心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

痴漢問題を少し考えてみる 〜なぜ「どうせ冤罪でしょ?」と云われるのか〜

「痴漢? どうせ冤罪でしょ?」といわれるのには、それなりの動機がある。それは実際冤罪が多いという事にある。巷では、このような周囲のからかいに腹を立てている人も居るだろう。しかし当方が本当に考えなければならないのは、「どうせ冤罪でしょ?」と揶揄される事ではなく、なぜそう思われるのかの、この所以を知る事である。

 

痴漢冤罪というのは、決して虚言なのではなく、現実に起きている事件である。しかしそれがあるからといって、実際に痴漢被害に遭った被害者の事を自意識過剰であると嗤い、またそれを許す社会の空気は、確かに世も末かもしれない。しかし、冤罪加害者が痴漢被害者を装い、無実の人に示談金を要求したり、また時に、全くの誤解で起きてしまう冤罪もまた、現実にはある。そして、このような冤罪があり続ける限り、痴漢被害を疑う眼や、その被害者の自意識過剰さを嗤う空気は、淀んだ形で残り続けるだろう。

 

また自身の痴漢被害の体験は、その個人に唯一のものである。だから、そのような個人的な憎悪を、痴漢問題の総てに還元する事は、極力避けなければならない。なぜならその憎悪こそは、痴漢問題の全てを一刀する真理ではあり得ないからだ。そのような万能感は、おのずとまた別の個所で、違う形の暴力を再生産させるだろう。

 

そして現に示談金目的に見られるような、冤罪事件が、実際にある中で、その動機さえも、痴漢の存在に全てを集約させようとする嫌いがままある。しかし、このような加害者の思惑は痴漢という存在から、直接的に派生するものではないだろう。なぜなら冤罪を企む犯人が抱く犯行意識の本質こそは、それが痴漢が存在するかしないかとは全く別に、それ自身が本能的に自律していると思われるからだ。そのような自律した本能的な犯行意識が、たまたま痴漢という存在に巧くリンクしたのではないか。つまり示談金目的に繋がる加害意識こそは、たまたま居た痴漢の存在に、ただ便乗しただけであって、単に自身の犯行を正当化する為だけに、痴漢を便利な道具として利用しているのではないか。なのでそのような犯行意識は、もし痴漢が存在しなければ、また別の存在に、その正当化を求めただろう。つまり、この事が仮に正しいとするなら、冤罪の犯行意識と、実際の痴漢の存在とは、全くの別のものである筈なのだ。よって、示談金目的の犯行意識が実在する事と、痴漢が実際に存在する事とは、その全てがリンクする訳ではない。

 

これらを加味した上で、今一度、痴漢に対して自分の憎悪を、一方的に差し向ける行為が、痴漢問題の本質的な解決に、本当に貢献しているのかを内省すべきだろう。そしてこのような、単なる誤解、そして示談金目的のような加害行為などを含めた冤罪がある限り、痴漢問題は、簡単に厳罰化にすれば良いというように、短絡的に解決されるものでは、まったくあり得ない。むしろそのような短絡的な厳罰化は、現実に起きている冤罪被害に見られるように、暴力の再生産の起因になりかねない。痴漢問題とは、なるべく解決されるべき命題であって、個人的な攻撃性を差し向けるサンドバッグでは、決してないのだ。

 

だから、痴漢犯罪を厳罰化するなら、このような事実を深く吟味した上で、慎重に議論されるべきだろう。そして、実際の痴漢という存在と、それに便乗して冤罪をけしかける加害者をも含めての、複雑に入り組む構造を意識する必要がある。このような実際の犯行と冤罪加害とのケースを共に敷衍出来てこそ、初めて痴漢問題は、対処すべき問題であり得ると思う。痴漢問題こそ、そこには様々な悪意が渦巻いていて、それらは一筋縄の論理では簡単に解けない、複雑なる負の構造を形成しているのだ。そこでは、痴漢とその被害者という二項対立のような、一見、それで完結しているように見える関係もまた、それは問題の表面上を覆う、薄い事柄に過ぎない訳である。つまりは、問題のもっと深い場所を見る必要があるのだ。なぜなら、一方的に恨みの感情をぶつけるように言い放っていた「痴漢に厳罰を!」という短絡的なスローガンは、あまりに多くの無実の犠牲を生み出して来たからである。それは、痴漢問題の解決とは、絶対に言えない。

 

