心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

"個人規模的な経済圏"を迎えて 〜個人経済学への誘い〜 Part3

現代の経済の中では、合理化による経営の最適化が流行している。現代の大企業は、もはや産み出す事を辞めて、節制の経営によって、なんとか首の皮一枚で、上場しているに過ぎない。しかし、これからの経済では、行き過ぎた合理化は、むしろコストを増大させるだろう。今の社会では、

”個” を主体としたニーズで溢れている。しかし、大量消費を目論みとする大企業の理念では、このような最小単位のニーズに応える事は、ほぼ不可能に近い。

 


そこで、合理化を主とした経営理念を追行しようとすると、”個” に対応するニーズとの間に誤差が発生し、最小単位のニーズと、大量消費の理念との間で、基本的なマッチングが発散してしまうのだ。時代は、最小単位としてのベクトルの流れを如何に読めるのかという慧眼にかかっている。その中で、大量消費、大量生産を基本とする大企業の理念は、必然的に、最小単位のニーズを前に、コストを増大せざるを得なくなるのである。

 


このような最小単位の経済は、”ナノ・エコノミー” と言う事ができるだろう。大企業を基軸とした、これまでのミクロ・エコノミー、マクロ・エコノミーという見方ではなく、もっと消費と生産との本質に向き合った形の経済理念が必要となってくる。ナノ・エコノミーとは、最小単位のニーズに沿った ”個” をベースとした経済理念である。”個”からこれからの経済圏は、発展するのではなく、循環する経済に移行するだろう。

 


そうなれば、これからの経済にとって、人口との相関は、これまでの人口理論とは、大きくかけ離れたものになるだろう。これまで政府は、人口減少と少子化による経済の影響を憂慮し、特に出生率の増加の為の政策を施行している。しかし、これからの経済的な原動力は、これから出生率の増加と結果としての人口増加によって無価値化して行くだろう。

 


サービス産業ががあまりにも行き過ぎた経済圏では、人口の増加と比例して、経済的価値そのものが離散してしまい、経営的合理化そのものが、むしろ全体の効率を下げてしまう事になるだろう。そう、経済の理念が、これまでのような大量消費、大量生産の理屈で成り立たせようとする限りにおいて、経済的損失の方が、増加して行くだろう。それは、大企業を主軸とした、国家運営の在り方を抜本的に見直す時代の到来を予期している。

 


“個”のニーズを主体とした経済においては、これから子供をどれだけ作ろうが、結果的としての経済的発展の動機にはならないだろう。大企業を主軸とした大量消費、大量生産を掲げた経済的原動力の根本が失われつつある現代にとって、子供が増える事とは、需要と消費が増えるかも知れないという事だけがメリットであり、人口増加の率と経済的発展の率とは、全く相関しないだろう。これからの経済では、”個”を基調とし、その中で、どれだけ円滑に資本が流れて行くのかという事が、重要となる。

 


その為にはまず、大企業を解体しなければならないだろう。そしてその下部構造としてのマス・メディアとしての役割も終わりを迎えるだろう。そんな中で、一般大衆という集団を形成することも不可能となる。一人一人が”個”のニーズに沿って、消費と需要を一致させる経済、そこでは様々なナノ・ニーズが需要を喚起し、そのニーズによって経済が循環する。ナノ・エコノミーとは、循環する経済である。

 

そこには、大企業による市場の寡占も、大量消費、大量生産による一般大衆の扇動も存在しない。存在するのは、ナノ・ニーズに則った流動的な経済圏であり、需要と供給の管轄するレンジが膨張と縮小をランダムに続ける、カオティックなエコノミック・フィールドである。もはや、ナノ・ニーズを面前に、需要と供給は、一般大衆と大量消費というイコールの等式から解き放たれて、世の中の資本の流れは経済的動態と化し、その絶え間の無いカオティックな流れは、経済的非対称性のモデルを構造化するだろう。唯一の経済的指標ももはや成り立ちはしない。むしろ、経済的離散の程度を表す係数が、多様な写像を描けば描く程に、その内側にリンクしている経済的動態の活性化を意味している事になるだろう。そして、このようなナノ・エコノミーが活性化すればするほどに、統計学的な有効数値の意義が雲散霧消となるだろう。

