心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

"パブリックエネミー"による超管理監視社会の移行

巷のネット界隈では、パブリックエネミーなる言葉が出回ってきている。パブリックエネミー、すなわち”一般の大衆にとっての敵”という事であるが、その矛先は、色々な対象に向けられている。現状では、パブリックエネミーの選定には、個人の感情に重きがおかれている状態なので、パブリックエネミーという名詞の割には、その範囲と用法は、煩雑さを極めている状況でもある。

 

つまりは、パブリックエネミー自体には、何のパブリック的なニュアンスがある訳ではなくて、共感する仲間同士で、より社会的性質を踏襲した、いわばエネミーの”シンボル化”こそが、パブリックエネミーがそうである所以となっている。つまり、かつての大日本帝国で言うところの、”日章旗”、そして、共産主義の掲げる”鎌と槌”の標章、そうパブリックというのは、ブラックボックス化されたシンボリズムの総称であって、それが即、一般大衆によって選定された対象とは、全く意味が違うものである。

 

パブリックエネミーに選出される対象は、個人各々の感情によって規格化され、同志の共感によってシンボリズムに発展する。そしてその動向は、管理監視社会へと移行する為の動力の中に吸収される。かつその流れは、パブリックエネミーというシンボリズムの熱気と共に、権力による管理監視社会に向けての動機を正当化するものとなる。つまり、パブリックエネミーとは、このような管理監視社会を喧伝する為の次世代のメディアの役割を演じる、”ネオ・メディア” なのである。

 

このようなネオ・メディアの特性として、より明瞭にその姿を描けるとすれば、”パブリックエネミー”という存在とは、そもそもそれ自体の発祥が、よく分からない、または特定不可能性という根本的な箇所に着目しなければならない。このような特定不可能性というネット空間の不能性によって、”パブリックエネミー”というその宣伝力はより強烈に、その威力を発揮する事になるのだ。

特に今の時代、ネットで配信している媒体の投稿者が、必ずしも人間であるという保証は、どこにもない。現代は、飛躍的に人工知能が発達した時代の中にいる。そんな高度に科学技術が発展した現代において、メディアの役割は、既存の枠を大きく拡張させたものとなっているかもしれない。そして、それが仮にネット空間上に散見される”パブリックエネミー”というシンボルなのだとすれば、そこには、そのシンボリズムに操作される一般大衆と、それを誘発する権力との力関係が発生している。

 

パブリックエネミーは、一般大衆の憎悪によって大きくメディア化され、パブリックエネミーというサンドバックに無限に憎悪を仕向けさせる事によって、本質的な権力構造の根本から、目を逸らさせる効果を生み出している。つまりパブリックエネミーとは、権力による管理監視社会を正当化する為のツールにしかならない。このようなネオ・メディアによって喧伝されたパブリックエネミーなる虚像は、そこに一般大衆の憎悪を仕向けさせる事によって、権力による統治と支配の構造そのものを最適化させているのだ。

 

しかも、パブリックエネミーそのもののソースは、必ずしも人間によって操作されているという保証はどこにもない。高度に発達した人工知能によって、その作為が造作されたものなのだとすれば、そのような操作される一般大衆は、そのように仕向けさせるために作為的に、人工知能によってインプットされたものである。だとすれば、パブリックエネミーそのものの動機とは、監視管理社会にとって次なる監視管理対象者を選別しているという事になるだろう。

 

パブリックエネミーに奮起している抑圧された一般大衆こそ、権力側にとって本当の意味での脅威に他ならないからだ。それなら、一層のこと、あらかじめその予備軍を選別した上で、ビッグデーターとして蓄積しておけば、後に監視管理社会に移行可能とした時に、その監視対象者は、すでにリストアップ完了とされている状態にある訳である。

社会問題の物語はいかにして消費されるか?

例えばセックスワーカーの問題。古来、性産業に従事する人達は、蔑みの目で見られていました。それは今でもそうなのですが、避難する側の論理では、道徳的な倫理的な観点からそう見るのです。セックスワーカーは汚らしいと、そう見る訳ですね。このようにセックスにまつわる仕事が汚らしく思える、これは社会で共有されている正当な道徳、倫理が前提となり、またそれらの観点から見た場合に、汚れてる、蔑視等の感情が生まれる訳です。つまり社会には正当な道徳、倫理という規範が存在する訳です。

 


従来、性に関する事柄は禁厭されてきました。これは、社会的な規範とセットのものです。だから、人はそこに蔑視を向ける。ただ、時代が進むにつれて、このような蔑まれた人たちの名誉を回復しようとする運動が盛んになってきます。つまり、人権ですね。人権の名の下にあってあらゆる人々は平等である、こういう訳です。では、平等とはいかなるものなのでしょうか? 

