心象風景の窓から

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金融経済と不良債権化の宿命 〜ナノ経済学への誘い〜Part2

金融における価値というのは、未来への借金の形で先行投資されるものであるが、このような価値とは、ブロックチェーンのような価値そのものを見つめる多数の眼によって維持されているという面があるだろう。つまり、モノを生み出すという 需要⇄供給 というような即物的な図式が当てはまらず、定まらない未来への投資という、あやふやなモノに対する先行投資によって、今現在の価値から遊離する形となっているのだ。

 

これは決定的に、資本の流れを不透明にした。現在の経済とは、いわゆる博打を打っているのと変わらない。未来への投資が、その時間の経過が、遠ければ遠いほど、単純に考えれば、利潤率は、概ね下がって行くものである。しかし現代の経済とは、この未来への投資を謳ったものが多い。あやふやな未来から借金し、どれだけ利潤が見込めるか不明なまだ見ぬ未来から、お金を逆流入させているのが、現代の経済である。

 

金融経済の最も恐ろしい面は、このような先行投資が、不良債権化する事である。実際そのような出来事は、日々起こっている事である。しかし、そのような不良債権化の原因とは、”産み出す経済” のイデオロギーと、”循環する経済” とを同一視する事によって起こる。”産み出す経済” と

”循環する経済” とは、互いにアンビバレントを形成するものである。このようなアンビバレンスな問題が、正しく認知されず、本質が不明瞭となる事によって、そのような歪みの中で、不良債権は生み出される訳である。

 

このような金融経済で、まず大切な事とは、”産み出す経済” と”循環する経済” の違いを認知しなければならない事と、そのような動態があるのは、エコノミック・アンビバレンスの中で初めて機能するという事、このようなアンビバレントを、丁寧に腑分けする必要がある。循環する経済の機能の中で、産み出す作用を持ち出すのは、必然的に不良債権化を伴う危険性があるという事、そして、そのような停滞こそ、産み出す経済の機能の中での、循環する経済が起こす、必然であるという事である。

 

循環する経済に当たっては、産み出す事は必要であっても、必ずしも必然ではない。産み出す経済に当たって、循環する事は、必要条件であっても、十分条件ではない。それぞれの経済圏が、互いにリンクする事はあっても、それが即ち、全体を表す動機にはなり得ない。たとえ、そこに経済的な同期が見られようとも、それが即ち経済的な動態に繋がる保証は予測し得ない。動機がどうであれ、未来を予測するための式は、未来を完全に予測する事は不可能なのである。

 

特に金融危機において、ことさら重要なのは、未来への先行投資が、充分に回収されない、またはそれを見越して投資したにも関わらず、それに似合う価値が見込まれないと信用を下落させた場合である。この二つに関わる事柄には、あやふやな未来から借金をし、利潤をさらに信用の名において、リボルビングの可能枠を増やし、信用を膨張させる。クレジット・エコノミーとは、信用の名の下に、未来への投資の可能枠を売買する投機型の経済である。

 

未来への投資とは、見込まれる利潤率の上のあるのではなく、クレジットを担保に時間を売買する事を意味する。ブロックチェーンとは、まさにこのような信用機構を維持するためのバイアスである。しかし、このようなクレジットを媒介する経済とは、循環する経済と言えるだろう。循環する信用機構に亀裂が走るのは、そこに利益が見込まれないという産み出す経済の価値が生じたときである。膨れ上がる信用は、その規模に比例して不安を生み出して行く。なぜなら信用というのはそもそも、ブロックチェーンのようなバイアスによって維持されているからである。そのようなクレジット・エコノミーは必然的に、規模的な制限によって、自壊する宿命を背負っている。

 

現代のようなグローバル・エコノミーにおいては、金融経済のあり方は、そのグローバルの規模において、自ずと自己矛盾に陥るリスクを、自ら背負っているのだ。その金融経済の動機が、クレジットである限り、信用下落という不安と隣り合わせのところで、投資を行わなければならない。投機と言われるものも、このような不安と信用との狭間から零れ落ちてくる利益を会得するものではないか。このように、金融市場を維持するためには、ぎりぎりの綱を渡っているのと同じ感覚の中で、ブロックチェーンでバイアスをかけ続けなければならない。