 


また、傾向を表す統計的なベクトルの振る舞いは、ナノ・エコノミーを円滑にさせるべき原動力の妨げとなる。小さな供給から、莫大な需要が見込まれ、また膨大な供給の割には最低の需要しか見込まれ得ない経済圏とは、これまでの人口学的な見地からは、何もそのヒントを見越す事が出来なくなるだろう。このように議論を重ねると、ナノ・エコノミーとは、"個人規模的な経済=Indivisible Economy"とも言い換えられるだろう。

 

統合失調症患者は減ったか? 〜ネットインフラとパーソナリティ〜

近年になって、統合失調症が軽症化されている、または患者そのものの数が減少しているという話がある。統合失調症とは、以前で言う"分裂症"の事だが、ここ最近になって、統合失調症が軽症化したり、病気自体の数が少なくなってるという。そして、そこにはそれなりの理由があると、みやすけは感じている。それを社会的な観点と、近年これまた言われるようになった"発達障害自閉症スペクトラム障害"と合わせて論じてみたい。

 


彼ら統合失調症患者には、"政府、FBIとか何か大きな組織から監視されている"というような妄想があったりする。これは、外部世界と自己との境界があやふやになる、という彼ら独特の分裂の症状であると言われて来た。しかし、これまで妄想と片付けられていたものが、最近になって、それが割りかしリアルである事が判明しつつある。例えばアメリカの秘密情報機関に勤務していた、スノーデン氏の告発も記憶に新しい。これらジャーナリズムから、これまで彼らの妄想と言われていたものは、むしろ真実を突いたものであったという事が判明した訳である。

 


そして現代は、徐々にこういったこれまで狂気として病理扱いされて来たものが、リアルの世界に浮き彫りになりつつある。この"リアル世界=確固たる世界"が、文脈前後の支離滅裂な分裂的な論理的構造に移行していく中で、これまでの統合失調症患者の分裂的思考が、狂気と分類され治療対象として観られていたのが、今度はリアル世界が統合失調症の世界に行き着き始めたのだ。だから現代人にとって、分裂的な思考を保つパーソナリティこそがリアリティを持つに至った訳である。

 


例えばツイッターとかで観てても分かるように、ネット情報空間に羅列されているテクストというのは、実は分裂的な構造をしている。なぜなら、何の脈絡もないテクストが突拍子もなく現れては消え、その情報系が連綿と一つの構造体を形成しているのは、実は統合失調症に罹っている患者の思考構造そのものであるからだ。

 


そして、発達障害系の自閉症的パーソナリティの病理化もまた、実は、このような世界規模に渡る分裂症系パーソナリティが拡張して行くリアリティから浮き彫りになった現象かも知れない。発達障害の特徴としての、"場の空気の読めなささ" "対人関係における感情の理解度の低さ" などに起因する自閉症的パーソナリティの認知形式がある。仮にこのような認識様式を"硬派な実直性"と形容出来るのなら、現代の分散的コミュニティを前提とした分裂症系社会の構造内では、あまり折が合わない。

 


この"硬派な実直性"とは、言えば表裏の無いピュアな認識を持っているということである。自閉症的パーソナリティにとって、抽象的な概念を他人の認知を通して想像する事が難しい。しかしこれは、決して認知の歪みとかの病理ではなく、列記とした人間的認知の一つの形式である。常に総ての人間の認知では、このような"硬派な実直性"を持ち合わせている。要は発達障害とは、その時の社会からのバイアスの程度による訳である。

 


また俗に言われるような、例えば発達障害者が、"相手の感情を読み取れない" "場の空気を壊す" または"場の空気を読めない"状況とは、つまり、現代拡張しつつある分裂症系ソーシャルからの、ある種の逸脱である。これまでの社会で了解されて来た"硬派な実直性"の排除が、現代の自閉症的パーソナリティの社会からの逸脱を助長している。

 


