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心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

「皮膚」を脱ぐ為の表現行為 No.3

ここを一つのポイントに、これから先を詳述してみましょう。社会的に対人関係が拡張した際に、その人の持つべくTPOやペルソナの必然性が増していきます。また、その規模に比例して、ストックすべき種類も多くなっていきます。つまり、まとうべく衣服がそれに応じて分厚くなっていくという訳です。しかし、だんだんと分厚くなって重くなる一方の衣服は、その根底にある生の皮膚をどんどんと圧迫していきます。そうなればその圧力によってグイグイと首を締めるように、息苦しくなってしまいます。そして仮にその状態が続けば、精神衛生に支障を来すでしょう。これは、本当の自分というのが、何が何だか分からなくなる、という心境に陥りかねないという事です。

 

そして、今の説明は物理的解釈としても有効なのですが、実は心理的釈明としても有用なのです。このように、それでも分厚くなるのが止まらない仮面は、とうとう自分の実の姿さえもあやふやにしてしまうことでしょう。自分を着飾るあまり、本当の自分を見失ってしまう、これこそ、ペルソナが過剰に作用する際になり得る、最悪のシナリオなのです。

 

しかしこの事は、まことに逆説的なのですが、むしろ、この人間の住む世界が、社会的に成熟しているのだとも言えるのです。しかしそれでも、それに伴い様々な仮面が、皮膚本来の役割りを超越して、常に四方八方に、自分という個性を演じ続けなければならない、という状況をも生み出しているという事でもあります。このように、社会生活を営む為に、本当の自分を押し殺さなければならない、という弊害を、現代の過剰さは、また生み出しているのです。

 

最初に紹介した通り、生物学的に皮膚とは、外界から身を護るためにある臓器です。しかし人間は、物理的環境に対処する為の皮膚という臓器を、さらに進化させなければなりませんでした。それは、人間の社会性の発達によるものが、その第一の動機だと考えられます。自然界で、または人間同士の社会生活で生き残る為に、その皮膚を更に発達させる必要があった。やがてそれをより深化させ、とうとう、より観念的な皮膚へと、進化を遂げる事となったのです。そして、その動向は必然的に「衣服」へと、その意義を向けざるを得なかったのです。そう、進化の過程で人間は、自らの意思で新たな皮膚をまとったのです。すべては社会という集団を維持する為にです。そう、そのようにして人間が自然界で生き残って行くための術を会得しようとしたのです。

 

人間というのは野生の動物のように、それ単独での生存は不可能です。だから大勢で群れて、人という種を護ろうとするのです。しかも、ごく少数の群れでは、人間の持つかつての危機本能は満足しなかったのです。一つの群れが、無数に集まって集落を作り、やがてそれらが村になり町となり、現代では国またそれ以上のグローバルの単位にまで、社会性が拡張されてきました。これらすべての動向は、人間が生き残る為の術なのです。

 

しかし、今お話ししたように、危機回避の本能が人間社会の本質なのだとすれば、特に現代的では、未だにその恐怖心だけが、無尽蔵に膨れ上がり、とうとう社会という存在が脅威となるまでに、膨大になり過ぎたのではないか。そう現在では、もはや生きる事の目的自体が過剰なのです。その過剰さの中では、必然的にふれあう人間の数も甚大に増えて、とうの社会もより複雑に怪奇化します。そして、それだけの領域を担うための駆使すべきペルソナやTPOも、それ相応の数が必要となったのです。しかし、そこには必然的に自己との葛藤が生じます。それは自己と仮面との間に、決定的なズレを起こすからです。おそらくは、ここにこそ大方の現代人の葛藤が表現されているような気がします。

 

そのような過剰な社会では、必然的にそれらの重くなった衣服を、自主的に脱ぐ行程が必要になります。その一つの方法が、自分を「表現する」事なのです。そう、身体で表現する事によって剥き出しの自分をさらけ出す。それはこれまでに何重にも重なり、半ば石化してしまった皮膚が、かつての感覚を呼び覚ますための療法なのです。なので表現者の方々は、この時代だからこその大切な役目を負うているのです。それは人間の進化により、その社会性が肥大化して、ついには歯止めが効かなくなった事による、人間進化の歴史上の必然なのです。