心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

”ジャパン・アズ・ナンバーワン”の栄光と影 〜なぜ若者は自己肯定感が持てないのか〜 No.1

「少年よ大志を抱け」という言葉にあるように、若者というのは、壮大に夢を抱き、またそれを果たすように期待される。しかし、あらゆる世界で、己が自由に大志を抱けるには、自分の信念の安全性が保障されていなければならない。また人間は、素っ裸な姿では、自分をこの広大な世界に拓いて行く事が出来ない。自分が安心して、大志と共に羽ばたく為には、その基盤となるような他者や居場所が必要である。

 

またその際には、自分の存在感を安定して維持するために、時に自分と他者を明確に分別出来ている事も、大切な要素だ。そういう意味で、自分が確かな意志持って行動するには、他者との明確な相対化が必須になるだろう。それは、自分という存在は、生物学的な「皮膚」という境界線があって、初めて他者と自身を分別し、その上で交流が可能であるのと同じ原理だ。このように自分と他者が、皮膚という境界線を通して明確に分別できていて、かつその自己のテリトリーが、他者によって脅威に晒されない安心感が、並存して初めて、大志は抱けるのだ。

 

時に、1970年代の日本の国内情勢。当時の日本社会は、その高度な資本経済が円滑に巡り始めたのをきっかけに、戦後復興の途を辿る上での高揚感に包まれていた。それは、他の欧米列強国との明確で、ポジティブな差別化が可能だった時代だった。あの頃の物なし金なしの敗戦国という暗い空気は、この恵まれた時代の気運に流されて、それはかつての淀んだコンプックスをも、ついには勇ましく払拭するに至ったのだ。

 

このように高度経済成長期の日本には、当時の若者が存分に大志を抱くことの出来る環境が整っていた。その上昇し続ける時代の気運によって、日本国とその国民は、ついに欧米列強国と同じくその名誉を得られたという実感と、またそれ以上と讃えられた「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という輝かしい称号を得られたのだった。そしてそういう自惚れが、自分たちこそが、この日本という国を創り上げたのだという無類の誇りになった。まさに、当時の若者の自己肯定感は、この「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉に、満ち溢れているように感じる。それは、どこまでも誇り高く躍進する、終わりのない自己肯定感である。

 

しかし、朝鮮戦争や、ベトナム戦争など、経済的特需と共に日本の輝かしい時代の気運をもたらした冷戦構造の崩壊が訪れる。この後の世界では、アメリカが中東に侵攻を開始したのをひきりに、とうの日本経済では、二度のオイルショックが、それまで円滑に巡っていた市場経済に深刻なダメージを与え、その高度経済成長と謳われ軽快に疾走してきたその活力を、徐々に奪いつつあった。そして、その気運に踊らされた士気だけが、亡霊のように残留し続ける事になる。このような士気は、未だに自分の意志を、明確でポジティブに差別化が可能であると迷信されている。

 

かつての資本主義vs共産主義というように、当時の冷戦構造を形成していたのは、イデオロギー集団同士の対立という構成であった。かつてのジャパン・アズ・ナンバーワンが栄誉に成り得たのも、とうの日本の経済が、その当時のイデオロギーの優位性を推し進めていた冷戦の対立構造の空気を、そのままの形で内面化してしまったためだろう。つまり、ジャパン・アズ・ナンバーワンという栄誉も、当時の欧米列強国の圧倒的な勢力との差別化を、敗戦国というコンプレックスに淀む当時の日本国が、その国際的な立場を優位に働かせるためのシンボルだったのかもしれない。

人間の権利について 〜永久の人間の尊厳を生きるとは〜

近年、巷では「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」が、よく叫ばれている。しかし現在での、これらの言葉は、様々な思惑を浸透させた作為的なものになっている嫌いも、度々感じている。詰まる所、これらの言葉を「武器」にして、自己主張をする為のものになっているように感じるのだ。つまり単なる独善の手段にされている。これは実に危惧されるべき事ではないか。

 

「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」という、これらの語の起源には、「人間の尊厳」という概念が基軸とされている訳なのだが、この定義によれば、あらゆる人間とは天上の元において、すべて「平等」であると、かつその前提の上で「主体性」を確立し、これを「自由」に行使する権利を「個人」が持ち得るのだという、本来のニュアンスがある。

 

このように、一旦人間の存在を天上に返上し、再びこれを拝借する。この考えは人間を「神の子」とする一神教独自の思想である。神の子つまり人間とは、神から身を授けられた借り物の身でしかない。その真理からすべての人間は、神の名の下において平等であるという思想が生まれるのであるが、そのような荘厳な根幹を、現代、様々な場で叫ばれている「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」とシュプレヒコールする運動家の語気には、あまり感じられない。

 

何も、一方的に自己主張するだけが、これらの言葉の意味なのではない。また関係性を生まないシュプレヒコールは、単なる独善である。その誤った認識の上で「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」という語が叫ばれているのなら、それは歴史的な誤ちを犯している事になるだろう。なぜなら、それらの語と、それに籠められる語気こそは、過去の人間同士の凄まじい蔑み合いと抑圧の裡から、ふつふつと勃興してきた思想であるからだ。

 

これらの総称としての「権利」という発想は、そのまま「個人」という言葉のニュアンスへと受け継ぐものでもある。この「個人」という概念もまた、天上の元に保障され得る「自由」「平等」を前提とした概念である。「自由」「平等」とそれらによって保証される「個人」という発想は、「天上」から庇護されるものである。これらの前提と一緒にあって始めてそれを行使するのが、「人権」という権利なのである。