このような動態は、サイバー空間のリアル化によって、その動向は助長されている。ネット構造に無尽蔵に溢れるテクストを構成するアーキテクチャは、統合失調症患者の思考形式そのものであると上にも書いたが、このような分裂症的な構造体が、現実世界の人間関係にも、その影響が及んでいるのは、何も驚く事ではない。このような事態は、かのジル・ドゥルーズも予見していた事である。しかし、そのような動向が、個人にパーソナライズされた時に、そこから派生する精神病理の構造もまた、別の箇所にパーソナライズされた形で、発現するだろうというのが、みやすけの論じたい事である。

 


つまり、"発達障害自閉症的パーソナリティ"と"統合失調症=分裂症的パーソナリティ"とは、時代が要請するパーソナリティとの拮抗の最中で生まれるものである。"障害=disorder"、つまり、社会側からの要請と個人的パーソナリティとの差別化から生まれる、社会的障害というものは、移り変わる社会的インフラによってカテゴライズされるものである。その中の一つの形態として、発達障害統合失調症というのも、とある時代の中の社会からのパーソナリティに対する要請として、理解出来るのではないか。しかし現実では発達障害を脳生理学的な見地から病理にしようとする動きがある。でも発達障害とは、このように処理すると、列記とした社会的障害と言えないだろうか。

金融経済と不良債権化の宿命 〜ナノ経済学への誘い〜Part2

金融における価値というのは、未来への借金の形で先行投資されるものであるが、このような価値とは、ブロックチェーンのような価値そのものを見つめる多数の眼によって維持されているという面があるだろう。つまり、モノを生み出すという 需要⇄供給 というような即物的な図式が当てはまらず、定まらない未来への投資という、あやふやなモノに対する先行投資によって、今現在の価値から遊離する形となっているのだ。

 

これは決定的に、資本の流れを不透明にした。現在の経済とは、いわゆる博打を打っているのと変わらない。未来への投資が、その時間の経過が、遠ければ遠いほど、単純に考えれば、利潤率は、概ね下がって行くものである。しかし現代の経済とは、この未来への投資を謳ったものが多い。あやふやな未来から借金し、どれだけ利潤が見込めるか不明なまだ見ぬ未来から、お金を逆流入させているのが、現代の経済である。

 

金融経済の最も恐ろしい面は、このような先行投資が、不良債権化する事である。実際そのような出来事は、日々起こっている事である。しかし、そのような不良債権化の原因とは、”産み出す経済” のイデオロギーと、”循環する経済” とを同一視する事によって起こる。”産み出す経済” と

”循環する経済” とは、互いにアンビバレントを形成するものである。このようなアンビバレンスな問題が、正しく認知されず、本質が不明瞭となる事によって、そのような歪みの中で、不良債権は生み出される訳である。

 

このような金融経済で、まず大切な事とは、”産み出す経済” と”循環する経済” の違いを認知しなければならない事と、そのような動態があるのは、エコノミック・アンビバレンスの中で初めて機能するという事、このようなアンビバレントを、丁寧に腑分けする必要がある。循環する経済の機能の中で、産み出す作用を持ち出すのは、必然的に不良債権化を伴う危険性があるという事、そして、そのような停滞こそ、産み出す経済の機能の中での、循環する経済が起こす、必然であるという事である。

 

循環する経済に当たっては、産み出す事は必要であっても、必ずしも必然ではない。産み出す経済に当たって、循環する事は、必要条件であっても、十分条件ではない。それぞれの経済圏が、互いにリンクする事はあっても、それが即ち、全体を表す動機にはなり得ない。たとえ、そこに経済的な同期が見られようとも、それが即ち経済的な動態に繋がる保証は予測し得ない。動機がどうであれ、未来を予測するための式は、未来を完全に予測する事は不可能なのである。

 

特に金融危機において、ことさら重要なのは、未来への先行投資が、充分に回収されない、またはそれを見越して投資したにも関わらず、それに似合う価値が見込まれないと信用を下落させた場合である。この二つに関わる事柄には、あやふやな未来から借金をし、利潤をさらに信用の名において、リボルビングの可能枠を増やし、信用を膨張させる。クレジット・エコノミーとは、信用の名の下に、未来への投資の可能枠を売買する投機型の経済である。

 

