心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

投票率が上がると政治的パフォーマンスも向上するか?

政治の事を語りたいのなら、まずは選挙に行きましょうと、そして選挙に行かない事は、国民として愚かな事だと、ある人々は言う。しかしそれ以前に、本質的な部分で国民の政治に対するレベルが、週刊誌並みに下落したものになってる感じもまたする。政治家をあげつらってただ嗤ってる、そこに自分の政治的スタンスとか、そこに参加している実感のようなものが、国民の間で希薄化してる、そんな気がするのだ。

 

選挙でいう投票というのは、いわば意思表明する事であって、その意思表明とは、ただ目の前に出されたものを選ぶという事で発生するものではない。それは自分の日頃の政治的スタンスをいかに固めた上で、どのように表明するのかという事でもある。今日は投票日かあ、えーと誰にすっかなぁ、では実は選挙にすらなってないのだ。

 

また、投票日には、何が何でも行かないといけないとか、投票しないなら政治の事を語るな、とか言う人がたまにいるけど、そもそもスタンスもあやふやで意思表明の無い投票こそが、選挙制を根本的に無力化しているのだ。選挙そのものは、政治への日頃のアクティビティーを表明する場であって、そういう目的の無い投票は、いくら数が多かろうが、それは無投票と同じなのだ。そもそも紙にただ名前を書く行為を選挙とはいわない。

 

本当の政治の問題とは、投票率うんぬんよりかも、選挙自体がまるで、年に一度のお祭りであるかのようなイベントと化しているという事にある。例え、投票率が高かろうが、そこに日頃の国民の政治的スタンスが表明されていない時点で、その投票には、民主政治を全く反映もされていないのだ。また極端な話ではあるが、そこに国民の政治的スタンスがしっかりと表明されているのなら、例え戦後最低でも全く問題は無いわけだ。投票率低下に見る国民の政治の無関心というが、投票率が上がった所で、そこに何も反映が無ければ、投票率上昇に伴う、国民の政治に対する無責任さは、回避出来ない。

 

政治を連想するときに、ある人はすぐに、それは派閥同士が果てしなく陣地を奪い合おうとする争いの場である、というようなニュアンスで語ろうとする事も多いが、それは間違いである。本質的に政治とは、反対派、賛成派、左翼右翼を含めて、それらの派閥が切磋琢磨して、その場を一緒に造り上げていくという事に、その醍醐味があるのだと、みやすけは思う。

 

今の安倍内閣とか、またそれに対する国民の批判(否定?)、そして無関心ぶりを見ていると、この事態は、安倍内閣の愚行どうのこうのではなくて、安倍内閣そのものが、実は、政治的スタンスのあやふやな国民の鏡写しなのではないかと思ったりもするのだ。国会中の議員の寝姿、そしてヤジを撒き散らして、議会の集中力を散らそうとするその様は、現状の国民の民度をそのままの姿で写したもののように見える。つまりは、現状の安倍内閣の姿こそ、政治をみんなで造るという発想を忘れた、国民のスタンス無きあやふやなる姿が、無残にも映っているという事なのかもしれない。