 

つまり「自由」「平等」、またそれらによって保証される「個人」から行使される人権とは、人間のオリジナルの造作なのではなく、それは人智を超える天上によって創造されたものであるとされる訳である。だからそれらは、人間の見勝手で侵してはならないのである。なぜなら人間とは、これらを管轄する「主」ではないからだ。神の被造物でしかない人間は、これらを行使する権利を与えられているだけである。またこれらの概念こそは、一神教を主体にする極めて西洋的な発想なのである。

 

これら権利の一群であるこの人権という言葉の起源は、中世ヨーロッパにおける階級制の歴史に、その所縁がある。中世ヨーロッパは、階級制が旺盛を誇っていた時代である。そこでは富を持つ者、持たざる者という人間中心的価値尺度が横行していたのだが、中世ヨーロッパの時代では、富を持ち、かつその位が高い者こそが、世界を支配する強者であった。また富を持たない貧者は、人間的な扱いさえもされない有様だった。

 

これら貴族と事実上の奴隷のように、はっきりと階級が分かれていた時代においては、このような人間中心の尺度が横行していたのだ。そしてこのような事態は必然的に、人間界にパワーバランスの乱れを起こす状況を生み出した。

 

そのような状況は、結果的にパワーのある少数の者が、独断の権力を寡占するに至るわけだが、生み出される富の偏重、それに比例するようにより強靭になって行く、少数による寡占的権力が、多数の隷従を生み出した訳だ。まさにこのような地と天を無限に分け隔てて行くような閉鎖的な矛盾の中で、「自由」「平等」「個人」またはそれらによって行使されるべく「基本的人権」は、宣言されるに至ったのだ。

 

しかし、後のフランスなどの人権宣言にみる「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」という語のその濃厚な重みは、単に闘争によって首を勝ち取ったというような對立に集約される訳ではない。そうではなく、そのような基準を遥かに超えて、むしろ一神教に由来する信仰というプリミティブによって、あらゆる根幹を震わす、気迫感を生み出している訳である。それこそ神の根源を感じさせる迫力さえも滲ませている。それらの体験が人権宣言には濃厚に凝縮されているのだ。それは、人間中心的価値観の内に澱んでいた世界の停滞を、天上から射す光によってようやく融解するに至った、歴史的な事件である。

 

むしろそういう体験は、歴史という壮大な潮流を超えた、人間の尊厳を永久に保障するであろう途を照らし導くものだ。「永久に保障されるべき人間の尊厳」という響きは、単に戦勝の末に建てられた凱旋門のようなものではない。これらの言葉は、過去の栄華を讃えるものでは、決してあり得ないのだ。むしろ人間界の支配下にあった「人間の尊厳」というものを、そうではなくて、これを天上の賜物であるとした事、またそれが故に神の被造物に過ぎない人間が、これに無闇な解釈も、また無差別な外傷を加えてはならないとした事に、その功績があるのだ。

 

それは人間中心的な世が犯した、人間の途方も無い傲慢さや周囲を省みぬ姑息な猜疑心を払拭する為のものなのだ。神を省みない人間とは、ただの欲望に忠実な獣物である。そしてそのような罪を綿々と受け継いで来たのが、中世ヨーロッパの世界だったのだ。

 

そして、その永久の尊厳の内に、「個人」が立脚している。個人とは、この永久の尊厳を単に一方的に享受されるだけではなく、その歴史的な重厚感を、今こそ体感し、それを体現し続けなければならない。なぜならば、永久の人間の尊厳は、常に天上の存在を元に、意識し続ける必要があるからだ。紙の文字に記されただけの尊厳など、ただの知識になるだけであって、それが深い体感には成り得ない。声を上げるだけの事なら誰だって出来る。問題なのは、それがいかに歴史の体験を継承し、その史実を忠実に具現化しているかという事だ。

 

それらの理想は、神の信仰の名の下に追行される。神の元に在らぬ尊厳など、全く何も無いに等しいのだ。このように、永久の人間の尊厳を理解する為には、そもそも人間を創り出したのは、人間の領域を遥かに凌駕する超越的存在である、という真理を意識する事である。だからこそ、人間が侵してはならない領域があるとなる訳である。それが神であり、神の元に保証される「平等」「自由」「個人」や、それらを約束する「基本的人権」なのである。それらは「人間が侵してはならない領域」である。よってただの人間は、それらを「行使する権利」を、与えられているだけである。それを被造物である人間は意識し続けなければならない。何故なら、神の眼に晒されない人間とは、リードの無い猛犬と同じ存在だからだ。

 

しかし人間存在の永遠の真理である神の姿は、我々の人智では、決して見る事も触れる事も出来ない。しかし神とはあるものではなく、常に傍に居るものである。だからこそ、常に意識し続ける必要がある訳だ。神は常にこの片隅に居る、だからこそ自戒や畏怖の念が生まれ、猛威を振るおうとする欲望を抑制しようとする訳である。

 

また、見えない遥か遠い存在は、絶えず自身の心の中に居るものだ。まるで逆説的に見えるこのような真実が、むしろ神と人間に交感を生み出すのだ。そう、絶対的で超越的な存在とそれを映す心との交感を。そのような「永久の人間の尊厳」の持つ、うっとりとするような重厚感こそは、人間に純粋な自主性を育ませるだろう。また全知全能なる神に庇護されているという安心感から生じる自信により、人間の核を成す個人がより輝くのだ。しかしそれは、決して過信ではない。

 