未来への投資とは、見込まれる利潤率の上のあるのではなく、クレジットを担保に時間を売買する事を意味する。ブロックチェーンとは、まさにこのような信用機構を維持するためのバイアスである。しかし、このようなクレジットを媒介する経済とは、循環する経済と言えるだろう。循環する信用機構に亀裂が走るのは、そこに利益が見込まれないという産み出す経済の価値が生じたときである。膨れ上がる信用は、その規模に比例して不安を生み出して行く。なぜなら信用というのはそもそも、ブロックチェーンのようなバイアスによって維持されているからである。そのようなクレジット・エコノミーは必然的に、規模的な制限によって、自壊する宿命を背負っている。

 

現代のようなグローバル・エコノミーにおいては、金融経済のあり方は、そのグローバルの規模において、自ずと自己矛盾に陥るリスクを、自ら背負っているのだ。その金融経済の動機が、クレジットである限り、信用下落という不安と隣り合わせのところで、投資を行わなければならない。投機と言われるものも、このような不安と信用との狭間から零れ落ちてくる利益を会得するものではないか。このように、金融市場を維持するためには、ぎりぎりの綱を渡っているのと同じ感覚の中で、ブロックチェーンでバイアスをかけ続けなければならない。

 

"生み出す経済"から"循環する経済へ" 〜ナノ経済学への誘い〜 Part1

現代の経済は、経営の合理化によってコストを下げる事によって、会社の利潤を増加させるという程で成り立っている。2017年度の会社利益率を見ても、過去最高を謳っているが、その殆どの企業では、過去、人員の大幅な削減や、非正規労働者などが数多く携わっている企業の名が連ねている。つまり、現在の経済では、コストを如何に、限りなく最小に抑える事が出来るのか。それは合理化を元に、経営を最適化し、無駄の無い資本の流れの中で、利潤率を上げるというやり方である。つまりは、隙間から零れ落ちていく資本を、すくい上げる事によって、その効率性を利益としているという事である。

 

しかし、経済とは、価値を生み出す事に、その意義はある。経営の合理化とは、コスト面でのサポートには適しているイデオロギーであるが、その真価となる ”価値を生み出す” という経済の本質からは、全くズレたものでしかない。経済的価値を生み出さず、さらには、経済的活動には不可欠である筈の必要経費を ”コスト” と言う、その潔癖症とも取れる意識の中で、合理化というイデオロギーを量産している。このような現代の経済は、何も生み出さない、節制による最適化経済である。

 

モノを生み出さず、滴り落ちる雫を拾うような経済に、経済的成長など見込める筈もない。経済的成長とは、無価値からそれだけ価値を生み出したかという指標の表れである。そのような、経済の本義を見失い、節制に徹する大企業、そしてそれに牽引される国は、いつかその限界を迎える事になるだろう。

 

”ものづくり” によってこれまで日本は発展して来たが、このような経営の合理化の流行は、もはや ”ものづくり” で生計を立てる時代の終焉を意味しているのだ。特にサービス業などの第三次産業の発展に伴って、サービスそのものが経済的価値を伴い、需要と供給を媒介するようになった昨今、合理化に勤しむ大企業は、これからの世界を生き抜く事は不可能だろう。

 

経済であるからには、価値を生み出し続けなければならない。それは資本主義の宿命でもある。しかし価値を生み出し続ける経済には、自ずとその因果の中に、それ自体を自己矛盾へと誘う因子が内在している訳である。誰だって、経済的成長が永遠だと思わない。自分の身体だって、成長の後は衰退の一方に、落ちて行くだけである。それは、成長を謳った生命の身体であるからであって、”産み出す” という宿命を背負う限り、生命は、いつまでも生と死を繰り返す。”産み出す” のではなく、”循環” させるという意識を持つ事によってのみ、生命は、成長と衰退からのカルマから抜け出す事が出来るのだ。

 

これと同じように、経済も、”生み出す経済” と “循環させる経済” という二つの形態を考える事が出来る。サービス産業にいわれるモノは、この二つの経済の均衡の基にあるものである。生み出すだけの経済は、結果、合理化の号令の下に、最適化を余儀なくされている。これは、いわゆる

”生み出す” をテーマとしていた経済の終焉である。

 

