心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

貧困問題の問題について 〜所得格差是正によって、本当に貧困は無くなるのか〜

ここ最近、いつの間にか、「貧困」と「貧乏」のニュアンスが、ごっちゃに使用されてしまっている感じがする。みやすけが思うに、単に所得の高低差だけで、貧困問題を語るのは、とても危険な事だと思う。例え、貧乏でも自己肯定感や、居場所がある人も居るし、お金が有っても孤独な人も、またお金も人間関係も無い本当の意味での貧困状態の人も居る。思うのは、支援の手というのは、「貧乏な人」という一括で定義される人達にのみ向けるのではなく、文字通り貧乏で苦悩している人や、また例えお金持ちでも孤独な人に対して向けられるべきではないか。単にお金が無い「貧乏(モノが無い)状態」と、結果、それでお金も人間関係も無い「貧困(貧しくて困っている)状態」なのかというのは、微妙だが、そこにはうんと大きな違いがあるんだと思う。それは、文字通りこの二つに言葉には「貧乏(モノが無い)」という「状態」を表しているのと「貧困(貧しくて困っている)」という「その状態に困っている」という具体的な人間の感情が付加されているかという決定的な違いが見受けられるからだ。

 

この「貧乏」と「貧困」の持つ互いの微妙なニュアンスの違いを考える事は、それがお金を持って「居る」のか「居ない」のかという単純な二元論で、思考が終始してしまう恐れを回避する役割がある。それは、あらゆる人がその人生で起こり得る様々な可能性を探り、かつその時々の状況が、各々の当事者にとってそれが「苦境」なのか、また「さほどそうでもない」のかという、感情の面をプラスしたより人間味のある深い洞察を可能にさせるのだ。

 

例えばアフリカの貧困問題でも、果たして彼らは、ただお金が欲しいと訴えているのだろうか。それに彼らのような貧困層が、資本主義の論理を内面化したいと欲し、バリバリの富裕層になりたいと思うのだろうか。このような疑問を考える内に、彼らの抱える貧困問題と先進国が推進する解決策との根本的な合点は、その線引きを怪しくさせるのだ。そもそも現在の貧困問題の取り組みとは、OECDが定めた貧困ラインのような数値上の偏差に一喜一憂する先進国側の一方的な慈善事業なのか、またそれは実際の貧困層の現実の苦渋を根拠にされているものなのだろうか。

 

自分たちの生活が豊かだから、モノを持たない彼らは貧困なのだ、というのはモノを持つ側の幻想でしかない。実際、モノを持たない彼らが深刻なのは、パソコンを持っていない事では無く、「お金が無ければ」食料さえも得られないような飢餓状態に、モノを持つ側が、持ち前の論理で巻き込んだ事にある。モノを持たない事が決して罪なのではない。そもそもモノを持つ側が、彼らの自立性を奪い、こちら側の論理でしか彼らを生きられなくした事が第一の原因なのだ。つまり、アフリカのような地域の抱える貧困問題の解決は、お金さえ持てば解決するというような、モノを持つ側の論理によって解決されはしないだろう。彼らに取って解決とは、彼らの元から持っていた自立性を復活させるか、それに付随する形で暮らしを再構成するしかないと思う。

 

なので「所得を平等します。はいこれで問題解決です」みたいな事を、OECDのような機関がいくら宣言しても、それが決して決定的な解決策ではあり得ないのだ。アフリカのような地域での貧困問題の問題とは、モノを持つ側の論理を自問しない事にあるのだから。また、別の問題でも、実際、当事者は喘ぐ「貧困」から脱したいのか、また「貧乏」でもそれなりに満足なのかという「感情」の部分を問わなければならない場合もあるだろう。しかしそのような感情の部分は、この機関が発表するような貧困ラインを示す数値には一切反映されてはいないのだ。

 

貧困問題には、このようなもう一つの面もあり、それを解消したいのなら、この「困っている」か「困っていない」のかという状況を出来るだけ区別する必要があるだろう。リアルに支援が必要なのは、あくまでも困っている状況の人に対してなのだから。

 

ましては、所得水準の平等化によって、このような社会問題は単純に解決されるのではないと思う。例えば、男女の所得格差についてだ。昨今の日本では、女性の社会進出の為の支援策が取られる事が多いが、果たして所得さえ平等にすれば、単純にこの問題は解決されるのだろうか。ましてや、今まで、この国では、男女の役割の分離が勧められてきた。そのような分離されてきた役割が、現在でも厳然と存在している中で、果たして、お金を持って居るのか、居ないのかというような単純な図式で、このような男女にまつわる問題の根幹は視えるのだろうか。それは違うだろう。むしろお金の分配の問題だけではなく、男女の役割を分離化されたが故に発生した、双方の「責任」の比重の問題を、別に表面化させなければならないのだ。

