心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

当事者間ディスコミュニケーションとサバルタン

社会問題に関心のある人たちがいる。ひとえに社会問題に関心を持つのは、ひょんなことから、その道に入る人が多いだろう。ある人は当事者を名乗り、その問題のイニシアチブを会得する契機を得る。またある人は問題意識をなんらかのきっかけで意識し、問題の解決に尽力しようとするだろう。

 

しかし、ある人が社会に問題の眼を向ける動機は、その人個人の感性に基づくものであって、それぞれの属性に還元化する事は不可能かもしれない。例えば、一般的に左翼といってもその根幹の問題意識のきっかけはみんなそれぞれ違うのかも知れない。この事は、右翼であろうが学者であろうが、活動家であろうが、そうであるかも知れない。

 

つまり社会問題の当事者とは、本来はノイジーな配色の総体を指すものであって、左翼という単体を示すような一つの色という事ではないのかも知れない。しかし社会問題を共有し合う当事者という括りで連帯を表明するのを目の当たりにすると、そこで表現される団結隊の中にも、そこの場に似合わないある一定の層が存在するのではないかとも考えられるだろう。

 

当事者という団結の中では、総ての問題が明瞭となり、総ての動員がそこでコミュニケーションを通した形で自明となるように暗黙に了解されているのではないか。しかしまた、スピバクの云うようなサバルタンのように、本来語るべくして存在する筈の当事者が語るべく言葉を持ち合わせていない、という現実もまた言われている事である。

 

しかしそれはサバルタンという隠された属性が存在するというような存在論レベルの話ではなくて、それは本来、社会問題を共有するどのような団結隊も、完全に意思疎通のネットワークというものがあり得るという前提こそが、実は間違っているという問い返しなのではないか。むしろ同種の動員を持ってしても、そもそも完全なネットワーク化というものが不可能なのではないか、というその問い返しなのではないか。

 

社会問題を語る当事者の関係性は、語るべく言葉の了解を通してネットワーキングされる。その際の言葉の持つべく信憑性は、共感を通じてその団結隊のあらゆる箇所に浸透させなければならない。しかし、その持つべく言葉の信憑性は、完全化される事は不可能である。この事を、当事者間のディスコミュニケーションと言おう。この事にならえるなら、当事者だから分かり合え、いつ何時も共感し合えて、かつその関係性は友愛的で、共に未来を革命可能にする同志であるとするのは、そっけいな判断であると出来るのではないか。

 

むしろ当事者によって、そこに関わるようになった動機が様々であると仮定する事が出来るのなら、そのコミュニティは、共感的である事は本質的に不可能であり、当事者間のディスコミュニケーションの折り合う中で紡がれる儀礼的な、そして慣例的なコミュニティにしかなり得ないと言えるのではないか。この文脈から推察するにサバルタンとは言葉を持たない者ではなく、むしろ、繰り広げられるディスコミュニケーションの最中で孤立化せざるを得ない、その中でも本質的に言葉を持ち得ない存在なのかも知れない。

 

しかしこのような当事者のディスコミュニケーションは、「語るべく言葉」の上で了解されているものでもある。それでもそれは本来のニュアンスのコミュニケーションではない。本来相反するベクトルを持つであろうイデオロギー同士の集い、それが当事者間のコミュニティである。そのようなノイジーな配色の総体である当事者のコミュニケーションは、本質的にディスコミュニケーションにならざるを得ない訳である。サバルタンとは、このようなディスコミュニケーションの最中で生まれる存在である。語る言葉の重きに比重が偏れば偏る程、このようなディスコミュニケーションの持つサバルタン性は、よりその度合いを高めていくだろう。

 

しかし当事者の団結隊とは、言葉にその重きを置く習性がある。言葉の持つ物語性の共感性の浸透圧が高ければ高い程、当事者の持つ言葉は、その団結力を高めていくのだろう。しかしそれは、コミュニケーションで成り立っている訳ではなり得ない。それぞれの社会問題に関わるようになった動機が様々なきっかけであれば、そのディスコミュニケーションの度合いは、当事者の団結隊の色合いをよりノイジーに分散化する傾向を見せるだろう。