心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

福祉政策の本義を再考してみる

昨今、北欧の福祉がもてはやされているので、ここでみやすけが思う事を書こうと思う。巷には、北欧は福祉が隈なく行き届いている。医療、教育、生活において、その国民は、日本の国民と比べて、比べ物にならない程の高福祉の制度に守られ、人々が幸せに暮らしている。だから日本も、それに見習うべきだ、そんな事を云う人たちがいる。

 

でも北欧の場合は、福祉を充実させる分、所得、消費に占める税金の割合が格段に高い。特に消費税などは、そうで、それは娯楽とかにももちろん掛かってくるから、その分、娯楽の幅はとても狭いという話を訊くし、しかも仮にあったとしても金額が高いから、あまり人が行きたがらないとも訊く。このように北欧の人々の幸福を支えている高福祉の裏側には、高税率という軸があってこそ成り立っている面がある訳である。だから日本も北欧と同じ水準の高い福祉を実現する為には、消費税などの税率を大幅に上げなければならないという論調もある。しかし人口比と、地政学な見地から、単純に体制の枠組みを当てはめただけの議論は不毛だとの論調も見られる。と、ここまでは、反論としてよく巷で聞かれる論調だ。しかし、みやすけが重要に思うのはここからだ。

 

一般的に福祉政策というのが、特にとある巷の言論の界隈では、窮地に陥った人が最後に国から保障されるべき安全網のようなニュアンスで語られる事が多い。が、実は、福祉ないし福祉国家の成立の歴史的な経緯では、福祉予算という枠組みには、実質的には人間への投資というのがその本義にはある。これはどういう意味だろうか。一般的に、国家の掲げる予算には、大枠には教育や軍事などの、制度の枠組みに投機するというニュアンスのものがある。そしてそれに対して福祉というのは、その同じ動機を人間に対して行われるものの事をいう。また、あらゆる国家予算は将来への投資というニュアンスもあるが、それは国家の運用は、適正な予算の配分によって円滑になるという理念の下にあるものである。このように国家予算とは、端的に一国の経済効率を上げる為に練れる政策であるともいえる訳である。

 

そして、このような政略の動機と同じように福祉という予算の枠組みも存在する訳である。つまり、福祉予算とは、人間への直の投機であって、つまりはこちらがお金あげるから、これで心身のコンディションをきちんと整えて、それからしっかり働いて、いつかは経済に貢献して欲しいという思惑が先行している訳である。このように福祉政略の本質には人間への投機という目的がある。それは単なるセーフティーネットではない。またある意味、福祉とは経済政策上の延長に位置するものであるともいえるのだ。そして一般の議論では、高水準の福祉という響きは、耳触り良く聴こえるが、しかしより深く洞察をすると、逆にそれはとても経済に特化した政略であるとも取れる訳である。またそれを別でいえば、経済効率を上げる為にその他のムダを極力排除しているという事でもある。だから北欧で消費とか娯楽とかの分野での税率が特に高いというのは、こういう訳なのだろう。とどのつまり、国が高税率で徴収したほとんどのお金は、実質的には、経済活動優先に運用されているという事なのだ。

 

それに福祉国家というのは、基本的に、お金を人間へ直に投資する事で、その投資金が、結果的に経済効率に還元される事を目的とした国家の事をいう。経済あっての国家があるように、国民が稼ぎ出したお金は、税金で徴収され、そのお金は次の運用に回される。ここまでは、どのような体制をとる国家でもまったく同じだ。しかし福祉国家というのは、このような能率を更に純化させた形態だとも言えるのだ。そしてこのような枠組みの中で、福祉を受けるとは、ここまで生活を保障してあげるから、その分、また後で一生懸命働いて、経済に還元して欲しいと言われているようなものである。つまり北欧のような純度の高い福祉国家というのは、その分、経済効率に純化された国家であるといえるのではないだろうか。それは単に国から、居心地の良い居場所をただ一方的に与えられているという訳ではないのだ。

 

これまで見てきたように福祉政策というのは、ただ人に居場所を与えるのではなく、「余裕が出来たらまた働いて経済に還元して欲しい」という、この前提のルールがあって初めて機能するものである。とどのつまりそれは効率的に経済を回す為の政策の中の一つの形態に他ならない訳だ。

 

そしてそのような福祉政策の失脚の末に出てきたのが、新自由主義だとの学説がある。それは福祉から降りたせっかくのお金を、居心地の良い居場所に居座り続ける為だけに使われてしまい、結果的に、福祉予算をかけた分だけに見合った経済的効率を生み出せなかったのが根本にあると言われている。つまり、こっちがお金あげても何もしないなら、今度はみんなと競争して自分でなんとかしてね、もうお金は簡単にはあげないよ、という流れになった。それが自由競争の原理、市場主義経済の枠組みの発端であるというのだ。

 

確かに、北欧のような、安心して子育てして働けてみたいな環境は理想的かもしれない。でも現実の北欧の暮らしはとても質素らしい。娯楽も少なく、あっても高いからあまり行かない。そのような質素な暮らしでものびのびと生きていけるのなら、彼らのような高福祉国家も目指せるかもしれない。しかし蓋を開けてよく観てみれば、そこには経済効率重視の国家という意外にシビアな姿が、みやすけには見えた。つまり福祉とは、国民がよりよく生活する為の政策なのではない。そうなるのはあくまでも結果論である。また福祉とは、経済効率主義から排除された弱者の最後の安全網であると言い切るのもまたニュアンスが違うのだ。そこには国家を運営する上での中核を成す経済を、どのように効率良く動かせるのかという思惑がある。また冒頭に、あらゆる予算は投機であるといった。それは福祉予算というスタンスも例外ではないのだ。


北欧社会福祉研究家による世界・北欧の福祉事情 「介護支援ページ ~kaigo-web~」

http://www.kaigo-web.info/kouza/hokuou/no1/index.html


北欧型モデル 増税すれば幸せになれるの?SYNODS 井出草平/社会学

http://synodos.jp/international/2045