心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

悲劇的リアリズムを生きる 〜IS(Islamic state)と若者〜 Part2

悲劇は日々繰り返される。その怒涛なる世界の内側で、まるで首を締め付けられるような苦しみに、のたうち回る彼らの呻き声が、このすぐ傍にまで滲み出している。しかしこの悲劇を視まいとする群衆の犇めく自惚れが、その救いを求める彼らの手を払い退けるのだ。群衆は、自らの保身のために、救いを求めるその手を突き放す。そして群衆は彼らに唾を吐き捨てる。臭いものには蓋を。群衆は、彼らが被る現実の悲劇を捩じ曲げ、人間世界にあまねく浸食しているネガティブを拒否する。そして彼らの悲鳴を、まるで掻き消すかのように、錯綜する祭り囃子。群衆は、すぐ傍にある筈の悲劇をも、まともに見ようとしない。そんな陶酔した群衆の一人一人の、その眼は赤く充血している。どこまでも終わり無く、昂揚し続けるテンション。祭り囃子は、その度に錯綜し、群衆の眼をさらに赤く充血させる。そこからは、誰一人として降りる事も、待ったをかける事も出来ない。そして躍動する群衆を映すその影には、今にも生命の光を掻き消されようとしている、彼らの虚ろな眼差しが映っている。

 

自分の住んでいる世界が、壊れて行く。ある日、音も無く。それはどこからともなく忍び寄り、あなたの首を掻き切るかもしれない。あなたは、自分の住んでいる街の景色が、徐々に色褪せていく瞬間が、本当に存在するのだろうかと思われるかもしれない。これまであなたが、この場所で生まれ、それから、物心がつくまでの間に縦横無尽に過ごしてきた、この街との信頼関係、そして絆。とてもすばらしい事だ。ここまで、何の脅威もなく過ごせてきた、かけがえない時間と想い出。そこにはなんの疑いの余地は無く、大切な人達と、出逢えるだけ出逢えた想い出がある。その確かな温もりは、あなたの心の裡で柔らかく脈を打つのだろう。その随所随所のあらゆる瞬間も、これまで心から大切にして過ごせてきたのなら、そんなあなたは大変すばらしい。

 

そう、平凡なるこの日常の何気ない流れも、そしてあの景色の何もかもが、わざわざそう意識しなくても、この街の日常への信頼が、これからも永遠に続いていくものだと、本当にそう思えているのなら、あなたはとてもすばらしい人生を歩めている事だろう。

 

それならば、あなたにぜひ尋ねてみたい事がある。いつかそれらさえもが、いとも簡単に崩れ去る瞬間が訪れる可能性が、少しでもあるとすれば、その時、あなたはどう思うのだろう。そんな事は、決してあり得ない。あなたは、この質問を跳ね除けるかもしれない。そう怒りを交えながらも。しかしそれでも、果たしてそう言い切れるだろうか。その全てを信じ切れるだろうか。この街を、そしてこの世界を。あなたはそこに、温かに脈打つ安心感と、世界への信頼があるのかもしれない。しかし少し待ってほしい。それならば、たった今、あなたの目の前に暗然としているものはなんだろう。

 

あなたの目の前にあるテレビでは、連日、犯罪に手を染めてしまった不幸なる人々が、大量の報道カメラの前に頭を垂れて、連行される姿が映し出されている。それも次から次に、その数はどこまでも知れない。そしてアナウンサーが原稿を、次々と読み進める度に、その不幸な人間に向ける報道カメラのフラッシュは、テレビ画面全体を覆う。そう瞬く間に、画面は鋭い閃光に満ち溢れていくだろう。では、あなたにはこの光景の意味が解るだろうか。

 

それでも、あなたはこの世界を信じられるだろうか。何気ない日常の中で信頼感を満たしている、あなたの立つこの足場が、とある簡単なきっかけで脆くも崩れ去る運命にあるのだとすれば。それでも何気ない日常が、これからも続いて行くものだと確信するのだろうか。ならばもう一つ、尋ねてみたい事がある。あなたは今、幸せですか。もしそうなら、それは果たして本当ですか。不幸を写し続けるテレビの閃光は、あなたの脳裏に問いかけている。そう、もうしかしたら明日のまったく同じ時刻に、今度はテレビの画面越しの報道カメラに頭を垂れ、この街の全てに絶望している、あなたが映っているかもしれないという事を。そんな光景をあなたは想像できるだろうか。そう、幸せな生活を送る何気のない日常が、もしかしたら、近い将来、崩壊するかもしれないという事を。つまりは、あなたの日常のあらゆる人間関係、常識、そしてあの頃の想い出さえも、いつ何時、その全てが崩壊するかもしれないという事を、果たして、あなたは想像出来るだろうか。