時代は、価値を生み出すだけの価値を求めてはいないのだ。今こそ、経済は ”死と生” を繰り返すだけのイデオロギーを求めていない。このようなイデオロギーではなく、これからの経済は、これまで生み出したモノを俯瞰し、整理し、循環させる ”サイクル・エコノミー” の時代の到来を待っている。経済は、サイクルを生み出す事によって、死と生のカルマから脱しなければならない。

”産み出す” という行為によって、生命が ”死と生” の輪廻に縛られるように、これまでの経済は、

”破壊と再生” を繰り返して来た。しかし現在、このようなイデオロギーから目を覚ます時代が来ている。

 

”産み出す” のではなく、あらかじめ産み出た価値を ”循環させる経済” 、その真価とは、経済そのものをより円滑に持続可能なものにする為のものである。モノを産み出すという第二次産業的な、大量生産、大量消費の時代は終焉しつつある。それは、2017年度の会社利益率の発表を見ても一目瞭然である。今の大企業は、産み出す作業を放棄している。コスト削減の為に、人材をリストラし、経費にかかるコストを合理化の元に最適化しようとする。それでも純利益としては、十分な数字は弾き出されるだろうが、しかし、それが今のこの国のGDPに反映されていない現状を見るに、如何に、日本の大企業が価値を産み出す事を放棄したのかが、如実に解るものとなっている。

 

第三次産業にとって、需要と供給は、必ずしも同相となる事はない。小さな供給から莫大な需要を見込む事も可能であるし、その逆に、大きな供給にも関わらず、小さな需要しか見込まれないという事態もあり得る。そして実際これらのケースは、現代では多岐に渡っている。つまり、必ずしも、需要と供給は、イコールで結ばれたものではないという事である。時代は、等式を求めてはいない。数式を解けば唯一の解に導かれるという、単純さは、むしろこれからの時代の要請の中で、放棄されるだろう。

 

いつの時代も、インパクトを求めているが、その規模は、決して大きければ良いというものではない。時代は、”個” を辿り、循環して行く中に差し掛かっている。それは “産み出す経済” の基盤をアップグレードし、内容をアップデートする事である。時代は、大企業という大黒柱を求めてはいない。個人が自由意志を基に、自ら信用を会得し、それらを廻る事によって価値を最小の単位から生み出す時代である。つまり、”価値を生み出し、循環させる経済” の到来である。

"パブリックエネミー"による超管理監視社会の移行

巷のネット界隈では、パブリックエネミーなる言葉が出回ってきている。パブリックエネミー、すなわち”一般の大衆にとっての敵”という事であるが、その矛先は、色々な対象に向けられている。現状では、パブリックエネミーの選定には、個人の感情に重きがおかれている状態なので、パブリックエネミーという名詞の割には、その範囲と用法は、煩雑さを極めている状況でもある。

 

つまりは、パブリックエネミー自体には、何のパブリック的なニュアンスがある訳ではなくて、共感する仲間同士で、より社会的性質を踏襲した、いわばエネミーの”シンボル化”こそが、パブリックエネミーがそうである所以となっている。つまり、かつての大日本帝国で言うところの、”日章旗”、そして、共産主義の掲げる”鎌と槌”の標章、そうパブリックというのは、ブラックボックス化されたシンボリズムの総称であって、それが即、一般大衆によって選定された対象とは、全く意味が違うものである。

 

パブリックエネミーに選出される対象は、個人各々の感情によって規格化され、同志の共感によってシンボリズムに発展する。そしてその動向は、管理監視社会へと移行する為の動力の中に吸収される。かつその流れは、パブリックエネミーというシンボリズムの熱気と共に、権力による管理監視社会に向けての動機を正当化するものとなる。つまり、パブリックエネミーとは、このような管理監視社会を喧伝する為の次世代のメディアの役割を演じる、”ネオ・メディア” なのである。

 

このようなネオ・メディアの特性として、より明瞭にその姿を描けるとすれば、”パブリックエネミー”という存在とは、そもそもそれ自体の発祥が、よく分からない、または特定不可能性という根本的な箇所に着目しなければならない。このような特定不可能性というネット空間の不能性によって、”パブリックエネミー”というその宣伝力はより強烈に、その威力を発揮する事になるのだ。

