心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

複雑多様な情報化と、流動するフラクタルな世界

 自分にとってこの世界に違和感があるなら、まず広大なその世界の仕組みを知らなければいけないと思います。では、そういう世界で、知るという事は、どういう事なのでしょうか。日々、生活し、生きているという事は、それだけの苦悩、苦悶がある筈です。しかし、その苦痛の中で、一体、この苦労は、どのように循環して、自分の元にやって来るのでしょうか。

 

 そもそも、苦労というのは、自分自身のせいにして、裡に溜め込んでしまう所に、落とし穴が潜んでいます。まず、自分自身の苦痛は、通常、この世界では、誰かの発信の元で、発生するものです。これを、単純な因果律で作用しているという風には、一方的には、見られないものですが、何らかの「苦しみ」そのものは、循環を成して、世界中を廻っているものなのです。この苦しみの循環の作用を知らないで、自分自身の裡に溜め込み、停滞させると、怒りや、憤りなどの負の作用を起こす原因の一つになります。ここでいう「怒り」とは、向き持って運動しようとしている感情を、無理矢理、停滞させ、沈殿させる事によって引き起こる生理作用なのです。

 

 では、この世界を「知る」という事は、一体どのような事を指すのでしょうか。この社会は、フラクタルな次元の上に成り立っているような気がします。その世界では、何処まで行っても複雑多様な、大小の世界があり、何処に向かっても、果てに行き着く事は出来ないように見えます。そこでは、見えて来るもの全てが、未知なる世界でしかないのです。それは、様々な、世界の事情が飛び交うマクロな次元の世界に、人間の感情のような、ミクロな次元の世界が、複雑怪奇に交錯し合う世界です。その世界では、抹消という抹消に、人間個人の主体の感情があり、中枢という中枢に、世界に起きる様々な出来事が、共に干渉し、奏で合う世界なのです。そういう世界では、一枚のフラクタル図形に存在する、たった一つの方程式を「知る」という事よりも、その空白を「感じる」という行為が正しいのかもしれません。

 

 現在の世界の中で辛いのは、このような世界の動向の中で、自分自身の立ち得る場所が、迷子の状態にあるからかもしれません。そういう中で、自分の世界は、どのように存在するのでしょうか。何処までも果ての無い抽象世界の裡で、自分の立ち位置をあやふやにしたままで、世界の中を流れ続けている「苦しみ」という作用を、何らかの理由で、停滞させ、悲しみ、傷ついている。この世界の一つの本質は、「共に流れる」という事だと思います。血管が根詰まりを起こせば、そこに梗塞が起きるように、フラクタルな世界では、必然的に、複雑きわまりない場所故に、迷子、不安定になり、自分の裡に溜まりがちな、苦しみを、いつしか、果てしない世界の流浪に、還す事を忘れてしまうのです。