それは、永遠に繰り返される歴史を、「主体的」に生きるという事だ。その永遠こそ、神の名の元にある。そしてその視座に畏怖し超越的絶対者を信仰するその心こそが、神の御心なのである。そしてその延長に、「人間の尊厳」は果てしない歴史の潮流と永久に交差し合っている。よってその永遠の流れを汲む「人間の尊厳」というのは、決して紙の上の条約で証印されて、機械的に承認されるものではあり得ない。それは、永久の尊厳を、被造物である人間に賜って下さった神の存在を意識する事によって、個人が自主性を確立し、その天上の導きの下に、主体性を行使するという事なのだ。

 

すべての人間の尊厳は、天上により保障されている。それは他者の行使するあらゆる力や独占によって冒される事はあり得ない。なぜなら「尊厳」という天上の賜物は、人智を遥かに凌駕しているからだ。しかしそれによって意図的に穢され、ある少数の手の内に収める不正を不可能にさせているのだ。

 

このような超越的絶対者を瀆す資格など、人間には持ち合わせていない。だからこそ、すべての人間は、その「尊厳」によって庇護されるのだ。そう、誰にも穢され得ない大きな腕に包まれ、すべての存在が護られている。このような全知全能の絶対者による守護、それこそは、神の寵愛である。

 

このような歴史的な流れに琢磨されてきた、重厚でうっとりするような根幹を意識した上で、現代でも「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」の持つ、このような壮大な歴史を敷衍するニュアンスを、どうか大切にして、現実の社会運動に繋げてほしいと思う。

子供に寄り添う教育的カリキュラムとはなんだろう 〜「教育」の意義を考えてみる〜 

現代の公的教育というのは「知識」や「社会的規範」それに「基礎体力」というように、社会生活を送る上での基礎力を育成する上で組み立てられたカリキュラムで、その中でも学校教育という制度は、社会的人間性の育成を目的としているものである。

 

仮に、社会適応能力の基本を育成する機関としての公教育機関なのだとしても、その子供が将来、社会に適応する方法は、様々な仕方があると思われる。また子供によっては、新卒一括採用の関門をくぐり抜けず、なんらかのルートを通じて、就職の斡旋を受けるかもしれない。このように子供によって社会への接点は、如何様にもその仕方があるのにも関わらず、学校教育で教えられるのは、算術の方法、文章の読解、芸術的感性や基礎的な身体を育成するというものでしかない。しかしこれでは、社会的人間性の教育といった観点から見た際には、このようなカリキュラムは、とても大雑把であると謂えるだろう。

 

例えば、算術や芸術的感性といっても、そもそもその分野の歴史的な含蓄やその哲学の部分を教える訳でもない。学校カリキュラムで履行されているのは、そのようなものではなくて、単純な技術論である。しかし、このような技術が、現実の社会に適応する際に、適切に応用されているかといえば、ほとんどの子供の将来には、そのような関係を見出しているとは、到底言えないだろう。ほとんどの子供にとって、このような技術論とはテストの点数を稼ぐ為の方法にしか過ぎないと思われる。

 

このように学校で勉強する意義を見失いつつある子供の、このような大雑把であるカリキュラムに対しての慧眼は、至極もっともであると思われる。そもそも、学校教育の場で行われているこのような教育カリキュラムは、社会人に成るに至るまでの長いスパンで見れば、いささか無駄の多いものである。子供によって、社会との接点を持つに至るケースが多様なら、より、現行の教育カリキュラムを、その子供のビジョンに沿って、その意向に適えるように、多様に改変する必要性があるだろう。

 

しかし、集団的にも、教育される内容的にも一元的な公教育機関で、学ばれる社会適応能力とは、一体どの方角に向けての能力なのだろう。様々な社会適応の仕方がある中で、結果的に、どのように社会に適応して行くのだろうというのは、現行の学校の場で学ばれる教育というのものでは、具体的なビジョンが見えないのだ。

 

よく考えてみれば教育という語には抽象的なニュアンスが幾つも林立している。またその解釈によっては、集団によってもまた個人的志向によっても、様々な教育のスタイルがあり得る。その子供が、将来、どのように社会へ適応して行くのかは、それぞれの感性に従うはずである。そのような多様なビジョンに敵うものとしての学校教育があるのなら、現行制度のカリキュラムのに使用されている「教育」という語に含意している意義は、少々抽象的に思われる。つまり、教育的カリキュラムとは、どのような将来へのビジョンに関してのものなのか、またその子供の将来に対して教育的カリキュラムが意義を持ち得るとすれば、一体どのような形式が妥当なのかという事なのだ。そのような議論によれば、1クラス40人のような画一的な教育体制に固執する必要もないとも考えられる。

 

それに「教育」というそもそもの意義は、国政の政党や、全国の自治体よっても、また個人によっても、大きく違ってくるだろう。そして実際的には、独自の教育カリキュラムを履行している教育機関も多数存在しているようだ。では、このような多様な「教育」の意義が溢れる中で、当の子供たちは、一体何を履行すれば教育を修了した事になるのだろう。

 

このように「教育」という語に込められる意義が、如何様にも解釈が可能であるという事からも、「教育」の持ち得る多様な解釈を、丁寧にカテゴライズする必要があると思われる。そしてそれらは、その総てを国政の管轄にする必要もないだろう。特に法的に教育カリキュラムを制定するのなら、子供の尊厳を維持する事を前提にするように定言した上で、あらゆる教育的価値を肯定出来るような抽象的な法文に改訂する事も可能だろう。それこそ「子供の権利条約」や「児童憲章」こそが、この時にこそ、その効力を発揮できるのではないか。