 

あらゆる安定が、敵意に満ち瓦解していく時、悲劇的リアリズムは、音も無く発生する。この北大生の口からは、未熟であるが故に不感症に陥った、愚鈍な現代青年の闇は一切感じられない。その語り調は何か乾いていて、そしてどこかよそよそしくもある。彼の紡ぐ言葉は、とても静かだ。しかし彼の発する言葉の隅々には、肉体的リアルの消失感が滲み出ている。この虚無感こそが、行き場のない焦りへと、駆り立てるのか。また、別にこのまま死んでもいいのだ、という乾いた静けさを醸すのとは、誠に対照的に、躍動を満たすような戦闘への憧れと、その熱意も見せているのだ。果たして彼の内部に持つであろう、激しさに滾るようなこのギャップとは、一体何だろうか。それは生と死が、彼の自己同一性の裡でせめぎ合いながらも、それらは一切混じり合う事もなく、むしろ背反し続けているようにも見える。

 

つまり死を望む「静寂」と、戦闘を望む「躍動」との、一見、互いに背反し合う筈の、生と死の両極端を司る感情が、彼の裡では、そのどちらもが、高いエネルギーを保持しながらも、互いに拮抗し合っているのだ。彼の言葉を聴くに、そんな彼とはまさに、この世界に見切りをつけ、死へと消えて行きたいという風にも取れる。しかしまた、それでもこのような現実の不条理の最中にでも、肉感的な生を実感して行きたいという風にも感じられるのだ。

 

彼の裡では、生と死のその両方が、相当なエネルギー量を持っている。そしてその膨大なポテンシャルが、渇いた現実の中で、感情がどれだけ虚構に苛まれている渦中にあろうとも、それでも熱意を持って躍動しようとしている。それこそ彼の強固なる意志へとリンクしているのかもしれない。そんなエネルギッシュな生と死が濃厚に満ちているジレンマこそが、彼を、IS(Islamic State)が創り出すユートピアに対する渇いた熱意へと駆り立てるのだろうか。彼の裡(うち)の「生と死」は、それらがエネルギッシュにただ林立しているだけではなく、その二つは、濃厚なるジレンマを形成しているのだ。

 

しかし、こんな絶望だけの世界にでも、確かな意義を見出そうとしている。その手段が、例え破壊をも孕む戦闘であろうとも。彼は必死にこの世界に確固とした居場所を求めている。恐らく、彼は「この世界」に対して、基本的な信頼が厚いのだ。ここまで世界に絶望しようとも、確かな安心感を求めているのは、それこそ、彼がこの世界にそれほどの信頼を寄せていたという、かつての名残なのではないか。あの頃の安心と信頼は、命共ども、全てを消し去ろうとする行為の邪魔をする。それは、この世界への厚く信頼に満ちた愛情のようなものだろうか。彼は、かつての安心を、IS(Islamic State)の創り出すユートピアに求めている。そこではかつての彼の安らぎが揺らめいている。IS(Islamic State)という夢が、彼の乾いた心に、そっと寄りかかる。彼にとっての確かなもの。それはかつて彼が当たり前に送っていたであろう、何気ない日常の延長のようなものなのだろうか。例えそれが戦闘という悲惨さの中であろうとも、そこには、とても肉感的な魅惑が満ちているのではないか。また却ってこのようなかつての信頼感こそが、彼が完全なる死に呑まれるのを、阻止しているのではないか。

 

このように悲観的リアリズムは、現実で起こるあらゆる現象の内で、あるきっかけでその安心と信頼が失われ、そしてそのような名残を引きずりながらも、むしろその過去の温もりに縋ろうとして、すでに荒廃してしまった世界を生きていこうとする中で生まれる。それはいうなれば、死の裡に生きるという事である。例え、世界への信頼が死に瀕しても、その心の根本に沁み渡った信頼感だけが、亡霊のように生きている。そしてその形骸化した筈の信頼が、過去の温もりの中で生き続けているのだ。だから簡単には死に切れないし、むしろその過去は、もうすでに触れられないが故に、大きく誇張されてしまう。そしてその誇大化された過去が、ユートピアという夢に変遷して行き、ついにはその幻想の裡で、大幅に理想化されてしまう。

 

