心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

自由と平等の監獄社会

人間性とはなんだろう。旧社会、それは階級が厳然とそのテリトリーを誇示していた時代であった。貧富とカースト、そこには決して超えられないラインというものがあった。そしてプロレタリア、ブルジョワジー、そこには確かに、剰余価値と搾取という名の下で階級社会は根差していた。旧社会、それは階級とカーストにより、人々に閉塞を生み出していたとされる社会である。このような旧体制、これらは平等とリベラルの号令の元に次々と解体を余儀なくされていった。旧体制は、人間を閉塞と恐怖に陥れ、ヒューマンライツの元に庇護されるべく本来の人間の存在を否定するものであると、だから自由と平和、そして平等は喝采され、そして時代の寵児であると持て囃された。

 

それらは、現代では経済的な政略とも迎合し、更には、リベラリズムと市場主義とも折り合い、近年ではネオリベラリズムとも、その形態を進化させている。全ての人間とは平等であり、また自由を犯される事のない個人である。そのような現代社会では、行使可能な選択肢は、かつての階級社会よりかも、遥かにその数を凌駕する程のものとなった。そんな社会では、あらゆる人間たちが自由と平等を元に庇護された中で個人の権利を行使できる。そして自由を確保された平和の中で、永遠を生きる事が可能となった。

 

そんな現代社会においては、あらゆる物事が、自由と平等、そしてヒューマンライツの元に庇護された権利を通して明確となった。それらは、永久不滅に、人類の中で護られ続け、かつそれらは人類の不断なる行いの最中で行使され続ける。抑圧と搾取の盛る旧体制から勝ち取ったこれらは、凱旋のさる歓声に煽られ、その戦旗はことごとく高く舞い上がる誇らしさを眼下に、民衆により良き人類の未来を提示したのだった。

 

旧体制、それは階級とカーストにより人々を閉塞に陥らせた。旧社会、それはプロレタリアからブルジョワジーによって、剰余価値と労働力を無限に搾取する。そのような社会において、人間たちは、様々な抑圧そして権力による奪取を体験してきた。そして今日、現代社会となって、そのほとんどは、その名残さえも始末されている手前である。そして、そこに取って変わったのが、自由、平等、そしてヒューマンライツの元に庇護された権利である。これらは、より良き社会、いうなれば、より良き人格を持ってして、より充実した人生を送るための指標である。

 

現代の人類は、このような標語を基に人生のプランをより良く当てようとしているのだ。しかし、平等、自由とは如何様であろうか。マスメディアで格差社会と言われて久しい時間が経った。そしてその格差とは依然と遺る旧体制の名残りであると散々持て囃されている。よって推し進められている平等政策も、そして経済的なリベラリズムも、そのような号令の元に、より先鋭に推し進められている有様である。

 

しかしそれは本当に旧体制の名残りと言えるのか。様々な破壊の元に再築された現代体制の中では、全てのモノが自由と平等の元にある。しかもヒューマンライツに庇護された個人の権利を持ってである。しかし、そのような自由度のある社会とは、ある意味では分散化し易い社会である。旧体制のようなボーダーラインが取り払われた社会においては、そのような行き交いもまたより自由度の高いものとなったのだ。

 

そこでは必然的に貧富の差はより厳然化されているのではないか。平等という名の下に施行される政策とは、競争原理に特化された経済合理性に有利なものなのではないか。だからそこでは必然的に格差という形で、旧体制のような階級社会を再現したものとなったのではないか。そしてそれはより見えない形で、この社会の深部に侵食し始めている。むしろ自由と平等こそが、旧体制のような分かりやすい悪役の存在を見えなくしている。それは、自由、平等、そしてヒューマンライツの元に庇護された権利が醸す匂い、そうそれらが醸す先進的でクリーンなイメージがそうさせているのだ。

 

しばしば、これらを合わせ持つ国家、個人は先進的であるという。しかしこれは正しい認識なのだろうか。しかしこれらを合わせ持つ国家、個人とは、実は競争原理や経済合理性に基づくリベラリズムとに親和性がある。平等の元に経済合理性を追求する事とは、すなわちそれだけ競争意識を内面化した上で、合理的に資本を蓄えていこうとする心理にインスパイアされるものである。また自由の元に経済合理性を追求するとは、以上のものに迎合され、その意識に拍車をかけるものである。このように自由と平等とは、経済合理性の号令の元に、個人が競争原理に加担するものである。つまり自由と平等は、必然的に格差を拡張するものとして機能する。

 

現代、格差を是正するものとして導入されている平等政策も、それは結果的に格差を押し広げる形で、社会にフィードバックされる。なぜなら、自由で平等な社会とは、それだけ競争原理と経済合理性とに親和性があるものだからである。そしてその行く先に格差は待っているのである。そう、さらなる拡大の末に、崩壊する現代社会体制の像を胸に。これは必然的な結果であろう。現代社会において、自由と平等とは、その体制を批判する際の大切な芽を摘むものとなっている。


批判不能は、その体制の腐敗をもたらす。つまり自由と平等の謳歌する社会体制とは、新たな監獄の誕生である。現代社会においては、フーコー的な道義的な相互監視ではなく、またそれらの一派として、今度はより良き理念として、自由と平等の旗を掲揚し、その威光により民衆を盲目にした上で施行される大義ある監獄社会である。