 

幾ら社会が多様であるからといっても、その社会で生きて行くには、そこに適った社会適応能力が必要である。では、大勢の多種多様な感性を持つ子供にとって、現在の一元化された学校教育とは、一体どのような意義があるだろう。そういう意味で、フリースクールなどの取り組みは、学校教育にのみ一元化された教育の濃度を、あらゆる可能性を秘めた新たな教育機関へと還元する役割があるのだと思われる。おそらく、フリースクールとは、多種多様な子供の感性に適ったある仕方を提供し、その趣旨に賛同した子供が、自分のペースで自主的に社会適応能力を身につけて行く場としての意義があるのだと思う。今必要なのは、多様に解釈可能である教育的イメージを整理し、将来的ビジョンの持つ子供に向けて多様に学べる場を創造する事である。

すぐにキレる人は、なぜ増えたか? 〜関係性の問題から「怒り」を再考してみる〜

現代の社会では、すぐにキレる人が増えていると言われている。そして、その原因を、あるメディアの言論人によれば、キレる側にこそその全ての過失があり、それは自身の怒りを表現する言葉のボキャブラリーが貧困だからだと云う。そして巷の論壇では、まるでキレる人を揶揄するような言動も含め、キレる人を糾弾する言論がやたらに目立つ。がしかし、それは本当にキレる当人だけの過失なのだろうか。

 

俗に「怒る」というのは、怒る側だけにその領分があるのではなくて、その「怒りを受け入れてくれる存在が居て」なおかつ、そこでやり取りが生まれる事によって、初めて成立する関係性の概念だ。その場合、怒りの表現の多様さは、それだけの表現を受容出来る、相手側のキャパシティーの豊かさと比例して多くなる。怒りを表現する為の言葉を多く持つべきだと、赤の他人はそう簡単にいうが、それは、その表出を相手が受け入れる事が出来て、なおかつそれが上手い事、関係性にまで繋がってこそ、初めて活かされる訳である。つまり、怒りを受け入れる側にも、それなりの受容を可能とするキャパシティーの広さを、要求されるという事だ。つまりは仮に、怒りを表出する言葉が、どれだけ多様であろうとも、とうの相手側が、それを受け入れる事が出来なければ、それらは全く意味を成さない訳だ。

 

また「怒り」の感情は、ほとんどの場合、まったくの無から突然沸き上がる事はない。むしろ怒りという感情には、ある原因と、その元凶である相手が必ず居るのだ。ましてや、よく巷の言論人が豪語するように、キレる人の過失をあげつらったり、単純に非難するのも、言動としては簡単である。だか、この事態はそう単純な論理で、容易く片付ける事は出来ないだろう。

 

それに、自分の「怒り」を、相手が受け止めず、一方的にはぐらかされる状況を経験した人なら判るかもしれないが、自身の怒りの表明を、相手に一方的にはぐらかされたり、頑として受け入れられなかった際の憤りは、その怒りを表出する以前に比べて、比較にならない程のものになる。相手が怒り対して心を閉ざしたその瞬間、怒りの表明は徒労に終わり、空しい憤りだけが遺る事になる。そして、そうなれば最後、怒りを貯めていたその時よりかも、遥かに苦しい状況に追い込まれる事になる。そのようなやり場のない憤怒こそが、人をキレる行為に走らせるのではないか。


このように、とうの相手こそが、ありのままの怒りを頑として受け入れない限り、こちらの怒りを表現する言葉のボキャブラリーが、どれだけ多様であろうと、その意味は全く無い訳である。怒りとは、それが関係になってこそ、初めて「怒り」としての意味が生まれる。そこの所に本質的な断絶があれば、例え相手に違和感があっても、それを怒る事すらも出来ない。つまり人を最終的にキレさせるは、忍耐の無さからでも、また言葉の貧困が故という事でもない。それは根本的な関係の断絶から引き起こるものである。なので、巷の言論がそう批難するような、キレる人にこそ一方的な過失があるという見方は、見当違いなのである。それは、怒られる人の、心のキャパシティーが狭いが為に、そうせざるを得ない状況が、その一部にはあるのだ。

 

また、人が、沸き上がる怒りを、冷静にかつ柔軟に表現する事ができるのには、これまでに、なんらかの怒りの感情を、相手が受け留めてくれたという、過去の経験の有無が、大きく作用するように思う。恐らく「怒り」とは、ある過去に、その感情を受け入れて貰えたという、ある種の自己肯定感の上でこそ、成り立つのではないか。だから、すぐにキレる人というのは、恐らく、過去に自分の怒りを受け入れて貰えた体験が、希薄だったのではないか。それが故に、いわば人間不信になっているのではないか。そう思うのだ。

 

特に現代は、キレる人が多いと聞くが、そもそもキレる人の増加と共に、相手の怒りを受け入れられない人も、また同じく増えているのではないか。しかし人の怒りを受け入れるのにも、相当な忍耐と自己抑制、時には自身の過失を認める強さも必要だ。また仮に、そこに自分の犯した過失を認められない人が居たとしよう。自分は、その人に対して怒りを感じている。そしてそれを云いたい。でも、そんな人に幾ら怒りを表明しても、とうの相手は、その憤りさえも受け入れないだろう。そうなれば、謝罪も無く、反省も聞かれない。そしたらどうなるか。怒る人は、最終的にキレるしかないだろう。

 