彼の静かなる言葉には、厚く信頼していた今までの世界が、もはや確かなものでは無くなったという絶望感がある。また、そんな現実世界のあまりの脆さに失望している。しかし信頼感の充実していた現実の中で、のびのびと構築されて来たであろう、彼のリアリティは、突然の瓦解に見舞われる事態となった。一体何がそのきっかけだったのかは、一切触れられてはいない。がしかし、とうの彼は比較的に高学歴であり、他の学生よりかも、彼なりに世界が幅広く見えていたのではないか、という事しか推測できない。

 

そして、世界への絶望は、やがてこの世界との信頼感と共に育まれて来た、彼のアイデンティティにも、同じく危機が迫る事になる。彼のこれまで育んできたアイデンティティは、世界への信頼の崩壊と共に、その土台から脆くも、その全てが崩れ去る事になるのだ。世界への信頼と安心を元に、共に育まれてきたアイデンティティは、安定する世界と共に生きていた。だからその世界が根本から瓦解する事は、彼のアイデンティティに打撲のような脅しを受ける事になる。故に、彼は世界への絶望と共に、その世界と共にあった自己同一性もが、その崩落を共にしたのだ。事実、そのような境遇に置かれた人間は、普通、それからを正気で生き抜く事は、不可能である。

 

例えば、あなたの友人の態度が豹変し、突然、あなたが居なかった事にされたらどうだろう。あなたの信じている考え、嗜好の全てを、いきなり否定されたとしたら。また、あなたの家族、友人、そして同僚など、あなたの周囲に居た全ての人々から、突然、あなたを全否定するような言動、または態度を取られるとすれば、果たしてどうだろう。かつてあなたの周りで慕っていた人々は、あなたを置いて去って行く。やがてそこに遺るのは、あなたがかつてその輪の中に居て、その友人達との交友を楽しんでいた、その「過去の温もり」だけであろう。そして尚の事、その温もりを、忘れる事が出来ないのだとしたらどうだろう。あなたはまた別の場所へ、その温もりの代理を求めにいくだろう。そう、あの時の温もりを引きずったまま、あなたは誇大化された過去と共に、すでに荒廃し切った世界の中で、それでも生き続けるだろう。そう、信じられる友人も、同僚も、また家族さえも居なくなってしまった、このちんけな世界でも。そうこれこそ、この世界に対するかつての信頼なのである。しかしそのような形骸化した世界で、あなたは、正気を保って生きて行く事が出来るだろうか。とうの彼はそれが出来ず、異国の土地で、ジハードに赴き、敵に銃を突きつける事を選んだ。それは彼なりの生きるという事の、最後の選択であったのだろう。

 

例えば、現代の潮流では、相対主義が勃興し、その根はよりこの世界の深部へと拡がるにまで至っている。そしてその時流が徐々に世界を侵食するに従い、「善」と「悪」は共に絶対的な指標ではあり得なくなってしまった。つまり「善」とは「悪」とは何か、それを無限に問うのが現代なのである。それは自分の信念に支えられて来た正義が、いとも簡単な変革によって、無限に覆される世界なのだ。つまり現代の資本主義の立場も、実は確かな地位に永続しているような希望なのではなく、それはいつでも転覆の危機に晒されているのだ。そう現代にとって資本主義とは、たかが脆い足場の一部分に過ぎないのだ。

 

ある日、その優しい世界中の眼差しが、突如として、悪辣さへと豹変し、あなたに牙を剥き出す。今とは相対性の時代である。そうこれは、それまであなたを優しく包んでくれていた眼差しが、突然、あなたに襲いかかる事を予言しているのだ。そんな現代とは、あらゆる物事が、相対性の中で流浪する時代である。そのような、もはや絶対の無い世界では、今包まれている安心も、もしかしたら突然、近ければ明日にでも、あなたを突き放すものになるかも知れないのだ。昨日信じられていたあらゆるものが、今になって、いとも簡単に目の前から崩落して行く。全ての物事は、相対性のなす流動の中に、壊れて行く定めにある。そうそれは、あなたの何気ない日常も、そしておそらく、彼が過ごして来た過去の厚い信頼もが。

 

しかしその不安定になった世界でも、あなたは単純には死に切れない。なぜなら、あの頃の安心感を、今でもあなたの身体が憶えているからだ。一度その温もりを感じて受け入れた体験があれば、なおさら、簡単には裏切れないものである。それは、突然あなたを突き放した大切な人に対しても、そうすぐには簡単に、心から見限る事が出来ないのと同じように。また、その大切な存在の規模が大きければ大きいほど、そのような傷はいつまでも、あなたのぽっかり穴の空いた心に残り続けるだろう。そしてそれまでの温もりを、また別の形で求めるようになるだろう。そう、今抱えている虚しさを、また別の存在で埋めようとするのだ。