 

そんな社会では、自由と平等を掲揚した正義のために旧体制の名残りを批判し、解体させ、現代の体制に純化させる。しかしそれらは、自由と平等を称揚する為に善であり続け、他の批判の追随をも許さない。なぜなら、自由と平等こそは人類が旧体制から勝ち取ったものであるからである。だから、そのようなものを批判もする事は、旧体制側の人間のやる思考なのであり、過ちである。だからこそ許されないのである。そしてそのような親和性こそ、現代の格差社会の拡張するスピードを加速させている根本の原因である。

 

現代の自由、平等の理念こそ、格差社会の根源である。自由と平等の実現する社会とは、競争原理や経済合理性を迎合する体制である。それは、旧社会体制よりかも、もっと浸透圧のあるものとなっている。よって、自由と平等の純化した社会とは、より格差や階級に分け隔てられた、そして経済合理性に基づいた競争原理に特化した社会といえよう。しかしそれらも、自由と平等というもっともらしさによって批判不能に陥っているものである。そのような批判不能性こそ、現代体制の新たな監獄社会なのである。

”神が死んだ” それからのサイエンス 〜フィロソフィーと「私的」社会構造〜 Part4

かつて、サイエンスで流行の兆しを迎えようとしていた、この「私的な」という観点こそ、それはやがて “神が死ぬ” 予兆として現れたのかもしれない。この「私的な」という観点による探究では、時たまこのような多幸感は観られる。実はこの「私的な」という観点からは、思想的独善が生み出され易くなるのだ。そしてかつて、フリードリヒ・ニーチェによって “神は死んだ” と言われて久しい時間が経った。しかしそれにしても、ニーチェの言った “死んだ【神】” とは、一体何を指す語なのだろうか。その正体とはつまり、いわゆる社会で共有されて来た【絶対性〔ストーリー〕】を指す言葉なのではないか。

つまり、これまでの「絶対性〔ストーリー〕」が零落し、やがて、相対性の時代が到来する事を予言した警句だったのではないか。では、相対性の趨勢する時代における神とは、一体何だろうか。それは流動する相対性によって社会構造が不確定化、または不安定化するに際して、アイデンティティを通して絶対性を帯びた 【個人〔私的〕】 なのではないか。しかし神を、絶対性の象徴であると断言するのは、少々早計かも知れない。が、社会構造が不安定化するという状況において、なおかつ社会で共有されるべく「絶対性〔ストーリー〕」も成立し得ない時代においては、自ずと【個人〔私的〕】が絶対性を持つに至るのは、半ば時代の宿命である。

そうした【個人〔私的〕】の絶対化、それは思考する自分が、まるでこの世の神であるかのような錯覚を引き起こす原因にもなりうるだろう。更にそうした誤解により、さも自分は “この世界の全てを知った者” としての、横暴な振る舞いを起こす事態にもなりかねない。それはつまり【自分こそが神】であるという、事実上の宣言である。

かつてのフィロソフィーでは、自分とは、“決して知りえない存在” であるというような、人間とはそもそも不完全な存在であるとする了解があった。だから、神、精神、そして魂や美の根源に対して真摯でかつ敬虔で居られたのだろう。しかし、そうした古代においても、それらの態度を損なった人達が居たのだ。そんな彼らは、皮肉を篭めて “ソフィスト” と、揶揄されていた。ソフィストとは、「詭弁者」という意味で使用されていた言葉である。詭弁者である彼らは、自らの誤ちを隠したり、自分の成果を無駄に誇張する為に、真理を偽造したり、故意に振りかざしたりしたのだ。

そんな彼らの振る舞いの発端には、「主観性=【個人〔私的〕】」と「客観性=【フィロソフィー〔関係的〕】」とを混同させて、そこから倫理的道義的に誤った思想を構築していたのだろう。しかし、何においてどのような観点が最善であり、唯一正しい哲学であるかという事は、そもそも本質論的に不確定である。だから、必ずしもそういう状況に陥る事が、最悪であり、偽善であると一方的に決定する事も、また不可能ではあるのだ。

しかし “神は死んだ” という警句が、自らを神であると宣言するサイエンティストが現れるという言葉だったとすれば、どうだろうか。自らが独善的に盲信する真理で、他者の真理を猛攻する時代の到来を、かのニーチェは予言したのだろうか。かつてニーチェが予言したであろう、社会で共有されるべく【絶対性〔ストーリー〕】が成り立たず、実質的に形而上学が成り立たなくなってしまったとすれば。しかしそんな現代においては、「私的な」から成り立つ個人の真理にとって、【他者の真理】とは、これまでとは違う形式で、形而上を継承する役割を待ち得る筈なのである。つまり、他者の存在が、思想的にも身体的にもより身近である現代特有の距離感こそが、逆に、そこに到達し得ない存在としてのポジションを持ち得るのだ。