 


現在巷に出回っている、セックスワーカーに関する人権などを見ていますと、セックスワーカーの置かれている状況がいかに辛辣なものであるか、不遇な環境であるかというような謳い文句が散見されていますね。つまりセックスワークとは、こんなにもアンニュイな雰囲気の出ている仕事だと、だからそんな不遇な環境から救い出さなければならない、そう人権の名の下にですね。でも、セックスワークとは、そんなにもアンニュイなものなのだろうか? 

 


確かにアンニュイな人が集う場所なのかもしれない。でも、そういう仕事場など、幾らでもあるのではないか? では、なぜセックスワークがこんなにもアンダーグランドであるかのように、ライター達は喧伝しまわるのだろう。その答えを紐解くのに思えるのが、そんな彼らにも彼らなりの規範があるのでは、という事です。母子家庭、貧困、暴力等、セックスワークを語る記事には、そのような言葉が入り乱れていますね。そしてそれらを総称するようにして、アンニュイな表現でしめくくる。そうこれは社会問題であると、括る訳ですね。

 


でも、これらはある社会規範が前提となっている表現のようにみえます。なぜなら救わなければならない、という表現は、救われるべき正当な社会が存在しているという事だからです。そこはしんどいから、こちらにおいで、そう言う訳ですね。でも、彼らが言うような人権で護られし正当な社会とは、なんなのでしょうか? それは、結局社会の正当な規範に合わせてあげよう、それも、そのような規範とはあくまでも個人的な理想に立脚したものが多い。

 


そのように、規範にすべき社会のあり方という問題の立脚点とは、正当な倫理、道徳というものが模範となっています。それは、社会問題化するという点でも同じです。社会問題化する過程では、そこから脱却を可能にする正統な社会の規範が存在しています。なので結局、セックスワークを取り巻く現在のアンダーグランド化も、ライター側の持つ正当な社会的規範が前提となっているという事が言えるのではないか? つまり、そのような人権擁護側の社会規範こそ、セックスワークのアンダーグランド化の所以となっている。でも、人権擁護側が言うように、本当にセックスワークとはアンニュイな場所なのでしょうか? こういう相克の部分に、物語の消費は生まれるのではないか? 

フェミニズムは何を変えてきたか?

フェミニストが女性が社会から地域に疎外されると言った瞬間から、男性の生きづらさは、地域に依拠する事を許されず、仮に社会から排除される結果になろうとも、疎外された地域からの異質なものを見る視線によってさらに深刻化する結果となってしまった。

 

フェミニストは、女性の場合と同じように男性にも平等に当てはまる論理、つまり男性もまた地域から社会に疎外されるという、一般的に逆にも成り立つこのような論理を無視して、女性の怨嗟を一方的に迎合した。それに際し、その一方向に偏り行く流れに誰も危機感を煽らなかった。だから経済的社会ばかりが優越的となり、地域はどこまでも経済的価値から疎外される一方的となった。だから、経済的生産能力の無い人たちが、社会にも地域にも居場所が見つけられず、アウトサイドな狭間に無数に溢れる事となった訳である。

 

さらにフェミニストが男社会を攻撃した割には、その帰結が結局の所は、経済的価値を踏襲した男社会の贋作となってしまっているのもそうで、結局のところ、女性を社会から地域に疎外したとする論理が、そのまま経済的社会にリスペクトする形に収斂してしまい、結果的に女性の地位向上が経済的生産性の価値を生み出すとする実力主義とリンクする形となったのだ。

 

そのような話しの流れは、彼女らが家庭の場を再生産領域、そしてそこでの作業を家事労働と言ったのもそうで、結論的に、再生産領域でも家事労働としても、経済的な価値に赴きの無いものはなんでも、そこに実存的存在価値は無いと断言したのも、立派なフェミニズムの文脈だった。再生産領域内での無価値性や、男社会をメタファーとした経済的価値性とに敷衍させた家事労働と再生産とは、いわば経済的価値または経済的優位性を、無意識にしろなんらかの意識しろ、それらを基にして、フェミニズム理論の基調としているのは、経済的生産性またはそこから派生する経済的価値を理想化しているからではないか。

