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心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

すぐにキレる人は、なぜ増えたか? 〜関係性の問題から「怒り」を再考してみる〜

現代の社会では、すぐにキレる人が増えていると言われている。そして、その原因を、あるメディアの言論人によれば、キレる側にこそその全ての過失があり、それは自身の怒りを表現する言葉のボキャブラリーが貧困だからだと云う。そして巷の論壇では、まるでキレる人を揶揄するような言動も含め、キレる人を糾弾する言論がやたらに目立つ。がしかし、それは本当にキレる当人だけの過失なのだろうか。

 

俗に「怒る」というのは、怒る側だけにその領分があるのではなくて、その「怒りを受け入れてくれる存在が居て」なおかつ、そこでやり取りが生まれる事によって、初めて成立する関係性の概念だ。その場合、怒りの表現の多様さは、それだけの表現を受容出来る、相手側のキャパシティーの豊かさと比例して多くなる。怒りを表現する為の言葉を多く持つべきだと、赤の他人はそう簡単にいうが、それは、その表出を相手が受け入れる事が出来て、なおかつそれが上手い事、関係性にまで繋がってこそ、初めて活かされる訳である。つまり、怒りを受け入れる側にも、それなりの受容を可能とするキャパシティーの広さを、要求されるという事だ。つまりは仮に、怒りを表出する言葉が、どれだけ多様であろうとも、とうの相手側が、それを受け入れる事が出来なければ、それらは全く意味を成さない訳だ。

 

また「怒り」の感情は、ほとんどの場合、まったくの無から突然沸き上がる事はない。むしろ怒りという感情には、ある原因と、その元凶である相手が必ず居るのだ。ましてや、よく巷の言論人が豪語するように、キレる人の過失をあげつらったり、単純に非難するのも、言動としては簡単である。だか、この事態はそう単純な論理で、容易く片付ける事は出来ないだろう。

 

それに、自分の「怒り」を、相手が受け止めず、一方的にはぐらかされる状況を経験した人なら判るかもしれないが、自身の怒りの表明を、相手に一方的にはぐらかされたり、頑として受け入れられなかった際の憤りは、その怒りを表出する以前に比べて、比較にならない程のものになる。相手が怒り対して心を閉ざしたその瞬間、怒りの表明は徒労に終わり、空しい憤りだけが遺る事になる。そして、そうなれば最後、怒りを貯めていたその時よりかも、遥かに苦しい状況に追い込まれる事になる。そのようなやり場のない憤怒こそが、人をキレる行為に走らせるのではないか。


このように、とうの相手こそが、ありのままの怒りを頑として受け入れない限り、こちらの怒りを表現する言葉のボキャブラリーが、どれだけ多様であろうと、その意味は全く無い訳である。怒りとは、それが関係になってこそ、初めて「怒り」としての意味が生まれる。そこの所に本質的な断絶があれば、例え相手に違和感があっても、それを怒る事すらも出来ない。つまり人を最終的にキレさせるは、忍耐の無さからでも、また言葉の貧困が故という事でもない。それは根本的な関係の断絶から引き起こるものである。なので、巷の言論がそう批難するような、キレる人にこそ一方的な過失があるという見方は、見当違いなのである。それは、怒られる人の、心のキャパシティーが狭いが為に、そうせざるを得ない状況が、その一部にはあるのだ。

 

また、人が、沸き上がる怒りを、冷静にかつ柔軟に表現する事ができるのには、これまでに、なんらかの怒りの感情を、相手が受け留めてくれたという、過去の経験の有無が、大きく作用するように思う。恐らく「怒り」とは、ある過去に、その感情を受け入れて貰えたという、ある種の自己肯定感の上でこそ、成り立つのではないか。だから、すぐにキレる人というのは、恐らく、過去に自分の怒りを受け入れて貰えた体験が、希薄だったのではないか。それが故に、いわば人間不信になっているのではないか。そう思うのだ。

 

特に現代は、キレる人が多いと聞くが、そもそもキレる人の増加と共に、相手の怒りを受け入れられない人も、また同じく増えているのではないか。しかし人の怒りを受け入れるのにも、相当な忍耐と自己抑制、時には自身の過失を認める強さも必要だ。また仮に、そこに自分の犯した過失を認められない人が居たとしよう。自分は、その人に対して怒りを感じている。そしてそれを云いたい。でも、そんな人に幾ら怒りを表明しても、とうの相手は、その憤りさえも受け入れないだろう。そうなれば、謝罪も無く、反省も聞かれない。そしたらどうなるか。怒る人は、最終的にキレるしかないだろう。

 

またこれまでの話で、自分の怒りを冷静に表現できるようになる為には、まず最初に、自分の感情を相手に受け入れて貰えたという、肯定的な体験が必要であると説いた。つまり、怒るためには、まず相手に、この感情をきっと受け止めて貰えるのだという、ある種の信頼感が必要なのだ。そもそもまったく信頼感の無い相手に対しては、怒ろうともしないだろう。また、キレない怒り方を、その人が知っているかどうかは、過去に、ありのままの感情をやり取りした体験を持っているかどうかと、またそれにより自己肯定感を築けて来たのか、という事にも関わってくると思われる。このように、怒りをキレずに言えるかどうかは、まず相手との信頼関係が築けているのかという事が重要なのだ。そしてそのように言う事が、仮に出来るのだとすれば、すぐにキレる人というのは、過去の何らかの出来事をきっかけに、自己肯定感が築けず、人間不信になっている可能性がある。そこには人に対する、根本的な安心と信頼が欠落しているのだと思われるのだ。

 

このように見てみると、一見滑稽に見える「キレる」行為も、また決して、そこに簡素な動機があるのではなくて、そこにはそれ以上の、もっと深い問題がある事に気づいたのではないか。つまり「キレる」という行為は、いわば関係性の問題である。そして「キレる」という表出もまた、その原因には、当人の過去の体験が、場合によっては大いに関係しているかも知れない。だから「キレる」という行為こそは、その人の道徳感の欠如にあるのでも、また忍耐の無さにあるのだという事でも、単純には片付けられない。そこには更に深い問題が孕んでいる。


それは人との根本的な関係の問題に帰結するものである。それは道徳心を養えば解決するうんぬんでは決してない。だからキレる当人だけを、その行動だけで一方的に責めるのは、まったくの見当違いである。むしろそこには、怒りを受容すべきだった人のキャパシティーの問題や、そして、すぐにキレる人がこれまでに、ありのままの信頼関係を体験して来たのか、または出来なかったのかという事に至るまでを、総括した、一連の内実を観る必要があるのだ。しかしこのような人間の関係性の問題は、それこそ一筋の縄で、その全ての動機を手繰り寄せる事は不可能である。もし仮に、更に考えを深めたいのなら、ここに示した事も含めて、あらゆるケースを考えるべきだろうと思う。