 

かつての世界への信頼感が、その信頼の厚さが故に、自殺に駆り立てるまでの決意を躊躇させる。そしてその過去の感覚が、すでに失われたが故に、歪んだ形で誇大化され、あなたはその誇張された夢の中で力無く浮遊しながら、いつまでも、優しい幻想を見続けるのだ。それはまさしく、死の裡で生きているという状態だ。彼が、IS(Islamic State)にユートピアを求めるのも、またそこで破滅的な生を生きようとするのも、そこにかつての信頼していた世界の偉大さを投影するからだろう。また、そのような絶大な信頼感が故に、それはより大きな衝動になっているのかも知れない。たとえそれが、異国の土地での凄惨な戦闘であろうとも、そこに彼は、偉大なる世界が崩れ去った後の救いを、求め続けるだろう。この世界が例え終焉に伏したとしても、その死の裡で、しぶとく生き続けようとする。そう、今では遠い過去となったあの日、確かであった世界の優しい幻影を見ながら、北大生の彼は、これからを生き続けるのだろう。このような事実こそが、悲劇的リアリズムを更に歪んだものにしている。

 

今回参照した記事の中に「これからもイスラム国への賛同を示す若者は、後を絶たないであろう(※)」という予言があるのだが、それは、IS(Islamic state)という、凄惨なユートピアに縋り付いてでも、崩れ去った過去の安心感を取り戻したいという、現代の若者の絶望を言い表しているようにも感じる。崩れ去ったモノの存在が大きく、かつそれが大切であると感じていたものほど、その代理となる夢はより増大され、それは歪んだ形に化ける。そしてあなたはそのゆりかごの中で、虚しさをどこまでも埋めようとするだろう。しかし、それにより心が完全に満たされる事はない。なぜならあの時の優しい体感は、もう二度と、この世界に戻っては来ないのだから。

 

このように、IS(Islamic state)という存在は、安住の居場所を探し続ける彼らにとっての、最後のユートピアなのだろう。しかし、これまでの話とは、そんな彼らに我慢の精神が足りず、思考が短絡的になっているのとは、少し次元が違う。むしろ、彼らの見ていた世界は、とても雄大なもので、むしろ心は満ち足りていたのだろう。それも、我々の想像が及ばない範囲で、リアルに。しかしそこの部分は、緻密に文字で描写出来るほどの技量も無いし、またそれらは言葉以前のより深部に沁み渡る、人間性の根幹を形成するナイーブな部位であろうとも思う。そこには、言葉として簡単に表現出来ない繊細なる人間の感情が存在していると感じる。だからここでは、その詳述を避けようと思う。

 

そして凄惨な戦闘をしてでも、再びその過去の安らぎを手に入れたいという、彼らのこの世界に対する貪欲さこそ、彼らの信頼していたかつての世界の重要さを物語っているように感じられる。むしろ彼らには、人間的感情を豊かに包摂した、ある意味でのピュアさがあるように感じた。彼らの感情がピュアであるからこそ、素直に傷つき、そして深くこの世界に絶望したりするのだろう。絶望というのは、ある意味では、期待の裏返しでもある。だからこの裏返しの作用にこそ、彼らがこの世界に対して、厚く信頼寄せていた、真の動機が見えるようだ。それは絶望から見える、彼らの本来の姿なのだろう。

 

しかし、IS(Islamic state)のような、一見、煌びやかであるそのユートピアにも、またその安定を崩壊させる、退廃の影は映っているのだ。相対性の世界は、いずれ、そのゆりかごさえも絶望に変えるだろう。そう、その終わる事の無い相対性の循環の中で、この世界への信頼感は、どのような強固さであっても、いずれ粉砕されてしまう運命にある。ここは諸行無常の世界。それならば、もはやこの世界に信頼の土地を求めるのは、終わる事の無い虚構を見る事と同じなのだろうか。やがて北大生の彼には、彼のジハードを遂行する瞬間が訪れるだろう。しかしやっとの事で手に入れたその安心も、どこまでも広いこの優しい世界は、これからも無限に裏切って行くのだろう。そう、そんな彼らが偉大なる過去から、その心が完全に解脱出来る、その時までは。

 

 

〜IS(Islamic state)と若者〜 

参照の記事

北大生は違ったフィクションに生きたかった
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20141008

北大生支援の元教授インタビュー
公安の事情聴取を受けた 中田考氏が語る「イスラム国」
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4290