 

その筋で、フェミニズムは結局、社会から地域に疎外されたと言ったように、女性を今度は逆に地域からも疎外してしまい、社会側に圧倒的優位性を担保に社会進出を推奨してしまった。この事から、今や男社会と権力闘争を繰り広げる政治的集団に成り下がったのだ。その時流の中で、社会から排除された男性の居場所をも、社会からも地域からもダブルに奪う結果となった。しかし尚も女性の権利は叫ばれるし、家事、出産子育てが経済的価値、または生産性に置き換わっただけで、フェミニズムとは本質的には脱構築的行いではあり得ず、どこまでも経済的価値をリソースとした、男社会の贋作にしかなり得ないのだろう。

 

ようは地域と社会とは、バランスの総体であり、そこに経済的生産性の価値をよりどころにするのは、以ての外である。経済的生産性と資本的価値は、あくまでもそこを行き交う円滑油的な存在でしかないのだから。それが家事労働や再生産領域の本質的なのではない。なので当初掲げていた脱構築的なニュアンスは、もう現在のフェミニズムの凝り固まったイデオロギーには、何も響かないようになったのだろう。

自由と平等の監獄社会

人間性とはなんだろう。旧社会、それは階級が厳然とそのテリトリーを誇示していた時代であった。貧富とカースト、そこには決して超えられないラインというものがあった。そしてプロレタリア、ブルジョワジー、そこには確かに、剰余価値と搾取という名の下で階級社会は根差していた。旧社会、それは階級とカーストにより、人々に閉塞を生み出していたとされる社会である。このような旧体制、これらは平等とリベラルの号令の元に次々と解体を余儀なくされていった。旧体制は、人間を閉塞と恐怖に陥れ、ヒューマンライツの元に庇護されるべく本来の人間の存在を否定するものであると、だから自由と平和、そして平等は喝采され、そして時代の寵児であると持て囃された。

 

それらは、現代では経済的な政略とも迎合し、更には、リベラリズムと市場主義とも折り合い、近年ではネオリベラリズムとも、その形態を進化させている。全ての人間とは平等であり、また自由を犯される事のない個人である。そのような現代社会では、行使可能な選択肢は、かつての階級社会よりかも、遥かにその数を凌駕する程のものとなった。そんな社会では、あらゆる人間たちが自由と平等を元に庇護された中で個人の権利を行使できる。そして自由を確保された平和の中で、永遠を生きる事が可能となった。

 

そんな現代社会においては、あらゆる物事が、自由と平等、そしてヒューマンライツの元に庇護された権利を通して明確となった。それらは、永久不滅に、人類の中で護られ続け、かつそれらは人類の不断なる行いの最中で行使され続ける。抑圧と搾取の盛る旧体制から勝ち取ったこれらは、凱旋のさる歓声に煽られ、その戦旗はことごとく高く舞い上がる誇らしさを眼下に、民衆により良き人類の未来を提示したのだった。

 

旧体制、それは階級とカーストにより人々を閉塞に陥らせた。旧社会、それはプロレタリアからブルジョワジーによって、剰余価値と労働力を無限に搾取する。そのような社会において、人間たちは、様々な抑圧そして権力による奪取を体験してきた。そして今日、現代社会となって、そのほとんどは、その名残さえも始末されている手前である。そして、そこに取って変わったのが、自由、平等、そしてヒューマンライツの元に庇護された権利である。これらは、より良き社会、いうなれば、より良き人格を持ってして、より充実した人生を送るための指標である。

 

現代の人類は、このような標語を基に人生のプランをより良く当てようとしているのだ。しかし、平等、自由とは如何様であろうか。マスメディアで格差社会と言われて久しい時間が経った。そしてその格差とは依然と遺る旧体制の名残りであると散々持て囃されている。よって推し進められている平等政策も、そして経済的なリベラリズムも、そのような号令の元に、より先鋭に推し進められている有様である。

 