またこれまでの話で、自分の怒りを冷静に表現できるようになる為には、まず最初に、自分の感情を相手に受け入れて貰えたという、肯定的な体験が必要であると説いた。つまり、怒るためには、まず相手に、この感情をきっと受け止めて貰えるのだという、ある種の信頼感が必要なのだ。そもそもまったく信頼感の無い相手に対しては、怒ろうともしないだろう。また、キレない怒り方を、その人が知っているかどうかは、過去に、ありのままの感情をやり取りした体験を持っているかどうかと、またそれにより自己肯定感を築けて来たのか、という事にも関わってくると思われる。このように、怒りをキレずに言えるかどうかは、まず相手との信頼関係が築けているのかという事が重要なのだ。そしてそのように言う事が、仮に出来るのだとすれば、すぐにキレる人というのは、過去の何らかの出来事をきっかけに、自己肯定感が築けず、人間不信になっている可能性がある。そこには人に対する、根本的な安心と信頼が欠落しているのだと思われるのだ。

 

このように見てみると、一見滑稽に見える「キレる」行為も、また決して、そこに簡素な動機があるのではなくて、そこにはそれ以上の、もっと深い問題がある事に気づいたのではないか。つまり「キレる」という行為は、いわば関係性の問題である。そして「キレる」という表出もまた、その原因には、当人の過去の体験が、場合によっては大いに関係しているかも知れない。だから「キレる」という行為こそは、その人の道徳感の欠如にあるのでも、また忍耐の無さにあるのだという事でも、単純には片付けられない。そこには更に深い問題が孕んでいる。


それは人との根本的な関係の問題に帰結するものである。それは道徳心を養えば解決するうんぬんでは決してない。だからキレる当人だけを、その行動だけで一方的に責めるのは、まったくの見当違いである。むしろそこには、怒りを受容すべきだった人のキャパシティーの問題や、そして、すぐにキレる人がこれまでに、ありのままの信頼関係を体験して来たのか、または出来なかったのかという事に至るまでを、総括した、一連の内実を観る必要があるのだ。しかしこのような人間の関係性の問題は、それこそ一筋の縄で、その全ての動機を手繰り寄せる事は不可能である。もし仮に、更に考えを深めたいのなら、ここに示した事も含めて、あらゆるケースを考えるべきだろうと思う。

憲法9条を持つ意義とはなんだろう 〜集団的自衛権と戦闘参加〜

過去の自衛隊については多くの議論がある。その自衛隊についても、過去から現在にかけてそれは善くも悪くも国際社会に貢献してきただろうと思う。現に、9.11同時多発テロ事件を受けて当時のアメリカが報復措置としてアフガニスタンへ侵攻した時、アメリカ軍の後方支援として、その中継ポイントとなるインド洋へ自衛隊による給油派遣を行なった。そしてこれに関して二年間の期限のテロ特措法を適応させた当時の日本政府に対して、間接的な戦争参加だとの批判が一部の官民から挙がり、多くの議論を巻き起こした。そして今、集団的自衛権ついての政府内の議論が起こる事によって、日本の戦争の参加、非参加の是非を問う議論が、国内で盛んに行われている。しかし我が国が、現段階で直接戦闘にこそ参加していない状況があれども、戦闘地域の難民支援などに関わる現在の日本のポジションを考慮すると、それは直接的、間接的な場合も含め、結果的に大域的な戦争に巻き込まれて行くケースが自ずと目立つようになるだろう。それは、単なる戦闘の参加、非参加を表明するのみに終始する訳では無いのだ。またこれからの日本の戦争に対するポジショニングは、ODAなどの戦闘地域への経済支援を政策の一部に掲げているから、これは純粋な平和的関与なのだと表明する事だけでは成り立たないだろう。現在、繰り広げられている中東の問題に関するヨルダンの戦闘地域への難民経済支援が、結果的にIS(Islamic State)への挑発になり、日本人二人の命が惨殺されたように、どのような日本政府のポジショニングも、場合によっては確実に戦闘への直接的な関与を認めざるを得ない状況にある。

 
 
そのような過去の事例を見つめ直しつつ、今回の集団的自衛権についての議論を進めたい所だ。日本国のポジションについては、決して自国の論理で自己完結出来るように、世界情勢から甘受される訳では無い中で、平和的関与といっても異なるポジションの国からは、その良し悪しが如何様にも取られてしまう現代の複雑な戦争の構造も、特に意識にしなければならないだろう。戦争に加担するという事は、平和的関与、直接的関与という純然なる二元論がある訳では無い。日本が戦闘地域に何らかのアクションを起こしたその瞬間にも、日本国の厳然なるポジションが国外からも痛烈に眼差されるだろう。この時、日本国は様々な国から、平和的関与、直接的関与を問わず、アクションの結果としての善悪のレッテルを貼られる事だろう。それは、戦争に関して一元的なスタンスを貫く事が不可能であるという事だ。あらゆる戦況下にある地域にとって、日本国のスタンスが一元化される事は不可能であるのは、集団的自衛権についても、同じ様に扱う必要があると思われる。今繰り広げられているデモや、その趣旨では、戦争への猜疑心を育てる契機にはなりはするだろうが、戦争へ参加するとはどういう事であるのか、また必然的に国際世論に巻き込まれる中で、限り無く逡巡を迫られる相対的なグローバルな視点を、どのように保持可能かという事を議論するのは、不可能であろう。
 