特に今の時代、ネットで配信している媒体の投稿者が、必ずしも人間であるという保証は、どこにもない。現代は、飛躍的に人工知能が発達した時代の中にいる。そんな高度に科学技術が発展した現代において、メディアの役割は、既存の枠を大きく拡張させたものとなっているかもしれない。そして、それが仮にネット空間上に散見される”パブリックエネミー”というシンボルなのだとすれば、そこには、そのシンボリズムに操作される一般大衆と、それを誘発する権力との力関係が発生している。

 

パブリックエネミーは、一般大衆の憎悪によって大きくメディア化され、パブリックエネミーというサンドバックに無限に憎悪を仕向けさせる事によって、本質的な権力構造の根本から、目を逸らさせる効果を生み出している。つまりパブリックエネミーとは、権力による管理監視社会を正当化する為のツールにしかならない。このようなネオ・メディアによって喧伝されたパブリックエネミーなる虚像は、そこに一般大衆の憎悪を仕向けさせる事によって、権力による統治と支配の構造そのものを最適化させているのだ。

 

しかも、パブリックエネミーそのもののソースは、必ずしも人間によって操作されているという保証はどこにもない。高度に発達した人工知能によって、その作為が造作されたものなのだとすれば、そのような操作される一般大衆は、そのように仕向けさせるために作為的に、人工知能によってインプットされたものである。だとすれば、パブリックエネミーそのものの動機とは、監視管理社会にとって次なる監視管理対象者を選別しているという事になるだろう。

 

パブリックエネミーに奮起している抑圧された一般大衆こそ、権力側にとって本当の意味での脅威に他ならないからだ。それなら、一層のこと、あらかじめその予備軍を選別した上で、ビッグデーターとして蓄積しておけば、後に監視管理社会に移行可能とした時に、その監視対象者は、すでにリストアップ完了とされている状態にある訳である。

社会問題の物語はいかにして消費されるか?

例えばセックスワーカーの問題。古来、性産業に従事する人達は、蔑みの目で見られていました。それは今でもそうなのですが、避難する側の論理では、道徳的な倫理的な観点からそう見るのです。セックスワーカーは汚らしいと、そう見る訳ですね。このようにセックスにまつわる仕事が汚らしく思える、これは社会で共有されている正当な道徳、倫理が前提となり、またそれらの観点から見た場合に、汚れてる、蔑視等の感情が生まれる訳です。つまり社会には正当な道徳、倫理という規範が存在する訳です。

 


従来、性に関する事柄は禁厭されてきました。これは、社会的な規範とセットのものです。だから、人はそこに蔑視を向ける。ただ、時代が進むにつれて、このような蔑まれた人たちの名誉を回復しようとする運動が盛んになってきます。つまり、人権ですね。人権の名の下にあってあらゆる人々は平等である、こういう訳です。では、平等とはいかなるものなのでしょうか? 

 


現在巷に出回っている、セックスワーカーに関する人権などを見ていますと、セックスワーカーの置かれている状況がいかに辛辣なものであるか、不遇な環境であるかというような謳い文句が散見されていますね。つまりセックスワークとは、こんなにもアンニュイな雰囲気の出ている仕事だと、だからそんな不遇な環境から救い出さなければならない、そう人権の名の下にですね。でも、セックスワークとは、そんなにもアンニュイなものなのだろうか? 

 


確かにアンニュイな人が集う場所なのかもしれない。でも、そういう仕事場など、幾らでもあるのではないか? では、なぜセックスワークがこんなにもアンダーグランドであるかのように、ライター達は喧伝しまわるのだろう。その答えを紐解くのに思えるのが、そんな彼らにも彼らなりの規範があるのでは、という事です。母子家庭、貧困、暴力等、セックスワークを語る記事には、そのような言葉が入り乱れていますね。そしてそれらを総称するようにして、アンニュイな表現でしめくくる。そうこれは社会問題であると、括る訳ですね。

 