これはどういう事かと言えば、つまり【他者の持つ真理】こそが、フィロソフィーでいう所の【決して触れられないもの】の箇所に相当するのではないかと推測されるという事である。例えば、相手がそこに居るにも関わらず、その心を完璧に知るという事は不可能であるという見方からも、それが伺えるだろう。近くに居るのにも関わらず、それに触れる事も、知る事も出来ない、これは【他者】という存在だけではなく、これまでの形而上学の対象であった、神、精神、また魂や美という現象もそうである。決して触れられない存在として、その根源を探究する事、それはつまり人間の生き方であり、人間としての真善美であった訳である。かつそれが形而上的な現象だけではなく、【親しい友人】でさえも、その定義に十分に当てはまる。

しかし、形而上学で扱われるような真善美が、人類に普遍的なものとして共有される時代は、とうに終わったのだ。しかし、それは普遍的に共有されるべく大きなストーリーの【元型】を失っただけである。それは決して普遍性がというのではない。だからそのような普遍性という本質こそは、形を変えて現代でも残滓として残り続けている。そしてその名残はあちらこちらの箇所に観られるものだ。

例えば現代では、アイデンティティに規律された個人というものが信仰されている。またつい最近までは、「自分探し」に代表されるような、本当の自分とはなんぞやを探究する自己啓発が流行していた。そしてある人は、愛する人の裡に、本当の愛を夢見るものであり、またある人にとっては、日々意識を高める事に確かな充足感を求める。そしてこれらに広く観られるのは、自分にとっての【普遍的な生】というものである。このような現代特有とされている【普遍的な生】という理想こそ、実は、かつて様々なフィロソフィア達が、形而上学に求めた、人間の生き方の真理そのものである。

しかし現実では、自らを神と自称したサイエンティストが、自らの体験を真理として「全てを知り得たのだ」と陶酔しているような光景が多く観られるようになった。その大方は、無闇な正義欲に振り回されて、他者を執拗に攻撃している。つまり、サイエンスにおいて「私的な」の流行とは、また別の観点から見れば、いわば「エゴ」の時代を表象したものであるとも言えるだろう。また形而上の失われた時代というのは、普遍的な価値が、形而下すなわち神不在の物質的な価値観に置き替わる事を意味し、それが思想的独善を、生み出しやすい状況を作ってしまうのだ。つまりそれが、現代で 【思想的エゴイズム】が流行するという事の証左である。

そしてたった今、巷の書店では、精神世界の書籍が流行っていると言われている。その訳とは、こうしたエゴイズムの時代への適応を呼びかけたものではないかと、みやすけは推測している。こうして見ると、その時代の流行りとは、むしろ、その時代がそういう流行りの逆に偏ろうとするから、その抑止力として顕れるのではないかと、仮説が立てられる訳である。むしろそこには、その流行りと拮抗する世の中の流れがあるのだと、そう仮説が立てられる。

そんな形而上が事実上失われた現代において、改めてその普遍性を持ち得るのは、【他者】という存在である。人間は、社会を形成して、その関係性の中で生きる動物である。そしてこれまで、そのような智慧を、神や、精神、そして魂や美に、その普遍性を求めて探究して来た訳である。人間とはそうした広い世界に、想いを自由に馳せて、これまでの永い歴史を紡いで来た。しかしどれだけ遠くの土地に想いを馳せようとも、結局は、近しい人間との関係性に立ち帰って行くのだろう。そして現代、人類普遍の法則はもはや捨て去られた。そして新たに、人間と人間の関係を再考する時代に、たった今突入したのかも知れない。

不安定な社会における形而上学 〜フィロソフィーと「私的」社会構造〜 Part3

特に現代は、この「私的な」の領域が、社会科学を中心に、半ば全面的に流入される時代となった。特に、社会科学の領域においては、「私的な」という一観点を用いて、人間社会を複雑に構築する、ありとあらゆる現象を解明して行く手法が流行している。

そんな現代とは、これらは既に言われている事ではあるが、前近代において機能していた階級制や身分制などの制度が成り立たなくなった世界である。更に現在の学説にならうと、前近代的な不自由で不平等な社会構造においては、アイデンティティで個人を規定する必要は、あまりなかったのだとされている。しかしこれは逆にいえば、社会構造が絶対的であるとは、いわば、その社会構造の内側の安定性を保証するものだった訳である。

特に現代では、様々な属性が多様化複雑化した世界となり、自らその最中で自己を確立し続けなければならない。また人間とは、社会を集団で形成しなければならない動物なのである。そうした渦中で、絶え間なく流浪して行く構造の最中に、独立した成員としての自我を保つ必要がある訳だ。そしてさらに、こうした構造社会の中では、この社会に対して、自らが充分に果たせるであろうメリットを、常に表明し続ける必要さえもある始末である。そう自分は、この社会にとって、常に有用なのだと宣言し続けなければならない。なぜなら、かつてのような絶対的な社会構造を失った為に、今度は、個人の自律を要請されるからである。

複雑多様化の社会とは、言い換えれば、それだけ不安定な社会構造という事である。そういう社会で絶対性を求める事は、ややもすれば差別を生み出す事にもなりかねない。なので、こうした社会構造に絶対性を定立させる事は不可能なのである。特に、今の世の中の時流は、相対性の時代である。そういう相対性の時代では、自ずと、個人というものを、それも自ら率先して安定させなければならない状況下に、晒される訳である。個人の安定化、それが現代社会の中で生き残って行く為の、必須なる術である。