しかしそれは本当に旧体制の名残りと言えるのか。様々な破壊の元に再築された現代体制の中では、全てのモノが自由と平等の元にある。しかもヒューマンライツに庇護された個人の権利を持ってである。しかし、そのような自由度のある社会とは、ある意味では分散化し易い社会である。旧体制のようなボーダーラインが取り払われた社会においては、そのような行き交いもまたより自由度の高いものとなったのだ。

 

そこでは必然的に貧富の差はより厳然化されているのではないか。平等という名の下に施行される政策とは、競争原理に特化された経済合理性に有利なものなのではないか。だからそこでは必然的に格差という形で、旧体制のような階級社会を再現したものとなったのではないか。そしてそれはより見えない形で、この社会の深部に侵食し始めている。むしろ自由と平等こそが、旧体制のような分かりやすい悪役の存在を見えなくしている。それは、自由、平等、そしてヒューマンライツの元に庇護された権利が醸す匂い、そうそれらが醸す先進的でクリーンなイメージがそうさせているのだ。

 

しばしば、これらを合わせ持つ国家、個人は先進的であるという。しかしこれは正しい認識なのだろうか。しかしこれらを合わせ持つ国家、個人とは、実は競争原理や経済合理性に基づくリベラリズムとに親和性がある。平等の元に経済合理性を追求する事とは、すなわちそれだけ競争意識を内面化した上で、合理的に資本を蓄えていこうとする心理にインスパイアされるものである。また自由の元に経済合理性を追求するとは、以上のものに迎合され、その意識に拍車をかけるものである。このように自由と平等とは、経済合理性の号令の元に、個人が競争原理に加担するものである。つまり自由と平等は、必然的に格差を拡張するものとして機能する。

 

現代、格差を是正するものとして導入されている平等政策も、それは結果的に格差を押し広げる形で、社会にフィードバックされる。なぜなら、自由で平等な社会とは、それだけ競争原理と経済合理性とに親和性があるものだからである。そしてその行く先に格差は待っているのである。そう、さらなる拡大の末に、崩壊する現代社会体制の像を胸に。これは必然的な結果であろう。現代社会において、自由と平等とは、その体制を批判する際の大切な芽を摘むものとなっている。


批判不能は、その体制の腐敗をもたらす。つまり自由と平等の謳歌する社会体制とは、新たな監獄の誕生である。現代社会においては、フーコー的な道義的な相互監視ではなく、またそれらの一派として、今度はより良き理念として、自由と平等の旗を掲揚し、その威光により民衆を盲目にした上で施行される大義ある監獄社会である。

 

そんな社会では、自由と平等を掲揚した正義のために旧体制の名残りを批判し、解体させ、現代の体制に純化させる。しかしそれらは、自由と平等を称揚する為に善であり続け、他の批判の追随をも許さない。なぜなら、自由と平等こそは人類が旧体制から勝ち取ったものであるからである。だから、そのようなものを批判もする事は、旧体制側の人間のやる思考なのであり、過ちである。だからこそ許されないのである。そしてそのような親和性こそ、現代の格差社会の拡張するスピードを加速させている根本の原因である。

 

現代の自由、平等の理念こそ、格差社会の根源である。自由と平等の実現する社会とは、競争原理や経済合理性を迎合する体制である。それは、旧社会体制よりかも、もっと浸透圧のあるものとなっている。よって、自由と平等の純化した社会とは、より格差や階級に分け隔てられた、そして経済合理性に基づいた競争原理に特化した社会といえよう。しかしそれらも、自由と平等というもっともらしさによって批判不能に陥っているものである。そのような批判不能性こそ、現代体制の新たな監獄社会なのである。

”神が死んだ” それからのサイエンス 〜フィロソフィーと「私的」社会構造〜 Part4

かつて、サイエンスで流行の兆しを迎えようとしていた、この「私的な」という観点こそ、それはやがて “神が死ぬ” 予兆として現れたのかもしれない。この「私的な」という観点による探究では、時たまこのような多幸感は観られる。実はこの「私的な」という観点からは、思想的独善が生み出され易くなるのだ。そしてかつて、フリードリヒ・ニーチェによって “神は死んだ” と言われて久しい時間が経った。しかしそれにしても、ニーチェの言った “死んだ【神】” とは、一体何を指す語なのだろうか。その正体とはつまり、いわゆる社会で共有されて来た【絶対性〔ストーリー〕】を指す言葉なのではないか。

