心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

現代の政治で国民は平等になれるのか? 〜「地域スケール」と「政治的ビジョン」から見た対立という構造〜

最近のマジョリティとマイノリティで問題に感じるのは、地域性と政治性の両テリトリーが占めるフィールドをごちゃ混ぜにしてる所ではないかと、みやすけは思っている。人間が、ある地域に包括される事と、ある権力者が一国を統治する事は微妙に違う。それを解りやすく言えば、全く面識もその得体も知れない他人が隣に住んでる事を受け入れられている事と、またその住民が権力掌握してガナって来るのとはまたその時の対応は違うだろう。地域というコミュニティーが大まかに「和」を基調としているテリトリーであるのなら、政治というフィールドとは、いわばもっと緊密にコミットした形式を基調としたグループであろうと言えないだろうか。

 

そして更にこれを一般に昇華した話にすれば、マジョリティとマイノリティがお互いの差を認め合って共存可能にする為には、制度という骨組みを改革する為に、政治的ビジョンに深くコミットする事も必要だ。が、しかしそれ以上に地域性の問題をも同時にピックアップする必要がある筈である。

 

何故なら、政治的にしてもそれが広く社会的であろうとも、人間の住む「地域」という場所が無ければ、先ほど書いたようなどのようなフィールドも、その存立は不可能であるからだ。でも、それが社会的にマクロなスケールに拡張され、その際にどうのこうのとなっても、必ずやそこにパワーバランスは発生する。また仮に、それが政治が管轄するフィールドともなれば、そういうパワーバランスがよりトランスな形で社会的構造を構成していたりもする訳である。

 

それにマイノリティの運動というのが、果たして、地域のご近所さんの世間話に参加したいなというレベルのものなのか、はたまた社会的な全承認の上で、政治的な場で統治機構にコミットしたいのかを、丁寧に分けて考えなければならないだろう。特に、みやすけが今まで閲覧してきた大抵の文献では、このような地域スケールと政治的ビジョンが混在し、ついには両者のテリトリーが混同されて書かれていたものが多かったように感じていた。がしかし決して、議論の中に地域スケールと政治的ビジョンがある事に違和感があるのではない。要は、その二つのテリトリーが丁寧に扱われていなくて、それらが漫然と使用されているという事に、この疑問の核心はある。つまり、地域スケールの現実性と政治的ビジョンの理想像が、悪いように作用し合っているように見られるという事こそが、みやすけの問題提起なのだ。

 

しかし、確かに地域スケールと政治的ビジョンが語られること自体には、もちろん現実性はある。だが、せっかくの地域スケールの現実感が、あやふやな政治的ビジョンでぼやけてしまい、その結果、宙に浮いた理想論的なイメージが先行してしまっているという、その事に問題があると見たのだ。そしてその視点は、もちろんその逆も然りである。つまり、二つのスケールが林立するという所までは良いのだが、しかし時として互いのミスマッチな部分が、互いの良い意味で語られている現実感を、結果的に、地に足の着かない理想論的なベースにまで矮小化させ合っているのだ。

 

それとマイノリティとマジョリティというのが、基本的にパワーバランス上の相互作用というフレーズで社会的にシェアされてる語である限り、存在の相互理解を理想形とするインターカルチュラリズム(※)で幾ら取り繕うとも、その本義からは逸れるだろう。ましてや現代の統治機構そのものが、対立と闘争で成り立っているものである限り、支配被支配のようなパワーゲームは大小様々な分野で残り続けるだろう。

 

そのようなパワー構造が暗黙の裡に広くシェアされているのであれば、地域性がどれだけ豊かになろうとも、そのまま個人の政治的寛容さにフィードバックされる訳でもない。そう、地域で安心して平凡なる暮らしが立てられていても、現実性のある政治感覚、いうなれば、そこに政治的ビジョンが反映されている訳では無いというように。むしろ一般の政治感覚とは、時折、放映される選挙特番のような「年に一度のお祭り」のような感覚なのではないか。

 

このような特に現代の政治のように、少数の統治者を国民の中から擁立するような、代議制民主主義という制度で成り立っている限り、マイノリティとマジョリティという不平等は無くならないだろう。むしろそこには権利と利益の奪い合いのような無限の闘争があるだろう。しかし、それは政治的フィールドでの話であって、いつも挨拶をしてくれるご近所さんのような地域的ミクロスケールであれば、またこの感触が違ってくると思われる。その証拠に、地域の人と交流する時に、その当方が政治的に絶大な存在である必要性はないし、仮にその当方に政治的なイニシアチブを持っていても、その権力が地域のミクロコミュニティに単純に還元されるかといえば、また少し話は違うであろう。

 

またマイノリティとマジョリティ間の不平等を是正する為に、機会均等を求めるのであれば、それは別にマイノリティであるかマジョリティであるかは、あまり関係がないと思われるのである。差別されている権利が保障されている、または支配されているという状態は、あくまでも相対的なモノの見方であって、そこに絶対性などは無いからである。むしろ、それは例えばマイノリティが頑としてそのような弱者の立場で絶対化してしまう事態にこそ、そこに逆差別的な作用が存在するというような事も、時として言えるのである。

 

そして、このような観点を今一度敷衍して再び見てみると、マイノリティが絶対的な弱者であるという想定の上で、また彼らに対してだけ、政治がプロデュースをするから、結果的には、マジョリティに対する逆差別というように、負の構造が連鎖してしまっているのだ。しかしまた、とある属性に対する差別とそれが故の不平等の撤廃を標榜していた筈の平等という目的が、いつの間にか、機会の方でなくて、結果を示す数値の是正に置き換わってるから、また事態は一層ややこしくなっている訳である。

 

また仮に、地域の中であれば、どんな人間であろうとも「あら! 変わった人ねー」で済む事でも、政治の場であればきっちりとした対立構造に組み込まれる訳である。なぜかと言えば、政治で物事決める為には、まず与党に躍り出る必要もあれば、またその中でも首相とか大臣とかも選ばなければならず、そしてその為には更に政党のような徒党を組む事も必要だからだ。

 

〜参照記事URL〜

(※)基調講演「インターカルチュラリズム」とは何か 

ケベック、そしてグローバルな観点から ジェラール・ブシャールhttp://www.jripec.aoyama.ac.jp/publication/journal/jnl005_02.pdf

 

参加型民主主義と文化的多様性の概念的混同について 長山智香子

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/2010/pdf/session4/j/nagayama_j.pdf