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心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

体制を「ケアする」とはなんだろう? 〜新自由主義を生きるための小論〜

現在、新自由主義が政府によって推進される中、競争原理は日々激化して行くばかりである。その現状に、様々な懸念や批判などが巻き起こっている。しかし、日本の現状の経済の状態を見れば、そのような動向も決して青天の霹靂なのではないと思われる。経済成長率が低迷する時代に永く苦しめられてきた日本の経済は、それまでの福祉国家への導入を目前に、その福祉の分野の予算を削り、新自由主義の名の下で、競争原理を強化してきた。それまでの日本の社会は、世界一成功を収める社会主義国家であると、世界からそう言われて居たのだった。

 

このように眺める分には、現在の流れも、しっかりとした経済の低成長時代の論理をすくい取った政策であると思われる。しかし、新自由主義が「手段」から「信仰」に変異したその瞬間に、その信仰から外れる存在をぞんざいに扱い、その激化する競争原理により、自らの命を捨てるまでの狂気に、悪影響が散見されるようになった。今でもなお、このような熾烈な社会の信仰は、その呪縛を解き放とうとはせず、むしろより事態が深化して行くばかりのように感じる。

 

その苦境の中で、オルタナティブを謳う夢想があちこちで湧き上がってきているのではないか。そんな現実に起こる苦境を緩和しようと、様々な革命的思想や、スピリチュアルなどの超越的な世界への憧憬が、日本の社会に蔓延する競争原理の熾烈さの裏側の日常の生活に根ざしつつある。そのような世相は、絶対的信仰に成り下がった新自由主義に窒息した人々が、そのわずかな隙間に風穴を開け、少しでも希望をみたいとの祈願なのかもしれない。

 

しかし新自由主義などの、あらゆる時代の流れの中で勃興してくる体制というのは、数多の歴史の辿り得る無数の可能性の内の一つの結果ではない。新自由主義が悪だから、本来のあるべき姿の世界がある筈だと言っても、それは単に現実の世界に起こっている現象に目を背け、自前の論理内で自己完結しているに過ぎない。あるべき姿の世界は、まさに今ここにある。それがたとえ新自由主義と競争原理なのだとしても、それは突然湧いてきた異次元の超物ではなく、歴史的な潮流の中で、徐々に興ってきた歴史的な必然性によるものであると解せなければならない。

 

現在、そのあちこちの場所で、新自由主義を批判する声が挙がっている。しかし、新自由主義を否定する彼らの言説そのものも、また、新自由主義にあらゆる論点を依拠させているという点では、やはり新自由主義に依存している。彼らを盛り上げるそのモチベーションは、むしろこの新自由主義あってこそのもののようにも見える。つまりは、どのように現代の体制を否定しようとも、新自由主義の枠内に生きる人間の総ては、必然的にこれらの体制の論理を、良くも悪くも内面化しているのだ。つまりは、それらをただ否定するのみの議論というのは、結果的には、何も生み出さない同音反復になっているに過ぎないという事だ。

 

つまり、今必要なのは、現代の体制を総て覆すような否定的議論ではなく、これらの体制の構造を総合的に敷衍し、それからの未来を提示していく、批判的議論なのだ。批判的議論が否定的議論と違うのは、猛威を振るう新自由主義を現存するものとして受け入れた上で、それがきちんとなされるという事である。そして、また新自由主義の体制の論理を内面化した人間が、その体制をばっさり否定しようとすれば、必然的に自家中毒を引き起こし、結果的にその人は自己矛盾に陥るだろう。なぜなら新自由主義の体制の論理に染められた人間が、それらを否定する事は、必然的に、自分の存在を否定する事になるからだ。その先あるのは、自滅か、無限の夢に果てる革命に朽ちるかである。それは、歴史的な流れの一部である存在を打ち切る事と同じなのだ。

 

よって、これらの体制の論理によって内面化された自分を悲しむ事は、そもそも間違っているのだ。また絶海の孤島に小屋を建てるような、宙に浮いたようなオルタナティブを創造する事もまた違うだろう。ひっ迫する現実から逃れようと、果てしのない異世界を望み、またそれを構築しようとも、自分の生まれた、新自由主義が謳歌する場所のドグマからは決して逃れられないのだ。結局、この渦中の人々は、そのドグマを受け入れて、その上で、未来に繋がる議論をして行くしかない。

 

今の境遇が、どのような悲惨な運命にあろうとも、それらは新自由主義の枠組み内で起きる、あらゆる想定の出来事に過ぎない。全てはその新自由主義に書かれているシナリオに沿った、現象なのだ。つまり、一度自身に染められたドグマは、それから逃れようとも、また破壊しようともしてはならない。このような行為は、地に足の着いた未来を創れないだろう。そればかりか、現在を魑魅魍魎化させ、気づけば、自分の手が、いつの間にか自分の首を絞めつけているだろう。一度染められたドグマは、それを破壊しようとするのではなく、いかにしてそれを承知した上で、未来へ議論を託せるのかが、ポイントになるだろう。批判的議論には、このような覚悟と勇気がいるのだ。

 

またどのような体制でも、必ず、良い面と悪い面が共存しているものだ。良い悪い、このどちらかの一方だけが色濃く反映されている体制は、決してあり得ない。それは新自由主義の体制でも同じだ。それに自分の置かれている境遇がどれだけ悲惨であっても、このたった一つの悲劇が、その体制の全ての構造を反映している訳ではない。あらゆる環境には、それに馴染んで生活している人たちがいるのだ。あくまでも、その個人の悲劇は、この体制を構成する要因の一つの現象に過ぎない。

 

また新自由主義を含めた、どのような体制の中にも、穏やかに流れている良い場所も在れば、また流れが滞って淀みが生じているような悪い箇所もある。大切なのは、そういう事実を受け入れようとする事だ。自分の苦境が、新自由主義の全てではない。だから新自由主義の体制の中に悪い場所があったからといって、それらだけを特別に取り上げて、体制を根本から崩壊させようと目論むのは、体制を語る方法論としては、本質的に間違っているのだ。

 

万能な体制などは、まずこの世には存在しない。その現実を吟味した上で、人間に出来る事は、この体制の内で発生した、流れの滞った悪い箇所を「ケアする」事にある。腐り切った体制を覆す革命は、流れの滞った悪い箇所を清流に変える力もあるかもしれない。しかし逆にいえば、穏やかに流れている良い場所をも滞らせ、結果的に、元は良い場所であったのを、さらに悪い箇所に変えてしまう事態に繋がるかもしれない。

 

自分が描く壮大な希望が、即ちあらゆる他者の平穏に結びつく訳では決して無い。体制の内で流れが滞り悪くなった箇所には、その箇所に対する「体制のケア」が必要なのだ。つまり、新自由主義と競争原理の体制を根本から覆すような革命が、必ずしも必要なのではないのだ。