つまり、これまでの「絶対性〔ストーリー〕」が零落し、やがて、相対性の時代が到来する事を予言した警句だったのではないか。では、相対性の趨勢する時代における神とは、一体何だろうか。それは流動する相対性によって社会構造が不確定化、または不安定化するに際して、アイデンティティを通して絶対性を帯びた 【個人〔私的〕】 なのではないか。しかし神を、絶対性の象徴であると断言するのは、少々早計かも知れない。が、社会構造が不安定化するという状況において、なおかつ社会で共有されるべく「絶対性〔ストーリー〕」も成立し得ない時代においては、自ずと【個人〔私的〕】が絶対性を持つに至るのは、半ば時代の宿命である。

そうした【個人〔私的〕】の絶対化、それは思考する自分が、まるでこの世の神であるかのような錯覚を引き起こす原因にもなりうるだろう。更にそうした誤解により、さも自分は “この世界の全てを知った者” としての、横暴な振る舞いを起こす事態にもなりかねない。それはつまり【自分こそが神】であるという、事実上の宣言である。

かつてのフィロソフィーでは、自分とは、“決して知りえない存在” であるというような、人間とはそもそも不完全な存在であるとする了解があった。だから、神、精神、そして魂や美の根源に対して真摯でかつ敬虔で居られたのだろう。しかし、そうした古代においても、それらの態度を損なった人達が居たのだ。そんな彼らは、皮肉を篭めて “ソフィスト” と、揶揄されていた。ソフィストとは、「詭弁者」という意味で使用されていた言葉である。詭弁者である彼らは、自らの誤ちを隠したり、自分の成果を無駄に誇張する為に、真理を偽造したり、故意に振りかざしたりしたのだ。

そんな彼らの振る舞いの発端には、「主観性=【個人〔私的〕】」と「客観性=【フィロソフィー〔関係的〕】」とを混同させて、そこから倫理的道義的に誤った思想を構築していたのだろう。しかし、何においてどのような観点が最善であり、唯一正しい哲学であるかという事は、そもそも本質論的に不確定である。だから、必ずしもそういう状況に陥る事が、最悪であり、偽善であると一方的に決定する事も、また不可能ではあるのだ。

しかし “神は死んだ” という警句が、自らを神であると宣言するサイエンティストが現れるという言葉だったとすれば、どうだろうか。自らが独善的に盲信する真理で、他者の真理を猛攻する時代の到来を、かのニーチェは予言したのだろうか。かつてニーチェが予言したであろう、社会で共有されるべく【絶対性〔ストーリー〕】が成り立たず、実質的に形而上学が成り立たなくなってしまったとすれば。しかしそんな現代においては、「私的な」から成り立つ個人の真理にとって、【他者の真理】とは、これまでとは違う形式で、形而上を継承する役割を待ち得る筈なのである。つまり、他者の存在が、思想的にも身体的にもより身近である現代特有の距離感こそが、逆に、そこに到達し得ない存在としてのポジションを持ち得るのだ。

これはどういう事かと言えば、つまり【他者の持つ真理】こそが、フィロソフィーでいう所の【決して触れられないもの】の箇所に相当するのではないかと推測されるという事である。例えば、相手がそこに居るにも関わらず、その心を完璧に知るという事は不可能であるという見方からも、それが伺えるだろう。近くに居るのにも関わらず、それに触れる事も、知る事も出来ない、これは【他者】という存在だけではなく、これまでの形而上学の対象であった、神、精神、また魂や美という現象もそうである。決して触れられない存在として、その根源を探究する事、それはつまり人間の生き方であり、人間としての真善美であった訳である。かつそれが形而上的な現象だけではなく、【親しい友人】でさえも、その定義に十分に当てはまる。

しかし、形而上学で扱われるような真善美が、人類に普遍的なものとして共有される時代は、とうに終わったのだ。しかし、それは普遍的に共有されるべく大きなストーリーの【元型】を失っただけである。それは決して普遍性がというのではない。だからそのような普遍性という本質こそは、形を変えて現代でも残滓として残り続けている。そしてその名残はあちらこちらの箇所に観られるものだ。

