心象風景の窓から

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子供に寄り添う教育的カリキュラムとはなんだろう 〜「教育」の意義を考えてみる〜 

現代の公的教育というのは「知識」や「社会的規範」それに「基礎体力」というように、社会生活を送る上での基礎力を育成する上で組み立てられたカリキュラムで、その中でも学校教育という制度は、社会的人間性の育成を目的としているものである。

 

仮に、社会適応能力の基本を育成する機関としての公教育機関なのだとしても、その子供が将来、社会に適応する方法は、様々な仕方があると思われる。また子供によっては、新卒一括採用の関門をくぐり抜けず、なんらかのルートを通じて、就職の斡旋を受けるかもしれない。このように子供によって社会への接点は、如何様にもその仕方があるのにも関わらず、学校教育で教えられるのは、算術の方法、文章の読解、芸術的感性や基礎的な身体を育成するというものでしかない。しかしこれでは、社会的人間性の教育といった観点から見た際には、このようなカリキュラムは、とても大雑把であると謂えるだろう。

 

例えば、算術や芸術的感性といっても、そもそもその分野の歴史的な含蓄やその哲学の部分を教える訳でもない。学校カリキュラムで履行されているのは、そのようなものではなくて、単純な技術論である。しかし、このような技術が、現実の社会に適応する際に、適切に応用されているかといえば、ほとんどの子供の将来には、そのような関係を見出しているとは、到底言えないだろう。ほとんどの子供にとって、このような技術論とはテストの点数を稼ぐ為の方法にしか過ぎないと思われる。

 

このように学校で勉強する意義を見失いつつある子供の、このような大雑把であるカリキュラムに対しての慧眼は、至極もっともであると思われる。そもそも、学校教育の場で行われているこのような教育カリキュラムは、社会人に成るに至るまでの長いスパンで見れば、いささか無駄の多いものである。子供によって、社会との接点を持つに至るケースが多様なら、より、現行の教育カリキュラムを、その子供のビジョンに沿って、その意向に適えるように、多様に改変する必要性があるだろう。

 

しかし、集団的にも、教育される内容的にも一元的な公教育機関で、学ばれる社会適応能力とは、一体どの方角に向けての能力なのだろう。様々な社会適応の仕方がある中で、結果的に、どのように社会に適応して行くのだろうというのは、現行の学校の場で学ばれる教育というのものでは、具体的なビジョンが見えないのだ。

 

よく考えてみれば教育という語には抽象的なニュアンスが幾つも林立している。またその解釈によっては、集団によってもまた個人的志向によっても、様々な教育のスタイルがあり得る。その子供が、将来、どのように社会へ適応して行くのかは、それぞれの感性に従うはずである。そのような多様なビジョンに敵うものとしての学校教育があるのなら、現行制度のカリキュラムのに使用されている「教育」という語に含意している意義は、少々抽象的に思われる。つまり、教育的カリキュラムとは、どのような将来へのビジョンに関してのものなのか、またその子供の将来に対して教育的カリキュラムが意義を持ち得るとすれば、一体どのような形式が妥当なのかという事なのだ。そのような議論によれば、1クラス40人のような画一的な教育体制に固執する必要もないとも考えられる。

 

それに「教育」というそもそもの意義は、国政の政党や、全国の自治体よっても、また個人によっても、大きく違ってくるだろう。そして実際的には、独自の教育カリキュラムを履行している教育機関も多数存在しているようだ。では、このような多様な「教育」の意義が溢れる中で、当の子供たちは、一体何を履行すれば教育を修了した事になるのだろう。

 

このように「教育」という語に込められる意義が、如何様にも解釈が可能であるという事からも、「教育」の持ち得る多様な解釈を、丁寧にカテゴライズする必要があると思われる。そしてそれらは、その総てを国政の管轄にする必要もないだろう。特に法的に教育カリキュラムを制定するのなら、子供の尊厳を維持する事を前提にするように定言した上で、あらゆる教育的価値を肯定出来るような抽象的な法文に改訂する事も可能だろう。それこそ「子供の権利条約」や「児童憲章」こそが、この時にこそ、その効力を発揮できるのではないか。

 

幾ら社会が多様であるからといっても、その社会で生きて行くには、そこに適った社会適応能力が必要である。では、大勢の多種多様な感性を持つ子供にとって、現在の一元化された学校教育とは、一体どのような意義があるだろう。そういう意味で、フリースクールなどの取り組みは、学校教育にのみ一元化された教育の濃度を、あらゆる可能性を秘めた新たな教育機関へと還元する役割があるのだと思われる。おそらく、フリースクールとは、多種多様な子供の感性に適ったある仕方を提供し、その趣旨に賛同した子供が、自分のペースで自主的に社会適応能力を身につけて行く場としての意義があるのだと思う。今必要なのは、多様に解釈可能である教育的イメージを整理し、将来的ビジョンの持つ子供に向けて多様に学べる場を創造する事である。