そしてその最中で、常に「私的な」の一観点を導入するとは、絶え間なく流動する構造社会の裡で、ポジティブにアイデンティティを確立する為の手掛かりを、有益な形で提供をしているとも言えるだろう。これはどういう事かというと、順を追って説明すると、一つに、現代では形而上を形成する余地が、もはや無いのだという事実に、その解答の一端はあると見ている。

それは、この社会には、様々なアイデンティティを持つ人間が、同時に存在しているという事に深く関わっている。しかも、それが常に意識される範囲にである。そのような社会では、誰かしらの発言をも、そこに曝されるべく批判のようなものが、常に付きまとっている訳である。しかもそれは、決して見えない形で、周囲から常に見張られているような体感の下にである。つまり、社会の成員全てが合意し得る現象というものが、もはや成り立たたず、そうした渦中で、さらにその絶え間のない批判の眼差しに晒される上に、アイデンティティを確立した個人を形成する必要性に迫られているという事である。つまり、形而上学が成り立つ時代の、事実上の終焉において、個人というものがより前面化されるという事である。

そしてもう一つのキーとは、サイエンスにおける「私的な」の流行にある。それは、「アイデンティティ」という新たな個人の時代の出現に、深く影響されている。これらサイエンスの「私的な」の流行と、時代が要請する「アイデンティティ」の確立とは、実は、密接な表裏を共有しているのだ。このサイエンスの「私的な」の導入に際しては、それらは、主に社会運動に還元された形で、広くその思考体系が共有されるに至っている。それはつまり、「かつてのサイエンス」の事実上の解体を、余儀なくされているという事である。

それによって現代では、幅広い範囲に、サイエンスという思想が還元される契機にもなった。そこではもはや、かつてのような知識を待つ者、そして持たざる者という階級さえも消滅した訳である。つまり、サイエンスに「私的な」を導入した事、それによって様々な知識が溢れ出し、その移り行くトレンドの最中で、個人を確立するアイデンティティは、より醸成されて行くのだ。これらの事柄によって、アイデンティティがポジティブに確立されるに際しての手掛かりを示して見た。

しかしその際に現れる、それなりの弊害も、また危惧されるべきであると思う。それは、「私的な」という観点から広範な社会的現象を「語る」事に際しての自身のスタンスと、その振る舞いである。そこには、自ずと錯綜した視点と、それに絡んだ自分のスタンス上の盲目性に、着眼せざるを得ない状況に突き当たる事になるだろう。そういう傾向の弊害なのか、あちらこちらで、自らを神であると自称するような言動が、事もあろうがサイエンスを標榜する学者の間にも、その感染の規模が拡張してる傾向が観られるのだ。

「私的な」からの観点を軸においた探究には、先程にも述べたように、強烈な快楽的多幸感を伴うシチュエーションが想定され得る。このような多幸感こそは、思想を体系化するに際して、危険を伴う事があるのだ。かつてドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは、“神は死んだ” と、警句を延べた。ではなぜ “神は死んだ” のか。実のところその神を殺したのは、現代のサイエンスで流行している「私的な」の観点から思考する際に陥りやすい、強烈な思考的オーガズムではないか。思考的オーガズムとは、つまり自分の雄姿に酔い痴れている状態、またはその様である。

 

 

「主観」と「客観」そして【私的フィールド】へ 〜フィロソフィーと「私的」社会構造〜 Part2

そして、それらを根源とするサイエンスという営みがある。それは、仮説と証明を繰り返して、知を体系化し、やがて真理へと限りなく近づく為の行いである。これまでサイエンスの手法では、「主観」といわれる、哲学上では「感情」とも分類される箇所を、極力排除してきた。それは、サイエンス的手法においては、「客観性」に基づく分析が、より重要視されている為である。そしてサイエンスとはその手順の上で、厳密に体系化されたものである。またそこでは、特定のルールを厳守した中で、さらに厳密な証明を施す事を、条件とされている。

しかし、例え同じサイエンスの仲間でも、そこから様々に分岐したそれぞれの分野では、この証明される際に使用される手法の定義は異なる。だがあえて共通しているものとして、まとめられるならば、それは基本的には、観察される対象に課せられる自身の客観性というスタンスを、厳守しなければならない事であると言えるだろう。そして恐らく、これらは広くサイエンスという分野で、取り入れられているものであろうと思われる。そうして観る対象を、客体化して分節化可能な現象として扱い、それらを普遍的とされる理論に一体系化するという事が、主にサイエンスの分野でなされている仕事である。

しかし、サイエンスが勃興する以前の更に昔では、また事情は違っていた。特に古代哲学においては、人間としての在り方を、根源から問うという側面がより強く出ていた。それは、現代サイエンスのように、経済活動に直接応用されているような、実用的なものとは、また違うものであった。特に現代では、サイエンスの果たす役割は、純粋理論の分野だけではなく、応用理論としてより実用的な面に、幅広く利用されている。またサイエンスの発達と、人類の進化は、時代が進むに連れて、より加速的に密接な相乗効果を生み出している。このようにサイエンスとは、古代哲学が、「知を愛する〔フィロソフィー〕」と表現されるように、主に「人間の心の営み」に関して影響を与えていたものとは、違うものに発展して来たと言えるだろう。【しかし、数学の起源のような、農耕との関わりが深くあったとされる分野の研究もある。】