例えば現代では、アイデンティティに規律された個人というものが信仰されている。またつい最近までは、「自分探し」に代表されるような、本当の自分とはなんぞやを探究する自己啓発が流行していた。そしてある人は、愛する人の裡に、本当の愛を夢見るものであり、またある人にとっては、日々意識を高める事に確かな充足感を求める。そしてこれらに広く観られるのは、自分にとっての【普遍的な生】というものである。このような現代特有とされている【普遍的な生】という理想こそ、実は、かつて様々なフィロソフィア達が、形而上学に求めた、人間の生き方の真理そのものである。

しかし現実では、自らを神と自称したサイエンティストが、自らの体験を真理として「全てを知り得たのだ」と陶酔しているような光景が多く観られるようになった。その大方は、無闇な正義欲に振り回されて、他者を執拗に攻撃している。つまり、サイエンスにおいて「私的な」の流行とは、また別の観点から見れば、いわば「エゴ」の時代を表象したものであるとも言えるだろう。また形而上の失われた時代というのは、普遍的な価値が、形而下すなわち神不在の物質的な価値観に置き替わる事を意味し、それが思想的独善を、生み出しやすい状況を作ってしまうのだ。つまりそれが、現代で 【思想的エゴイズム】が流行するという事の証左である。

そしてたった今、巷の書店では、精神世界の書籍が流行っていると言われている。その訳とは、こうしたエゴイズムの時代への適応を呼びかけたものではないかと、みやすけは推測している。こうして見ると、その時代の流行りとは、むしろ、その時代がそういう流行りの逆に偏ろうとするから、その抑止力として顕れるのではないかと、仮説が立てられる訳である。むしろそこには、その流行りと拮抗する世の中の流れがあるのだと、そう仮説が立てられる。

そんな形而上が事実上失われた現代において、改めてその普遍性を持ち得るのは、【他者】という存在である。人間は、社会を形成して、その関係性の中で生きる動物である。そしてこれまで、そのような智慧を、神や、精神、そして魂や美に、その普遍性を求めて探究して来た訳である。人間とはそうした広い世界に、想いを自由に馳せて、これまでの永い歴史を紡いで来た。しかしどれだけ遠くの土地に想いを馳せようとも、結局は、近しい人間との関係性に立ち帰って行くのだろう。そして現代、人類普遍の法則はもはや捨て去られた。そして新たに、人間と人間の関係を再考する時代に、たった今突入したのかも知れない。

不安定な社会における形而上学 〜フィロソフィーと「私的」社会構造〜 Part3

特に現代は、この「私的な」の領域が、社会科学を中心に、半ば全面的に流入される時代となった。特に、社会科学の領域においては、「私的な」という一観点を用いて、人間社会を複雑に構築する、ありとあらゆる現象を解明して行く手法が流行している。

そんな現代とは、これらは既に言われている事ではあるが、前近代において機能していた階級制や身分制などの制度が成り立たなくなった世界である。更に現在の学説にならうと、前近代的な不自由で不平等な社会構造においては、アイデンティティで個人を規定する必要は、あまりなかったのだとされている。しかしこれは逆にいえば、社会構造が絶対的であるとは、いわば、その社会構造の内側の安定性を保証するものだった訳である。

特に現代では、様々な属性が多様化複雑化した世界となり、自らその最中で自己を確立し続けなければならない。また人間とは、社会を集団で形成しなければならない動物なのである。そうした渦中で、絶え間なく流浪して行く構造の最中に、独立した成員としての自我を保つ必要がある訳だ。そしてさらに、こうした構造社会の中では、この社会に対して、自らが充分に果たせるであろうメリットを、常に表明し続ける必要さえもある始末である。そう自分は、この社会にとって、常に有用なのだと宣言し続けなければならない。なぜなら、かつてのような絶対的な社会構造を失った為に、今度は、個人の自律を要請されるからである。

複雑多様化の社会とは、言い換えれば、それだけ不安定な社会構造という事である。そういう社会で絶対性を求める事は、ややもすれば差別を生み出す事にもなりかねない。なので、こうした社会構造に絶対性を定立させる事は不可能なのである。特に、今の世の中の時流は、相対性の時代である。そういう相対性の時代では、自ずと、個人というものを、それも自ら率先して安定させなければならない状況下に、晒される訳である。個人の安定化、それが現代社会の中で生き残って行く為の、必須なる術である。

そしてその最中で、常に「私的な」の一観点を導入するとは、絶え間なく流動する構造社会の裡で、ポジティブにアイデンティティを確立する為の手掛かりを、有益な形で提供をしているとも言えるだろう。これはどういう事かというと、順を追って説明すると、一つに、現代では形而上を形成する余地が、もはや無いのだという事実に、その解答の一端はあると見ている。