 

なぜなら男女の役割はただそこに在るのではなく、生活を営む上で、男女双方に、それに付随する何らかの責任が生じるからだ。しかし、この双方が負う責任による苦渋というのは、実は、お金を持っているか持っていないかでは、一概に定まる訳ではない。あくまでも稼いで居るか居ないかは、数多の行程をこなして営まれる生活を現す「要素」のたった一つの基準でしかない。稼ぐ事も生活する上では、必然だが、しかしそれだけで生活が営まれている訳でも、もちろん無い。たくさん有る生活する上での行程には、男女が司るそれぞれの責任があるのだから。このような現実を考慮した上で、所得水準の平等の具合と、男女が互いに担う責任の分散とのグラフが比例して改善しなければ、所得水準だけをフォーカスしたような政策は、男女双方が負う責任の所在を、双方の感情的な部分で混乱させる事になるだろう。

 

従って、所得水準だけを指数にした問題議論は、不毛なのだ。所得さえ増えれば、社会問題が解決するというのは、それこそ短絡的思考なのだ。特に、生活を共同で行う際には、必ずその役割に対する「責任」が発生するのだから。そこの部分にも切り込む必要があるのだ。

 

では特に、日本の現代社会での貧困問題の問題とはなんなのだろう。それはそのような責任の偏りが強固に温存されたまま、所得水準だけを平等にしようと無理に圧迫するから、その結果、淀んだ責任だけが男女双方に肥大化しているという、このような事態が問題なんだと思う。所得水準の平等化、つまり「稼ぐ」行いにしか問題解決の糸口を視ないのは、「稼ぐ方の責任」と「家を守る方の責任」を担う役割を流動化させるのでは無く、両者の受け持つ責任の偏りを温存したまま「互いの責任」を何重にも背負う事態を引き起こしているのだ。

 

このような構造では、男性は自分の責任を背負ったまま女性の持つ責任を更に担わなければならず、女性も男性の担う責任も含め自分の持つ責任さえも二重に背負わなければならない。この問題の構造の核心は単純化された所得水準対策のみの貧困問題の中にあるのではない。貧困を所得水準のみで強引に解決しようとした、このような副作用の方にこそ、貧困問題の問題の根本があるのだ。

 

お金が有るのか無いのか、一見、これらは単純な比較だけど、確かにそれによって引き起こされる悲劇がある事も、重々知っている。解決すべきなのは、お金が単純に無い事ではなく、あくまでもそれに関連するであろう悲劇の方なのだ。「お金が無い=悲劇に繋がる」という、一見正論のように視えるこのような公式も、実は単純に成り立つ訳ではない。しかしとある苦境が、もしお金で解決するのなら、そういう支援も有効だろう。飢えている人を救う最善の手段は、まず自分の食べ物を分け与える事だ。またその総ての支援事業を良し悪しで振り分けられるのだと意気込む程、この話も単純にはしたくない。

 

でも、お金をどれだけ稼いでいるのかという指標のみで、貧困問題を解決しようとしているOECDの試みには、その総てに賛同は出来そうにない。お金が有るから自由になれるのか、平和になれるのか、そんな事は全く有り得ない。それは先進国側の偉い人が十分に知っている筈だ。でも確かにエアコンやパソコンが有った方が、みやすけ自身の気持ちを云えば、その方が断然気持ちが良いに決まっている。しかしエアコンやパソコンを持っていない人が、圧倒的に多いであろう世界の実情を考えると、それが当たり前の感性だとは微塵にも思わない。むしろ、みやすけのような部屋の環境の方が、あちらから観れば、たかが少数派なのだから。

 

社会の実情は、数字で決まる訳ではない。数値とは、あくまでも状況を計る一つの指標である。だから短絡的に、それが人間の暮らしを現す絶対的な基準には成り得ないのだ。大切なのは、そういう数値が算出された後の処理の仕方である。男女の所得に格差が実際的に有るからといって、それが男女の生活の苦楽を現した事には、決して成らない。いくら高給取りでも、現実の生活面で、多重の責任を負っていれば、相対的にもその人の幸福度は下がるだろう。実際、それを証明するかのように、最近の男女別の幸福度調査では、女性の方が上回っている傾向が示された。このように人の生活の苦楽は、お金の有無では、一概には言えないのだ。

 

貧困問題でも、一体何が彼らにとって貧困の解消なのかという根本の部分は、無視されているような気がする。国際機関が定める貧困ラインのように、数値のみの解決では、決して前に書いたような「責任」の問題は、解消されないだろう。ましてや、アフリカなどの地域が抱えている貧困問題解消など、このような対策では、以ての外であろう。最後に結論を言うと、「数値の改善=人の幸福」とは一概に成らないように、「貧困」もそう単純な問題ではないのだ。