 
しかし、平和憲法を保持し、またそれの扱いの次第では、日本のポジションを一義的に主張する事もまた不可能ではないだろう。ならば現状の日本のスタンスを明確にしつつ、平和憲法を軸に政略を起こす事も可能だろう。それは、平和憲法を死守する事だけに躍起になるのではない。そのような紙の上のみの平和を護る事では決して無く、平和憲法を主張した時の国際世論の動向を見据える事を可能にする為の足掛かりとしての、平和憲法の在り方の議論を展開する必要があるだろう。更にいえば、平和憲法があるだけだからこそ、その国際的な評価を受けるのではない事も忘れてはならない。しかしこれから起ころうとしている事は、新たな大日本帝国の戦争の発動などではなく、集団的自衛権が執行されて、これから日本国の視るべき方角が変化するという事である。過去の第二次世界大戦で、実質的な戦争は終わたという人も居ると思う。しかしそれは違うだろう。まさに今、戦争は様々な利害を生み出しながら、繰り広げられている有り様だ。ただ日本国のみが持つ平和憲法という国際的にも希有な存在が、結果的に現実の戦争に対して他所事のように扱うのなら、このような平和憲法など、有っても無いのと同じだろう。大切なのは、平和憲法を固持(誇示)する事ではなく、実際それで国際世論の動乱に対して、どのような表明を維持可能であるのかという事だろう。つまり平和憲法は、偶像では無く、様々な手段であるべきだ。
 
 
集団的自衛権によって、実際に兵士と化した自衛隊員が銃を持ち、敵と交戦するかもしれない。確かにその可能性はあるし、それは在ってはならないと思う。戦争の当事者になる事と、それの客観的立場に居る事は大きな違いがあるだろう。あくまでも、日本国のポジショニングとては、最小限の平和的関与にのみ主眼を置くべきだと思われる。しかし、その際に日本が保持する平和憲法についての厳格なポジションを明瞭にする必要がある。そしてそれに加えて、様々な戦況へのある特定の関与におけるケースバイケースな想定を加味した議論を、国内だけでなく、国際世論に向けても発信して行く事が、また必要だと思われる。また平和的関与という名目でも、それが中立的ポジションでも、客観的ポジションでも無く、あらゆる関与も間接的な戦争に関係しているという自覚を持つ事も必要だろう。戦闘地域への平和的な経済支援というのは、そのような意義があるのだ。
 
 
またその上で、平和憲法を書いた紙を翳すだけでは、国際世論の同調を得る事も、また現実の戦争に歯止めをかけられる訳でもない。現状の護憲派は、この平和憲法をまるで、水戸黄門の印籠のように翳したいだけのように見える。この印籠こそは、それが通用する範囲においてのみ効能が期待されるのであって、とうの世界がこの日本的スタンダードを共有しているのだと思うのは、全くの間違いだろう。日本国内で通用する慣例が、そのまま全面的に国際的にも応用が効くとは、全く言い切れない。果たして、現状の護憲派シュプレヒコールのように、平和的な憲法を持つ唯一の国として出来る事が、まさに今、戦火の燃える世界に向けて、このように印籠を翳し回る事なのだろうか。
 
 

文化の純粋なオリジナリティは成立するか

その民族のオリジナリティは、他民族からその文化を輸入したものが多く存在する。例えば、日本の文化には、宗教的にはインド仏教学や儒教などの中国思想のような、他文化のオリジナルが多分に影響されて形成されているのが見られる。文化の形成には、他文化からの文化の輸入が必須である。そこで、例えば日本文化の純粋なオリジナリティを考えた時に、このような、多くの異文化のオリジナリティに影響されたその中から、それのみを抽出する事は、一見不可能のように思われる。日本の文化のピュアな部分を抽出する為には、他文化の影響を取り除く作業が必要だが、他文化の構造そのものは、日本の文化の構造の骨格を形成する一部分なので、その部位を取り除く作業は、場合によっては、日本文化そのものの存在の否定に繋がる状況にもなりかねない。

 
 
しかし、日本民族という、確かな指標があるかぎりでは、そのようなある文化そのものの特性は、確かに存在するのであって、ここまで多様な文化が併存しているのは、単純な文化の輸入という反応があるだけではなくて、そこには或るその文化を形成する上でのアイデンティティが、存在するのだろうと推測出来る。もちろん、ここで発生し得る民族性の本質についての議論のポジションを流入する必要があるだろうが、ここで議論したいのは、そのような実態論ではなく、例えば日本国として広く人々に認知されているような、抽象論的な事である。つまり、この話の筋として意識すべきなのは、幅の広い事を含意している抽象的名詞に還元されるべき民族像を示す事であって、それか決して実態論ではなく、例えそれらがどのような形であれ、広く共有されている概念としての抽象論的な民族像に立脚しているという事である。例え日本的民族というのが実態的には幻想だとしても、西洋的、日本的と形容可能な抽象論的な生態は、表現し得るだろう。
 
 
それに民族的アイデンティティとは、個人に還元されるべき個体論ではありえない。何故なら、その自己民族意識は、生まれ出たその瞬間から、周囲からインプットされる環境的作用が大きく依存するからだ。例えば、生まれた瞬間にアメリカ人の親と接したのか、また日本人の親と接したのかでは、その子のその後のアイデンティティの生育に大きな影響が出るだろう。そのような瞬間的な影響も含め、その触れ合いが長期的なスパンになればなる程、その染色の度合いが高まるだろう。それは、しっかりと日本的作法が身についた折から、後になって、アメリカ人へのネイティブな同化を実現す事は、ほぼ不可能であるのと同じ作用である。
 
 
この民族的アイデンティティが、他文化の構造を受け入れる上で、或る一定の仕方で作用しているのであれば、このアイデンティティを探るには、文化の構造の骨格を取り除く作業では、まるで解明されないであろうと思う。では民族の文化のその根底に広がるアイデンティティを見出す為には、どのようなアプローチが存在するのだろう。
 