このように古代哲学においては、より良く人間が、僅かな期間内に人間として如何に誠意を持って生きれるのかという事に、またそこにどれだけの意義を持つ事が出来るのかを模索してきた。また、人間的なより良い生き方とは、どのような意義を持ち得るのかという事も、広く探究されてもいた。つまり古代において哲学とは、人間がより良く生きるための智慧を授かる為の手段であった。

そうして古代哲学においては、精神、神の存在、また魂や美という現象を通して、この世界の根源を探究しようとした。そして、そこから様々な流派を派生させながら、人間の生という現象を模索して来たのだった。もちろん、その対象は、人間だけという事でもなかった。それは「自然」に関する好奇心がそうである。流派の中には、世界を構成する「自然」の根源を究明したいとした派閥も存在していたのだ。またそれらは、哲学と区分され自然哲学と呼ばれていた。そうして、この世界の根源を究明したいと湧き上がる欲求めいた感情や、またそれらを発端に、現実世界に内在する、様々な現象の根源を探究していこうとする哲学を、総括して形而上学と言われている。

 

これまでサイエンスは、「主観」とされるものを極力排除してきた。その傾向をより強めたのは、16〜19世紀の期間だとされている。この頃のサイエンスは、観察器具による現象の観察と、幾度の実験による検証という手法を確立した時期である。これら観察器具と実験の発達によって、サイエンスは飛躍的に厳密化されていく事になる。例えば、およそ16世紀にコペルニクスによって唱えられた地動説も、当時の天体の厳密な観察によって立証されたものだった。それから一世紀を経て、ガリレオによって発明された天体望遠鏡によって、その傾向はより厳密かつ急速に発達するに至っている。

こうしたサイエンスを行う際の手法が、「私的な」を排除した理由とは、なんだろうか。それは恐らく、そこに自分こそが全能であるという惑いの余地を、あらかじめ封じる為のものであったのではないかと、みやすけは思うのである。

世界の根源を探究するというのは、ある意味、魔境を彷徨うのと似ている。それは、自分が世界を俯瞰するという状況において、まるで、自分が世界の総てを手に取っているのだ、という感覚を憶える瞬間がある為である。それは世界を「客観視」する事を、逆に、世界を「支配」していると錯覚する事によって生じるものである。

そしてそれは、「思考」という行為にも、その片鱗は現れるのだ。頭の中で、深化する思考。現実のあらゆる感覚を拒否し、より深く思考を研ぎ澄ませると、不意にとある臨界に達する瞬間を迎える。それは「ひらめき」と言われるものである。やがてそれに到達し、そこに深い手応えを感じると、自分こそが世界の覇者であるという全能感に支配されてしまうのだ。

こうした世界の全てを堪能しきった、あらゆるものを理解してしまったという体感、それはさも強烈な体感である。更にそこでは、酔い痴れるような快感が伴う。そうした極限の思考に到達される臨界点では、輝くような「ひらめき」があり、その更なる内部には、「世界を知ってしまった」という全能感が待っている。そしてその溢れ出す多幸の瞬間に、この世の神が現れるのだ。

このような体感とは、いわばこの「私的な」という観点からの思考が成し得る、耽美なる極限の形なのだ。そしてこの場合の神とは、身体感覚を強烈に体感する思考的オーガズムの渦中に現れるものなのだ。思考の極限にほろりと咲く可憐な華。そのような強烈な体感の最中に、全知全能の神は、煌めくような閃光を放って、探究する者を丸ごと呑み込んでしまうのだ。

 

【知(ソフィア)】を【愛(フィロ)】する 〜フィロソフィーと「私的」社会構造〜 Part1

「知る」とは一体なんだろう。何をもって、人は知るに至るのだろうか。人間はこれまで「真実」に対して真摯に取り組んできた。人間は知る事を無上とし、知ろうとする事によって様々なものを手に入れようとしてきた。「知る」とは恩寵であり、また時にそれは神の領域に跨がる為の神聖な儀式でもあった。知るという事、それは神の御姿に触れる体験でもあった。神に触れたその法悦の瞬間こそ、【知る】という目的において最上を手に入れた瞬間であった。

 

しかし人間にとって「知る」とは、ある物語においてパンドラの箱を開けると形容されるように、時にこの世界を悪夢に変える力をも生み出し得る。また人間は、この世界に物質的な現世界=形而下の世界と、魂、美、真実等の概念の棲む世界として、それを形而上とを対置した。このように人間は、魂、美や真実などの決して現世界を棲家としない世界の概念を、形而上的であるとしたのだった。そしてこれらが形而上であるという意義は、自分とは「決して知り得ない存在」とする事にその本義がある。これまでの哲学(フィロソフィー)は、特に古代ギリシアにおける古代哲学においては、【フィロソフィー=知を愛する】という風に非人称名と動詞を倒置させる事によって、より密接な関係性をそこに表現していた。