それは、この社会には、様々なアイデンティティを持つ人間が、同時に存在しているという事に深く関わっている。しかも、それが常に意識される範囲にである。そのような社会では、誰かしらの発言をも、そこに曝されるべく批判のようなものが、常に付きまとっている訳である。しかもそれは、決して見えない形で、周囲から常に見張られているような体感の下にである。つまり、社会の成員全てが合意し得る現象というものが、もはや成り立たたず、そうした渦中で、さらにその絶え間のない批判の眼差しに晒される上に、アイデンティティを確立した個人を形成する必要性に迫られているという事である。つまり、形而上学が成り立つ時代の、事実上の終焉において、個人というものがより前面化されるという事である。

そしてもう一つのキーとは、サイエンスにおける「私的な」の流行にある。それは、「アイデンティティ」という新たな個人の時代の出現に、深く影響されている。これらサイエンスの「私的な」の流行と、時代が要請する「アイデンティティ」の確立とは、実は、密接な表裏を共有しているのだ。このサイエンスの「私的な」の導入に際しては、それらは、主に社会運動に還元された形で、広くその思考体系が共有されるに至っている。それはつまり、「かつてのサイエンス」の事実上の解体を、余儀なくされているという事である。

それによって現代では、幅広い範囲に、サイエンスという思想が還元される契機にもなった。そこではもはや、かつてのような知識を待つ者、そして持たざる者という階級さえも消滅した訳である。つまり、サイエンスに「私的な」を導入した事、それによって様々な知識が溢れ出し、その移り行くトレンドの最中で、個人を確立するアイデンティティは、より醸成されて行くのだ。これらの事柄によって、アイデンティティがポジティブに確立されるに際しての手掛かりを示して見た。

しかしその際に現れる、それなりの弊害も、また危惧されるべきであると思う。それは、「私的な」という観点から広範な社会的現象を「語る」事に際しての自身のスタンスと、その振る舞いである。そこには、自ずと錯綜した視点と、それに絡んだ自分のスタンス上の盲目性に、着眼せざるを得ない状況に突き当たる事になるだろう。そういう傾向の弊害なのか、あちらこちらで、自らを神であると自称するような言動が、事もあろうがサイエンスを標榜する学者の間にも、その感染の規模が拡張してる傾向が観られるのだ。

「私的な」からの観点を軸においた探究には、先程にも述べたように、強烈な快楽的多幸感を伴うシチュエーションが想定され得る。このような多幸感こそは、思想を体系化するに際して、危険を伴う事があるのだ。かつてドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは、“神は死んだ” と、警句を延べた。ではなぜ “神は死んだ” のか。実のところその神を殺したのは、現代のサイエンスで流行している「私的な」の観点から思考する際に陥りやすい、強烈な思考的オーガズムではないか。思考的オーガズムとは、つまり自分の雄姿に酔い痴れている状態、またはその様である。

 

 

「主観」と「客観」そして【私的フィールド】へ 〜フィロソフィーと「私的」社会構造〜 Part2

そして、それらを根源とするサイエンスという営みがある。それは、仮説と証明を繰り返して、知を体系化し、やがて真理へと限りなく近づく為の行いである。これまでサイエンスの手法では、「主観」といわれる、哲学上では「感情」とも分類される箇所を、極力排除してきた。それは、サイエンス的手法においては、「客観性」に基づく分析が、より重要視されている為である。そしてサイエンスとはその手順の上で、厳密に体系化されたものである。またそこでは、特定のルールを厳守した中で、さらに厳密な証明を施す事を、条件とされている。

しかし、例え同じサイエンスの仲間でも、そこから様々に分岐したそれぞれの分野では、この証明される際に使用される手法の定義は異なる。だがあえて共通しているものとして、まとめられるならば、それは基本的には、観察される対象に課せられる自身の客観性というスタンスを、厳守しなければならない事であると言えるだろう。そして恐らく、これらは広くサイエンスという分野で、取り入れられているものであろうと思われる。そうして観る対象を、客体化して分節化可能な現象として扱い、それらを普遍的とされる理論に一体系化するという事が、主にサイエンスの分野でなされている仕事である。

