心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

フェミニズムは何を変えてきたか?

フェミニストが女性が社会から地域に疎外されると言った瞬間から、男性の生きづらさは、地域に依拠する事を許されず、仮に社会から排除される結果になろうとも、疎外された地域からの異質なものを見る視線によってさらに深刻化する結果となってしまった。

 

フェミニストは、女性の場合と同じように男性にも平等に当てはまる論理、つまり男性もまた地域から社会に疎外されるという、一般的に逆にも成り立つこのような論理を無視して、女性の怨嗟を一方的に迎合した。それに際し、その一方向に偏り行く流れに誰も危機感を煽らなかった。だから経済的社会ばかりが優越的となり、地域はどこまでも経済的価値から疎外される一方的となった。だから、経済的生産能力の無い人たちが、社会にも地域にも居場所が見つけられず、アウトサイドな狭間に無数に溢れる事となった訳である。

 

さらにフェミニストが男社会を攻撃した割には、その帰結が結局の所は、経済的価値を踏襲した男社会の贋作となってしまっているのもそうで、結局のところ、女性を社会から地域に疎外したとする論理が、そのまま経済的社会にリスペクトする形に収斂してしまい、結果的に女性の地位向上が経済的生産性の価値を生み出すとする実力主義とリンクする形となったのだ。

 

そのような話しの流れは、彼女らが家庭の場を再生産領域、そしてそこでの作業を家事労働と言ったのもそうで、結論的に、再生産領域でも家事労働としても、経済的な価値に赴きの無いものはなんでも、そこに実存的存在価値は無いと断言したのも、立派なフェミニズムの文脈だった。再生産領域内での無価値性や、男社会をメタファーとした経済的価値性とに敷衍させた家事労働と再生産とは、いわば経済的価値または経済的優位性を、無意識にしろなんらかの意識しろ、それらを基にして、フェミニズム理論の基調としているのは、経済的生産性またはそこから派生する経済的価値を理想化しているからではないか。

 

その筋で、フェミニズムは結局、社会から地域に疎外されたと言ったように、女性を今度は逆に地域からも疎外してしまい、社会側に圧倒的優位性を担保に社会進出を推奨してしまった。この事から、今や男社会と権力闘争を繰り広げる政治的集団に成り下がったのだ。その時流の中で、社会から排除された男性の居場所をも、社会からも地域からもダブルに奪う結果となった。しかし尚も女性の権利は叫ばれるし、家事、出産子育てが経済的価値、または生産性に置き換わっただけで、フェミニズムとは本質的には脱構築的行いではあり得ず、どこまでも経済的価値をリソースとした、男社会の贋作にしかなり得ないのだろう。

 

ようは地域と社会とは、バランスの総体であり、そこに経済的生産性の価値をよりどころにするのは、以ての外である。経済的生産性と資本的価値は、あくまでもそこを行き交う円滑油的な存在でしかないのだから。それが家事労働や再生産領域の本質的なのではない。なので当初掲げていた脱構築的なニュアンスは、もう現在のフェミニズムの凝り固まったイデオロギーには、何も響かないようになったのだろう。