 

この【知り得ない】者としての人間が宿命的に持つ限界こそ、哲学(フィロソフィー)という言葉を【知を愛する】というふうに倒置させる形を取る事によって、その不完全性が間接的に表現されている。まさにそれは人間の本能が持つ愛の営みである。決して知り得ない恋人の心象を詠う恋文や詩は、古今東西どこの地域にも散見されるものである。しかし【愛】とは、知り得ない恋人への永遠の憧れである。恋人を永久に想うその心こそは、永遠に到達不可能な理想郷への憧憬から起こるものである。人間は、知り得ない存在に対して興味を掻き立てられる。かつその先に、輝かしい恩寵があるとなれば、なおさら人間はその対象に惹かれ、求めるのである。

 

恋人に憧れるのは、その恋人に、自分が持っていない何かを感じるからである。それもとても素晴らしく輝かしい何かを感じるからである。また人間はそこへ到達しようとするし、触れたいとも想う。だから【愛】は関係性になり得るのである。輝かしい何か=【知】、とそれを希求しようとする探求心の現れである【関係性】の発露、またそれを知ろうとする心地の良い感情=【愛】とが、快く交わっているのが、つまり【哲学(フィロソフィー)】なのである。

 

しかしこの関係性が、時に哲学を志す人間を愚昧にしてきた。それは、恋人を愛するあまり盲目になる時がままあるように。このように愛とは時に盲目である。恋に恋をしている時、また恋人をずっと手中に収めていたいという支配欲や、弱いものを護りたいとする守護本能、その様々なシチュエーションによって、人間はいかようにも、その愛の関係の最中に盲目に陥るきっかけを有している。

 

しかし「決して知り得ないもの」としての恋人とは、そこへ幾ら手を伸ばそうが、欲するあまり唇で想いを幾度となく重ねようが、常にそこに恋人の真理が現れるという結果が保証されている訳ではないのが、真実なのである。またそれは愛の真理でもある。恋人が不意に微笑んだ瞬間、また手をさりげなく握り返してきたりとかのその瞬間瞬間に、人間はそこに恋人の心の奥底を【知る】手応えを感じ、また恋人の本当の心を【知った】と自惚れるものである。また哲学において言うなれば、それは真理に到達した瞬間の恍惚であるとも形容出来るだろう。【知った】という感触、それを探求する心にとっては安堵の瞬間でもあり、またそれは間違いを犯す動機でもあるのだ。

 

また【決して知り得ない】とは、それは「決して触れられない」「決して対面出来ない」という事実の暗喩でもある。では一体、哲学〔フィロソフィー〕とは、何か。それは、【知】と【人】との愛の関係性である。まさに「知〔ソフィア〕」を「愛する〔フィロ〕」というイメージからは、まるで愛しき人に想いを馳せる、深い情景を連想させる。

この「決して知り得ない〔もの〕」。真実とは決して到達不可能な理想である。しかしこれが「触れられない」「到達不可能」な【知〔ソフィア〕】であるからこそ、これに【愛する〔フィロ〕】という表現を与えたのだろう。決して触れられない高嶺の花にこそ、人間の愛は、深く燃えるものである。こうした「知〔ソフィア〕」と「愛する〔フィロ〕」が限りなく親密に関係し合うような関係性とは、恋人を想う心そのものである。そのような「知り得ないもの」に対する、甘美なる表現は、人間が「知」という現象に対して抱く、温かいエロスを表象しているようにも見える。それは、現象の一部である【知】を人格として喩え、更にそれを決して「触れられない」「到達不可能」である理想の恋人を想う心地、そしてさもそのような関係性が、人間と人間との甘い愛になぞらえているように、思うのだ。

つまりフィロソフィーとは、【知】と【人間】との人間的な愛を介した蜜な関係を謳ったものではないか。つまり、そこには人間が本能的に持っているエロスが、暗喩として篭められているように思える。そして、その実践者を「知を愛する者〔フィロソフィスト〕」と呼ぶように、このような名に関しても、そこには、醸成されたより親密なムードが表現されているようでならない。【人間】は愛を持って、【知】と対面し、そこに密接な関係性が生まれる。そのような連想を想起させるのは、決してただの夢想ではないだろう。

 

当事者間ディスコミュニケーションとサバルタン

社会問題に関心のある人たちがいる。ひとえに社会問題に関心を持つのは、ひょんなことから、その道に入る人が多いだろう。ある人は当事者を名乗り、その問題のイニシアチブを会得する契機を得る。またある人は問題意識をなんらかのきっかけで意識し、問題の解決に尽力しようとするだろう。

 

しかし、ある人が社会に問題の眼を向ける動機は、その人個人の感性に基づくものであって、それぞれの属性に還元化する事は不可能かもしれない。例えば、一般的に左翼といってもその根幹の問題意識のきっかけはみんなそれぞれ違うのかも知れない。この事は、右翼であろうが学者であろうが、活動家であろうが、そうであるかも知れない。

 

つまり社会問題の当事者とは、本来はノイジーな配色の総体を指すものであって、左翼という単体を示すような一つの色という事ではないのかも知れない。しかし社会問題を共有し合う当事者という括りで連帯を表明するのを目の当たりにすると、そこで表現される団結隊の中にも、そこの場に似合わないある一定の層が存在するのではないかとも考えられるだろう。