確かに、被害者にとって、痴漢に遭ったその体験は、絶対的に許しがたく、大いに憎いだろうと思う。しかし、被害者の自意識過剰さを嗤う空気の、その問題の根本とは、現実の被害者の存在でも、また被害者に対して軽口を叩いている人々の自惚れの方にあるのでもない。それはとうの冤罪事件が、それも決っして少なくはない件数が、実際に実在するからこそ、そのようなからかいの根本も存在しているのだ。確かに巷の被害者が憤慨しているように、そのような被害体験を嗤う空気に、ただ無闇に便乗するのも、間違いだ。その憤りこそ、批難される余地の無い、完全に正しいものである。そしてこのような、実際に痴漢被害を受けた被害者に対して、一方的に自意識過剰のレッテルを貼り付けるような、周囲の軽率なる行為こそが、結果的に、痴漢問題を矮小化させている一因となっている事も、確かに否めない。

 

しかし痴漢冤罪のえげつない所は、嫌疑をかけられたその瞬間に、その人の社会的ステータスが総て死滅するという事である。「疑ってごめんなさい」では、絶対に済まされない現実が、その嫌疑をかけられる側にはある。実際、痴漢と勘違いされ、その結果、取り返しのつかないレベルに社会的生活が、脅かされた人も、大勢居るのだ。その現実こそ、もっとも意識すべきなのだ。間違えたら謝れば良い、その判断は結果的に、冤罪の被害者に対して、決定的な過ちを犯す事にもなり得るだろう。がしかしこのような現実があるからと言って、痴漢被害者の憤慨を一方的に糾弾する事も、また不可能なのだ。またこの指摘によって、痴漢の犯行が相対化される訳では決してあり得ない。痴漢の犯罪こそ、そこに厳然と存在する問題なのだ。それこそ、厳罰に処されるべきだろう。それは、正しい感情である。

 

またこのような指摘で、被害を訴える側にも、一方的な非があるのだという、立場を論理的に逆転させるだけ、そうさせただけのような結論にするつもりも無い。被害者は救われるべきであるし、またとうの加害者こそ処罰されるべきである。しかし、痴漢被害を装い、冤罪事件を企む加害者が、現実に居る限り、このような構造までをも具に見定めて、総合的に判断しなければならないのだ。まさにこのように、完璧な敵を特定した上で、スムーズに悪を糾弾出来ずに、様々な負の思惑が堂々巡りになっているこの状況こそが、現実の被害、加害という二項対立のスケールを大きく超えて、冤罪の被害、その加害をも、更に含まれる、よりメタでパラドキシカルな問題の構造を構成しているのだ。この存在こそが、痴漢問題における、解決方法を探る上での、大きな障壁になっていて、それが頑固なジレンマを形成しているのだ。

 

しかし、巷で言われるような、どのような冤罪の構造があろうとも、それらは痴漢をする側にこそ、その全ての原因があるのだというような論調も、決して間違っている訳ではない。むしろ一見、痴漢問題を構成する問題のポイントを総て射たようにも見える。しかし「疑いあれば、即痴漢」というようなそっけいな判断が、直接的に冤罪に結びついているケースが実際にあるのだとすれば、そのような断定も、また違う次元で過ちを犯している事になる。そのようにして、無実の人たちが、そうした被害を装うの行いの末に、社会的な死に追いやられていったケースは、現に数多く報道されている。しかし、このように報道されているのは、実は極々一部分で、そういう冤罪の被害は、見えないところで多く発生しているのかもしれない。

 

 

そしてまた、痴漢に恨みを抱く人も、このような、深く吟味しなければならない複雑な問題の構造を意識せず、先ほど書いたこのような事実を見逃せば、これからの痴漢問題は、さらに軽い愚痴話と勘違いされ続けるだろう。しかし、揶揄する側のこの軽率な行為もまた、痴漢問題を撹拌させるだけの足手まといになるのだ。このように、お互いに注視すべきポイントはある。そして、その切実な部分こそを見逃したままなのだとすれば、その結果、痴漢の現場の切迫感は、お互いの上辺だけの軽口と共に、悲しく朽ち果てていくだろう。

 

痴漢問題のあるべき真相を無視し、お互いの軽口の狭間に、たった今、痴漢の脅威に苛まれている被害者の助けを呼ぶ声が掻き消えてしまう。それは、とても悲しい事ではないだろうか。そして現に、情報媒体上の至る所で書き込まれる軽口と、被害者の切実な恨みとのその応酬が横行している最中で、痴漢の被害に苦しむ被害者のその切迫さは、この問題の構造からは、排除されているように見える。目の前に見える、上辺だけを逆なでるだけの軽口の応酬は、痴漢問題をより深刻化させていく。その部分では、痴漢の被害で苦悩に打ちひしがれている「生の声」が排除されている。その中で本当の意味で泣くのは、嗤われる事に腹を立てている画面越しの人たちなのではなく、現実の現場で痴漢被害に深刻に苦しんでいる被害者の方々である。