 
一般的な考えでは、ある文化の形成には、他文化の影響の下にある事が力説される事が多い。例えば、或る対象と対象が比較可能であるとは、その比較する対象同士の共通部分が存在する事が前提とされる。この文化の共通項という概念は、文化そのものを構造化されたものにしてしまうが、この構造こそは、異文化の運動を表現する方程式を記述する方法であって、肉質的な部位を具現化する文化的なアイデンティティを見出す所までには、遠く及ばないのではないか。仮に、文化的な構造の他に、文化的なアイデンティティが、有るのだとすれば、それは、比較文化学が了解しているようなイーブンな関係の構造を探る事だけでは、到底語り尽くせないだろう。
 
 
では、イーブンで結ばれる文化的関係の他には、如何なる方法が存在するだろうか。それは、異文化の本質を差分する事であると謂えるだろう。差分される本質とは、その文化の変遷である。例えばある文化は、他文化に輸出される事で、その輸出元の文化のオリジナリティが、その輸入先の文化の形式にシェイプアップされるだろう。文化のオリジナリティが、このような変遷にこそあるのだとすれば、この作用の結果と、文化的オリジナルとの変分こそが、その民族の持つ文化的アイデンティティなのではないか。つまり文化的アイデンティティとは、比較可能である構造との類似にあるのではなく、構造が変遷するその過程にこそ存在する事が可能であるのだ。
 

貧困問題の問題について 〜所得格差是正によって、本当に貧困は無くなるのか〜

ここ最近、いつの間にか、「貧困」と「貧乏」のニュアンスが、ごっちゃに使用されてしまっている感じがする。みやすけが思うに、単に所得の高低差だけで、貧困問題を語るのは、とても危険な事だと思う。例え、貧乏でも自己肯定感や、居場所がある人も居るし、お金が有っても孤独な人も、またお金も人間関係も無い本当の意味での貧困状態の人も居る。思うのは、支援の手というのは、「貧乏な人」という一括で定義される人達にのみ向けるのではなく、文字通り貧乏で苦悩している人や、また例えお金持ちでも孤独な人に対して向けられるべきではないか。単にお金が無い「貧乏(モノが無い)状態」と、結果、それでお金も人間関係も無い「貧困(貧しくて困っている)状態」なのかというのは、微妙だが、そこにはうんと大きな違いがあるんだと思う。それは、文字通りこの二つに言葉には「貧乏(モノが無い)」という「状態」を表しているのと「貧困(貧しくて困っている)」という「その状態に困っている」という具体的な人間の感情が付加されているかという決定的な違いが見受けられるからだ。

 

この「貧乏」と「貧困」の持つ互いの微妙なニュアンスの違いを考える事は、それがお金を持って「居る」のか「居ない」のかという単純な二元論で、思考が終始してしまう恐れを回避する役割がある。それは、あらゆる人がその人生で起こり得る様々な可能性を探り、かつその時々の状況が、各々の当事者にとってそれが「苦境」なのか、また「さほどそうでもない」のかという、感情の面をプラスしたより人間味のある深い洞察を可能にさせるのだ。

 

例えばアフリカの貧困問題でも、果たして彼らは、ただお金が欲しいと訴えているのだろうか。それに彼らのような貧困層が、資本主義の論理を内面化したいと欲し、バリバリの富裕層になりたいと思うのだろうか。このような疑問を考える内に、彼らの抱える貧困問題と先進国が推進する解決策との根本的な合点は、その線引きを怪しくさせるのだ。そもそも現在の貧困問題の取り組みとは、OECDが定めた貧困ラインのような数値上の偏差に一喜一憂する先進国側の一方的な慈善事業なのか、またそれは実際の貧困層の現実の苦渋を根拠にされているものなのだろうか。

 

自分たちの生活が豊かだから、モノを持たない彼らは貧困なのだ、というのはモノを持つ側の幻想でしかない。実際、モノを持たない彼らが深刻なのは、パソコンを持っていない事では無く、「お金が無ければ」食料さえも得られないような飢餓状態に、モノを持つ側が、持ち前の論理で巻き込んだ事にある。モノを持たない事が決して罪なのではない。そもそもモノを持つ側が、彼らの自立性を奪い、こちら側の論理でしか彼らを生きられなくした事が第一の原因なのだ。つまり、アフリカのような地域の抱える貧困問題の解決は、お金さえ持てば解決するというような、モノを持つ側の論理によって解決されはしないだろう。彼らに取って解決とは、彼らの元から持っていた自立性を復活させるか、それに付随する形で暮らしを再構成するしかないと思う。

 

なので「所得を平等します。はいこれで問題解決です」みたいな事を、OECDのような機関がいくら宣言しても、それが決して決定的な解決策ではあり得ないのだ。アフリカのような地域での貧困問題の問題とは、モノを持つ側の論理を自問しない事にあるのだから。また、別の問題でも、実際、当事者は喘ぐ「貧困」から脱したいのか、また「貧乏」でもそれなりに満足なのかという「感情」の部分を問わなければならない場合もあるだろう。しかしそのような感情の部分は、この機関が発表するような貧困ラインを示す数値には一切反映されてはいないのだ。

 

貧困問題には、このようなもう一つの面もあり、それを解消したいのなら、この「困っている」か「困っていない」のかという状況を出来るだけ区別する必要があるだろう。リアルに支援が必要なのは、あくまでも困っている状況の人に対してなのだから。