 

当事者という団結の中では、総ての問題が明瞭となり、総ての動員がそこでコミュニケーションを通した形で自明となるように暗黙に了解されているのではないか。しかしまた、スピバクの云うようなサバルタンのように、本来語るべくして存在する筈の当事者が語るべく言葉を持ち合わせていない、という現実もまた言われている事である。

 

しかしそれはサバルタンという隠された属性が存在するというような存在論レベルの話ではなくて、それは本来、社会問題を共有するどのような団結隊も、完全に意思疎通のネットワークというものがあり得るという前提こそが、実は間違っているという問い返しなのではないか。むしろ同種の動員を持ってしても、そもそも完全なネットワーク化というものが不可能なのではないか、というその問い返しなのではないか。

 

社会問題を語る当事者の関係性は、語るべく言葉の了解を通してネットワーキングされる。その際の言葉の持つべく信憑性は、共感を通じてその団結隊のあらゆる箇所に浸透させなければならない。しかし、その持つべく言葉の信憑性は、完全化される事は不可能である。この事を、当事者間のディスコミュニケーションと言おう。この事にならえるなら、当事者だから分かり合え、いつ何時も共感し合えて、かつその関係性は友愛的で、共に未来を革命可能にする同志であるとするのは、そっけいな判断であると出来るのではないか。

 

むしろ当事者によって、そこに関わるようになった動機が様々であると仮定する事が出来るのなら、そのコミュニティは、共感的である事は本質的に不可能であり、当事者間のディスコミュニケーションの折り合う中で紡がれる儀礼的な、そして慣例的なコミュニティにしかなり得ないと言えるのではないか。この文脈から推察するにサバルタンとは言葉を持たない者ではなく、むしろ、繰り広げられるディスコミュニケーションの最中で孤立化せざるを得ない、その中でも本質的に言葉を持ち得ない存在なのかも知れない。

 

しかしこのような当事者のディスコミュニケーションは、「語るべく言葉」の上で了解されているものでもある。それでもそれは本来のニュアンスのコミュニケーションではない。本来相反するベクトルを持つであろうイデオロギー同士の集い、それが当事者間のコミュニティである。そのようなノイジーな配色の総体である当事者のコミュニケーションは、本質的にディスコミュニケーションにならざるを得ない訳である。サバルタンとは、このようなディスコミュニケーションの最中で生まれる存在である。語る言葉の重きに比重が偏れば偏る程、このようなディスコミュニケーションの持つサバルタン性は、よりその度合いを高めていくだろう。

 

しかし当事者の団結隊とは、言葉にその重きを置く習性がある。言葉の持つ物語性の共感性の浸透圧が高ければ高い程、当事者の持つ言葉は、その団結力を高めていくのだろう。しかしそれは、コミュニケーションで成り立っている訳ではなり得ない。それぞれの社会問題に関わるようになった動機が様々なきっかけであれば、そのディスコミュニケーションの度合いは、当事者の団結隊の色合いをよりノイジーに分散化する傾向を見せるだろう。

「皮膚」を脱ぐための表現行為 Part3

そのような過剰な社会では、必然的にそれらの重くなった衣服を、自主的に脱ぐ行程が必要になります。その一つの方法が、自分を「表現する」事なのです。そう、身体で表現する事によって剥き出しの自分をさらけ出す。それはこれまでに何重にも重なり、半ば石化してしまった皮膚が、かつての感覚を呼び覚ますための療法なのです。なので表現者の方々は、この時代だからこその大切な役目を負うているのです。それは人間の進化により、その社会性が肥大化して、ついには歯止めが効かなくなった事による、人間進化の歴史上の必然なのです。

 


現在、世界中のあちらこちらで、様々な表現を目の当たりにできます。しかし、人によっては、差し向けられる表現に嫌悪感を抱くものもあるでしょう。なんなんだこれは、と。しかし実は、その嫌悪感の根源こそ、それはその人にとって、より生々しく肉感のジクジクと伝わる表現なのではないか。みやすけはそう感じます。実はそれこそ、身体が求めているのです。そのグルーヴをガチガチの皮膚が呼応しようとしている。そう、肉体が共鳴するから、それが嫌悪感として感じるのです。だからそれがドロっとしたような感情であったりする。


それに、自分の感覚に素直になれないと、妙に嫌な感じがするものなのです。それも一種の防衛反応です。ある表現に対して、嫌悪感が大きいという事は、実は、それに共鳴する度合いも高いのですが、それに素直に身を委ねられないという事なのです。これは、人前で頑なに裸になろうとしないという事でもある訳です。そうして、自分を過剰に護ろうとする、言うなればこれは、それだけ周囲に脅威を感じているという証左でもあります。



