心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

ブログ立ち上げについて 〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

みやすけはかねてから、そこで見えるものを描きたい、見えるもののありのままを描きたい、と思ってきました。それは、なるべく分節的でもなく要素還元するのでもない、ありのままの風景を。しかし、既存の学問関係の文章を読んでいても、物事にとある基準を当てはめて、そこから分節化して、更にそれらが細かく要素還元化された上で、すっきりと整頓されたようなものが多かった。

 

あらゆる現象をイコールで結びつけ、一つの理論として大成させる。そして今では、このような仕組みさえもシステム論として体系化されていたりする。よって今までの学芸では、そのようなシステム論としての機能が、十分に果たす事が出来た。そう、特に「客観」と「主観」が、分節化可能だとされていた時代においては。

 

しかし、時代が進むに連れて、現代の学術の視野が、より社会的な性格を帯びるに至った。つまり、形而上を探求するこれまでの科学的なあり方が、そうではなくなってきている。今こそ学問の時代は、「私人」を語るものになって来ているのだ。そのような流れの中で、この新しい学問は、人間の心象のような領域をも、学術するようになってきた訳である。そう、これまでの「〜学」というような分節化や要素還元化では、決して到達不可能な領域に、今、踏み出そうとしているのだ。

 

しかし、現在の「〜学」では、まだまだ前時代的なスタイルを、そのまま敷衍したようなものが、多いような気がしている。またその中には、人間の心象が、分節化によってズタズタにされて、そして統計とアンケートの無作為な数値によって、より無残になっているものも多い。これでは、ダメだ、とても読めたものじゃない。まるで戦地の無残な屍体をそのままポートレイトしたものに、みやすけには見えてしまう。

 

だからそうではなくて、みやすけは、なるべく自分の眼から見えるありのままの風景を、可能な限り文章で、色鮮やかに描写したかった。そういうニュアンスを願い、みやすけの文章は、一つの風景であって欲しかった。 例えば、夜空に浮かぶ星を一つ見つけたとしても、それはたまたま出逢った風景です。が、そのただの星には特別な目的も意味も無い。でもそこには、分節化されているものでも、また要素還元化されているものでもなく、分析される以前の「ありのままの星」という存在がある。しかしそのようなありのままの風景でも、決して無価値なものではない。ある人にとっては、淡く想い出に残ったりもするし、また不意に、それを誰かと共有したいと思うかもしれない。

 

そんな理想があって、みやすけの文章はあります。が、ここの全てが記憶に残らなくても良い。例え全てが印象に残らなくても、これを誰に伝えたいと思えたり、またこの場所から自分に新たな考えが浮かべば、尚の事良い。ある一節でも良いから、そのような「不意の瞬間」を大切にした文章を書きたい。だから決してこの文章で、みやすけは一方的な自己主張をしたいのでも、また、自分だけのテリトリーを確保したいのでもない。流れるような風景の中で、不意な「何か」を、ある瞬間にでも残こす事が出来れば、それで良い。まさにこの部分にこそ、みやすけが文章で風景を描きたいと願う意義があります。

 

特に現代は、一方的な自己主張と強引なテリトリー争いが絶えない時代である。尚かつそのような動向は、日々ネットワーク化された情報網の中をけたたましく巡り、それらはいつでもこの目に飛び込んで来ます。またそのような諍いは、高層マンションを無作為に建てて、美しい景色の独占を競っているように見える。そこにある風景は「誰かのモノ」ではなく、すべての人々にとっての「身近な存在」であるからこそ価値がある。

 

だからみやすけは、ありのままの風景を描きたいと思った。そう、風景を分析するのでも、要素に還元するのでもない、みやすけの心に写るありのままの心象風景を。それを読者の方々と共有出来ればとても嬉しい。しかしそれは決して風景の独占ではない、その事を祈って。                                                               

                                みやすけ