しかし、サイエンスが勃興する以前の更に昔では、また事情は違っていた。特に古代哲学においては、人間としての在り方を、根源から問うという側面がより強く出ていた。それは、現代サイエンスのように、経済活動に直接応用されているような、実用的なものとは、また違うものであった。特に現代では、サイエンスの果たす役割は、純粋理論の分野だけではなく、応用理論としてより実用的な面に、幅広く利用されている。またサイエンスの発達と、人類の進化は、時代が進むに連れて、より加速的に密接な相乗効果を生み出している。このようにサイエンスとは、古代哲学が、「知を愛する〔フィロソフィー〕」と表現されるように、主に「人間の心の営み」に関して影響を与えていたものとは、違うものに発展して来たと言えるだろう。【しかし、数学の起源のような、農耕との関わりが深くあったとされる分野の研究もある。】

このように古代哲学においては、より良く人間が、僅かな期間内に人間として如何に誠意を持って生きれるのかという事に、またそこにどれだけの意義を持つ事が出来るのかを模索してきた。また、人間的なより良い生き方とは、どのような意義を持ち得るのかという事も、広く探究されてもいた。つまり古代において哲学とは、人間がより良く生きるための智慧を授かる為の手段であった。

そうして古代哲学においては、精神、神の存在、また魂や美という現象を通して、この世界の根源を探究しようとした。そして、そこから様々な流派を派生させながら、人間の生という現象を模索して来たのだった。もちろん、その対象は、人間だけという事でもなかった。それは「自然」に関する好奇心がそうである。流派の中には、世界を構成する「自然」の根源を究明したいとした派閥も存在していたのだ。またそれらは、哲学と区分され自然哲学と呼ばれていた。そうして、この世界の根源を究明したいと湧き上がる欲求めいた感情や、またそれらを発端に、現実世界に内在する、様々な現象の根源を探究していこうとする哲学を、総括して形而上学と言われている。

 

これまでサイエンスは、「主観」とされるものを極力排除してきた。その傾向をより強めたのは、16〜19世紀の期間だとされている。この頃のサイエンスは、観察器具による現象の観察と、幾度の実験による検証という手法を確立した時期である。これら観察器具と実験の発達によって、サイエンスは飛躍的に厳密化されていく事になる。例えば、およそ16世紀にコペルニクスによって唱えられた地動説も、当時の天体の厳密な観察によって立証されたものだった。それから一世紀を経て、ガリレオによって発明された天体望遠鏡によって、その傾向はより厳密かつ急速に発達するに至っている。

こうしたサイエンスを行う際の手法が、「私的な」を排除した理由とは、なんだろうか。それは恐らく、そこに自分こそが全能であるという惑いの余地を、あらかじめ封じる為のものであったのではないかと、みやすけは思うのである。

世界の根源を探究するというのは、ある意味、魔境を彷徨うのと似ている。それは、自分が世界を俯瞰するという状況において、まるで、自分が世界の総てを手に取っているのだ、という感覚を憶える瞬間がある為である。それは世界を「客観視」する事を、逆に、世界を「支配」していると錯覚する事によって生じるものである。

そしてそれは、「思考」という行為にも、その片鱗は現れるのだ。頭の中で、深化する思考。現実のあらゆる感覚を拒否し、より深く思考を研ぎ澄ませると、不意にとある臨界に達する瞬間を迎える。それは「ひらめき」と言われるものである。やがてそれに到達し、そこに深い手応えを感じると、自分こそが世界の覇者であるという全能感に支配されてしまうのだ。

こうした世界の全てを堪能しきった、あらゆるものを理解してしまったという体感、それはさも強烈な体感である。更にそこでは、酔い痴れるような快感が伴う。そうした極限の思考に到達される臨界点では、輝くような「ひらめき」があり、その更なる内部には、「世界を知ってしまった」という全能感が待っている。そしてその溢れ出す多幸の瞬間に、この世の神が現れるのだ。

このような体感とは、いわばこの「私的な」という観点からの思考が成し得る、耽美なる極限の形なのだ。そしてこの場合の神とは、身体感覚を強烈に体感する思考的オーガズムの渦中に現れるものなのだ。思考の極限にほろりと咲く可憐な華。そのような強烈な体感の最中に、全知全能の神は、煌めくような閃光を放って、探究する者を丸ごと呑み込んでしまうのだ。