しかし本当に自分とはなんにも関係がないと思えるのなら、普通、何の感情も湧きません。でも、それになにかドス黒い感情が湧き上がってくるのなら、それは本当に、単に感情の迷いの作用なのでしょうか? いいえ、それは恐らく、硬くなって歪になった皮膚に、じかに響いているからではないかと思うのです。普通なにかが響かないと何も鳴りません。そう、嫌悪を感じているというこの状態こそが、その表現に共鳴しているという状態なのです。まさに、それが如何に良いものか、または悪いものかに関わらず、です。みやすけはそう思います。硬くなって歪になった疾病程、つい、その本能を揺さぶるような刺激には、ついつい反応してしまうものです。



それに現代は、皮膚が過剰に膨れ上がり、なおかつ石化している人間が大半であろう時代なのです。しかも、その状態が普通の感覚であると、大方の人たちは思っている。そう、鈍感こそが普通であると。だから、敏感な人はことごとく生きづらいのです。そして、その鈍感さを打破しようとする表現は、ものによっては異様に観られるし、また嫌悪、蔑視されるのです。それは、表現を見せるとは、普段なんとなく護りに入っている、日常のテリトリーを壊す試みだからです。そうそれこそが、皮膚を脱ぐという試みなのです。


しかし肉体を覆う皮膚も、古くなった角質は、代謝によって剥がれ落ちるものです。それが皮膚の本来の姿です。この代謝こそ、生きる為に必要不可欠なものです。が、現在はその皮膚の角質が、硬直したまま剥がれて落ちて行かないのです。そう、この皮膚の異常こそは、現代のひっ迫した状況と、とても似ているような気がします。これは先ほど書いたようなペルソナの話もしかりです。しかし、いくら皮膚に代謝があると言っても、角質という存在はまったくの邪魔者ではありません。それは、ある一定の角質層が、肌の保湿を助ける作用があるからです。それに、どんなに古代に遡り、それが幾らプリミティブな状況でも、まったくペルソナのようなものが必要なかったのだと断言するのは不可能です。なぜならば、生物というものはそもそも、皮膚か、またそれに相当する臓器があるという事が大前提となっているからです。つまり、それが観念的であろうが、物理的であろうが、自分を護る手段は、必ず必要なのです。


生物が永い進化の末に、皮膚という臓器を生み出し、自他を区別するようになったという過程において、現代の人間のように、すでにそれが過剰にまで溢れる事態にまで陥ってしまったのは、なかばその道の宿命なのでしょう。すべては必然のもとで、この世界を廻るものなのでしょう。だから、そうした進化に抗うのではなく、それに適うメンテナンスが必要だという事なのです。それはどんな製品でも、その設計が緻密になればなるほどに、その後のメンテナンスは、より小マメにしなければならないのと同じなのです。例え設計図に反抗しても、待っているのは高値でせっかく買った製品の、挙げ句の果ての故障という訳です。


だから知能と、それに付随してその認知と行動が複雑に高度化すれば、それに相応するメンテナンスは必至なのです。これは、人間身体の野生本能の退化うんぬんの話ではありません。むしろその野生の本能が、今でも活きているからこそ、メンテナンスもしなければならない。つまり人間の進化が複雑に高度化すれば、おのずとこうなる宿命だったのです。


そういう進化の流れの必然の中で、再び表現する事の意義を考えてみますと、これは社会性というものが、より発達していく事がこれからも確実なのだとすれば、そこにこそ表現する事の意義は、おのずと付随して行く筈なのです。つまり両者は共に必要不可欠な存在という事です。表現の行為こそは、これからの人間の生物学的な進化に対して、なんらかの作用で影響し続けていくのでしょう。なので人間が現代でも表現を求めるのは、そこにこれからの救いを求めるからだとも言えそうです。


ではその救いとは、なんなのでしょうか? それは日々の社会的生活により窒息してしまいそうな肉体に、爽やかなる風穴を開ける役割なのです。またそれを生きる為の気晴らしとも言えるでしょうか。彼らのように皮膚の内部の「肉をさらけ出す」事、その生々しくオドロオドロしい表現こそが、それを求める時代の気風を表しているようでなりません。それぞれの時代は、これからを生き抜く為の救いを求めているのです。とどのつまり、その時代時代を代表する流行りとは、まさにそういうものなのかも知れません。


しかしよく巷では、最近の表現はうるさいだけだ、自己を面前に押し出し過ぎているというような話もちらほらと流れています。では、彼らが奏でているうるさい音は何を表象しているのでしょうか? また彼らが自分の表現を、衆目の面前にこれでもかと押し出さなければならないのは、一体何故なのでしょうか? それはそれだけの圧力と動力を駆使しなければ決して届かない、または打破不可能な現実が、彼らには見えているからです。だから彼らは決して、ただマイクを片手にガナっているだけではありません。そこに賛同者がいる限り、その部分にはなんらかのキーがあるという訳なのです。


これまでの進化の過程で、皮膚という臓器が生まれ、やがてそれがさらに衣服をまとい、そしてこの現代の社会では、ついに心理の面にまで、ペルソナという衣服をまとって生きなければならない地点にまで到達しました。この現代のように複雑でより高度化の様相を呈してしまうと、それだけメンテナンスの方も大変な労力と時間が必要になります。だからそれだけのギャップを補強する為に、強烈なパワーとビビッドが今の表現では必要とされているのでしょう。皮膚を脱ぐ為の表現行為、このような時代こそが、今この瞬間の進化という歴史なのです。