感を失いつつあるというこの境遇こそは、今あらゆる国で共有されている資本主義の苦境とまさにリンクしている。

 

正義の旗を翻す、この荒々しい波風。それは、閉塞感に侵され、徐々に窒息していく運命の渦中でしか共有され得ない不安の声が、形になったものなのだろうか。もし、あなたの眼に、異国の土地で、悪が蜃気楼のように靡くのが見えたなら、それはあなた自身の心が不安に脅かされているからなのかもしれない。明日は我が身。そんな狂気に病んでいくこの国の住民の中で、北大生の彼の決意を嗤える者は、果たしてどれだけ居るのだろうか。