心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

社会問題の物語はいかにして消費されるか?

例えばセックスワーカーの問題。古来、性産業に従事する人達は、蔑みの目で見られていました。それは今でもそうなのですが、避難する側の論理では、道徳的な倫理的な観点からそう見るのです。セックスワーカーは汚らしいと、そう見る訳ですね。このようにセックスにまつわる仕事が汚らしく思える、これは社会で共有されている正当な道徳、倫理が前提となり、またそれらの観点から見た場合に、汚れてる、蔑視等の感情が生まれる訳です。つまり社会には正当な道徳、倫理という規範が存在する訳です。

 


従来、性に関する事柄は禁厭されてきました。これは、社会的な規範とセットのものです。だから、人はそこに蔑視を向ける。ただ、時代が進むにつれて、このような蔑まれた人たちの名誉を回復しようとする運動が盛んになってきます。つまり、人権ですね。人権の名の下にあってあらゆる人々は平等である、こういう訳です。では、平等とはいかなるものなのでしょうか? 

 


現在巷に出回っている、セックスワーカーに関する人権などを見ていますと、セックスワーカーの置かれている状況がいかに辛辣なものであるか、不遇な環境であるかというような謳い文句が散見されていますね。つまりセックスワークとは、こんなにもアンニュイな雰囲気の出ている仕事だと、だからそんな不遇な環境から救い出さなければならない、そう人権の名の下にですね。でも、セックスワークとは、そんなにもアンニュイなものなのだろうか? 

 


確かにアンニュイな人が集う場所なのかもしれない。でも、そういう仕事場など、幾らでもあるのではないか? では、なぜセックスワークがこんなにもアンダーグランドであるかのように、ライター達は喧伝しまわるのだろう。その答えを紐解くのに思えるのが、そんな彼らにも彼らなりの規範があるのでは、という事です。母子家庭、貧困、暴力等、セックスワークを語る記事には、そのような言葉が入り乱れていますね。そしてそれらを総称するようにして、アンニュイな表現でしめくくる。そうこれは社会問題であると、括る訳ですね。

 


でも、これらはある社会規範が前提となっている表現のようにみえます。なぜなら救わなければならない、という表現は、救われるべき正当な社会が存在しているという事だからです。そこはしんどいから、こちらにおいで、そう言う訳ですね。でも、彼らが言うような人権で護られし正当な社会とは、なんなのでしょうか? それは、結局社会の正当な規範に合わせてあげよう、それも、そのような規範とはあくまでも個人的な理想に立脚したものが多い。

 


そのように、規範にすべき社会のあり方という問題の立脚点とは、正当な倫理、道徳というものが模範となっています。それは、社会問題化するという点でも同じです。社会問題化する過程では、そこから脱却を可能にする正統な社会の規範が存在しています。なので結局、セックスワークを取り巻く現在のアンダーグランド化も、ライター側の持つ正当な社会的規範が前提となっているという事が言えるのではないか? つまり、そのような人権擁護側の社会規範こそ、セックスワークのアンダーグランド化の所以となっている。でも、人権擁護側が言うように、本当にセックスワークとはアンニュイな場所なのでしょうか? こういう相克の部分に、物語の消費は生まれるのではないか?