でも、これらはある社会規範が前提となっている表現のようにみえます。なぜなら救わなければならない、という表現は、救われるべき正当な社会が存在しているという事だからです。そこはしんどいから、こちらにおいで、そう言う訳ですね。でも、彼らが言うような人権で護られし正当な社会とは、なんなのでしょうか? それは、結局社会の正当な規範に合わせてあげよう、それも、そのような規範とはあくまでも個人的な理想に立脚したものが多い。

 


そのように、規範にすべき社会のあり方という問題の立脚点とは、正当な倫理、道徳というものが模範となっています。それは、社会問題化するという点でも同じです。社会問題化する過程では、そこから脱却を可能にする正統な社会の規範が存在しています。なので結局、セックスワークを取り巻く現在のアンダーグランド化も、ライター側の持つ正当な社会的規範が前提となっているという事が言えるのではないか? つまり、そのような人権擁護側の社会規範こそ、セックスワークのアンダーグランド化の所以となっている。でも、人権擁護側が言うように、本当にセックスワークとはアンニュイな場所なのでしょうか? こういう相克の部分に、物語の消費は生まれるのではないか? 

フェミニズムは何を変えてきたか?

フェミニストが女性が社会から地域に疎外されると言った瞬間から、男性の生きづらさは、地域に依拠する事を許されず、仮に社会から排除される結果になろうとも、疎外された地域からの異質なものを見る視線によってさらに深刻化する結果となってしまった。

 

フェミニストは、女性の場合と同じように男性にも平等に当てはまる論理、つまり男性もまた地域から社会に疎外されるという、一般的に逆にも成り立つこのような論理を無視して、女性の怨嗟を一方的に迎合した。それに際し、その一方向に偏り行く流れに誰も危機感を煽らなかった。だから経済的社会ばかりが優越的となり、地域はどこまでも経済的価値から疎外される一方的となった。だから、経済的生産能力の無い人たちが、社会にも地域にも居場所が見つけられず、アウトサイドな狭間に無数に溢れる事となった訳である。

 

さらにフェミニストが男社会を攻撃した割には、その帰結が結局の所は、経済的価値を踏襲した男社会の贋作となってしまっているのもそうで、結局のところ、女性を社会から地域に疎外したとする論理が、そのまま経済的社会にリスペクトする形に収斂してしまい、結果的に女性の地位向上が経済的生産性の価値を生み出すとする実力主義とリンクする形となったのだ。

 

そのような話しの流れは、彼女らが家庭の場を再生産領域、そしてそこでの作業を家事労働と言ったのもそうで、結論的に、再生産領域でも家事労働としても、経済的な価値に赴きの無いものはなんでも、そこに実存的存在価値は無いと断言したのも、立派なフェミニズムの文脈だった。再生産領域内での無価値性や、男社会をメタファーとした経済的価値性とに敷衍させた家事労働と再生産とは、いわば経済的価値または経済的優位性を、無意識にしろなんらかの意識しろ、それらを基にして、フェミニズム理論の基調としているのは、経済的生産性またはそこから派生する経済的価値を理想化しているからではないか。

 

その筋で、フェミニズムは結局、社会から地域に疎外されたと言ったように、女性を今度は逆に地域からも疎外してしまい、社会側に圧倒的優位性を担保に社会進出を推奨してしまった。この事から、今や男社会と権力闘争を繰り広げる政治的集団に成り下がったのだ。その時流の中で、社会から排除された男性の居場所をも、社会からも地域からもダブルに奪う結果となった。しかし尚も女性の権利は叫ばれるし、家事、出産子育てが経済的価値、または生産性に置き換わっただけで、フェミニズムとは本質的には脱構築的行いではあり得ず、どこまでも経済的価値をリソースとした、男社会の贋作にしかなり得ないのだろう。

 

ようは地域と社会とは、バランスの総体であり、そこに経済的生産性の価値をよりどころにするのは、以ての外である。経済的生産性と資本的価値は、あくまでもそこを行き交う円滑油的な存在でしかないのだから。それが家事労働や再生産領域の本質的なのではない。なので当初掲げていた脱構築的なニュアンスは、もう現在のフェミニズムの凝り固まったイデオロギーには、何も響かないようになったのだろう。