 

ましては、所得水準の平等化によって、このような社会問題は単純に解決されるのではないと思う。例えば、男女の所得格差についてだ。昨今の日本では、女性の社会進出の為の支援策が取られる事が多いが、果たして所得さえ平等にすれば、単純にこの問題は解決されるのだろうか。ましてや、今まで、この国では、男女の役割の分離が勧められてきた。そのような分離されてきた役割が、現在でも厳然と存在している中で、果たして、お金を持って居るのか、居ないのかというような単純な図式で、このような男女にまつわる問題の根幹は視えるのだろうか。それは違うだろう。むしろお金の分配の問題だけではなく、男女の役割を分離化されたが故に発生した、双方の「責任」の比重の問題を、別に表面化させなければならないのだ。

 

なぜなら男女の役割はただそこに在るのではなく、生活を営む上で、男女双方に、それに付随する何らかの責任が生じるからだ。しかし、この双方が負う責任による苦渋というのは、実は、お金を持っているか持っていないかでは、一概に定まる訳ではない。あくまでも稼いで居るか居ないかは、数多の行程をこなして営まれる生活を現す「要素」のたった一つの基準でしかない。稼ぐ事も生活する上では、必然だが、しかしそれだけで生活が営まれている訳でも、もちろん無い。たくさん有る生活する上での行程には、男女が司るそれぞれの責任があるのだから。このような現実を考慮した上で、所得水準の平等の具合と、男女が互いに担う責任の分散とのグラフが比例して改善しなければ、所得水準だけをフォーカスしたような政策は、男女双方が負う責任の所在を、双方の感情的な部分で混乱させる事になるだろう。

 

従って、所得水準だけを指数にした問題議論は、不毛なのだ。所得さえ増えれば、社会問題が解決するというのは、それこそ短絡的思考なのだ。特に、生活を共同で行う際には、必ずその役割に対する「責任」が発生するのだから。そこの部分にも切り込む必要があるのだ。

 

では特に、日本の現代社会での貧困問題の問題とはなんなのだろう。それはそのような責任の偏りが強固に温存されたまま、所得水準だけを平等にしようと無理に圧迫するから、その結果、淀んだ責任だけが男女双方に肥大化しているという、このような事態が問題なんだと思う。所得水準の平等化、つまり「稼ぐ」行いにしか問題解決の糸口を視ないのは、「稼ぐ方の責任」と「家を守る方の責任」を担う役割を流動化させるのでは無く、両者の受け持つ責任の偏りを温存したまま「互いの責任」を何重にも背負う事態を引き起こしているのだ。

 

このような構造では、男性は自分の責任を背負ったまま女性の持つ責任を更に担わなければならず、女性も男性の担う責任も含め自分の持つ責任さえも二重に背負わなければならない。この問題の構造の核心は単純化された所得水準対策のみの貧困問題の中にあるのではない。貧困を所得水準のみで強引に解決しようとした、このような副作用の方にこそ、貧困問題の問題の根本があるのだ。

 

お金が有るのか無いのか、一見、これらは単純な比較だけど、確かにそれによって引き起こされる悲劇がある事も、重々知っている。解決すべきなのは、お金が単純に無い事ではなく、あくまでもそれに関連するであろう悲劇の方なのだ。「お金が無い=悲劇に繋がる」という、一見正論のように視えるこのような公式も、実は単純に成り立つ訳ではない。しかしとある苦境が、もしお金で解決するのなら、そういう支援も有効だろう。飢えている人を救う最善の手段は、まず自分の食べ物を分け与える事だ。またその総ての支援事業を良し悪しで振り分けられるのだと意気込む程、この話も単純にはしたくない。

 

でも、お金をどれだけ稼いでいるのかという指標のみで、貧困問題を解決しようとしているOECDの試みには、その総てに賛同は出来そうにない。お金が有るから自由になれるのか、平和になれるのか、そんな事は全く有り得ない。それは先進国側の偉い人が十分に知っている筈だ。でも確かにエアコンやパソコンが有った方が、みやすけ自身の気持ちを云えば、その方が断然気持ちが良いに決まっている。しかしエアコンやパソコンを持っていない人が、圧倒的に多いであろう世界の実情を考えると、それが当たり前の感性だとは微塵にも思わない。むしろ、みやすけのような部屋の環境の方が、あちらから観れば、たかが少数派なのだから。

 

社会の実情は、数字で決まる訳ではない。数値とは、あくまでも状況を計る一つの指標である。だから短絡的に、それが人間の暮らしを現す絶対的な基準には成り得ないのだ。大切なのは、そういう数値が算出された後の処理の仕方である。男女の所得に格差が実際的に有るからといって、それが男女の生活の苦楽を現した事には、決して成らない。いくら高給取りでも、現実の生活面で、多重の責任を負っていれば、相対的にもその人の幸福度は下がるだろう。実際、それを証明するかのように、最近の男女別の幸福度調査では、女性の方が上回っている傾向が示された。このように人の生活の苦楽は、お金の有無では、一概には言えないのだ。

 

貧困問題でも、一体何が彼らにとって貧困の解消なのかという根本の部分は、無視されているような気がする。国際機関が定める貧困ラインのように、数値のみの解決では、決して前に書いたような「責任」の問題は、解消されないだろう。ましてや、アフリカなどの地域が抱えている貧困問題解消など、このような対策では、以ての外であろう。最後に結論を言うと、「数値の改善=人の幸福」とは一概に成らないように、「貧困」もそう単純な問題ではないのだ。