心象風景の窓から

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エゴイズムの時代のサイエンス 【神は死んだ】のこれから 〜【私的】社会構造とサイエンス〜 No.3

しかしその際に現れる、それなりの弊害も、また危惧されるべきであると思う。それは、「私的な」という観点から広範な社会的現象を「語る」事に際しての自身のスタンスと、その振る舞いである。そこには、自ずと錯綜した視点と、それに絡んだ自分のスタンス上の盲目性に、着眼せざるを得ない状況に突き当たる事になるだろう。そういう傾向の弊害なのか、あちらこちらで、自らを神であると自称するような言動が、事もあろうがサイエンスを標榜する学者の間にも、その感染の規模が拡張してる傾向が観られるのだ。

 

「私的な」からの観点を軸においた探究には、先程にも述べたように、強烈な快楽的多幸感を伴うシチュエーションが想定され得る。このような多幸感こそは、思想を体系化するに際して、危険を伴う事があるのだ。かつてニーチェは、“神は死んだ” と、警句を延べた。ではなぜ “神は死んだ” のか。実のところその神を殺したのは、現代のサイエンスで流行している「私的な」の観点から思考する際に陥りやすい、強烈な思考的オーガズムではないか。思考的オーガズムとは、つまり自分の雄姿に酔い痴れている状態である。

 

かつて、サイエンスで流行の兆しを迎えようとしていた、この「私的な」という観点こそ、それはやがて “神が死ぬ” 予兆として現れたのかもしれない。この「私的な」という観点による探究では、時たまこのような多幸感は観られる。実はこの「私的な」という観点からは、思想的独善が生み出され易くなるのだ。そしてかつて、ニーチェによって “神は死んだ” と言われて久しい時間が経った。しかしそれにしても、ニーチェの言った “死んだ【神】” とは、一体何を指す語なのだろうか。その正体とはつまり、いわゆる社会で共有されて来た【絶対性〔ストーリー〕】を指す言葉なのではないか。

 

つまり、これまでの「絶対性〔ストーリー〕」が零落し、やがて、相対性の時代が到来する事を予言した警句だったのではないか。では、相対性の趨勢する時代における神とは、一体何だろうか。それは流動する相対性によって社会構造が不確定化、または不安定化するに際して、アイデンティティを通して絶対性を帯びた 【個人〔私的〕】 なのではないか。しかし神を、絶対性の象徴であると断言するのは、少々早計かも知れない。が、社会構造が不安定化するという状況において、なおかつ社会で共有されるべく「絶対性〔ストーリー〕」も成立し得ない時代においては、自ずと【個人〔私的〕】が絶対性を持つに至るのは、半ば時代の宿命である。

 

そうした【個人〔私的〕】の絶対化、それは思考する自分が、まるでこの世の神であるかのような錯覚を引き起こす原因にもなりうるだろう。更にそうした誤解により、さも自分は “この世界の全てを知った者” として、横暴な振る舞いを起こす事態にもなりかねない。それはつまり【自分こそが神】であるという、事実上の宣言である。

 

かつてのフィロソフィーでは、自分とは、“決して知りえない存在” であるというような、人間とはそもそも不完全な存在であるとする了解があった。だから、神、精神、そして魂や美の根源に対して真摯でかつ敬虔で居られたのだろう。しかし、そうした古代においても、それらの態度を損なった人達が居たのだ。そんな彼らは、皮肉を篭められて “ソフィスト” と、揶揄されていた。ソフィストとは、「詭弁者」という意味で使用されていた言葉である。詭弁者である彼らは、自らの誤ちを隠したり、自分の成果を無駄に誇張する為に、真理を偽造したり、故意に振りかざしたりしたのだ。

 

そんな彼らの振る舞いの発端には、「主観性=【個人〔私的〕】」と「客観性=【フィロソフィー〔関係的〕】」とを混同させて、そこから倫理的道義的に誤った思想を構築していたのだろう。しかし、何においてどのような観点が最善であり、唯一正しい哲学であるかという事は、そもそも本質論的に不確定である。だから、必ずしもそういう状況に陥る事が、最悪であり、偽善であると一方的に決定する事も、また不可能ではあるのだ。

 

しかし “神は死んだ” という警句が、自らを神であると宣言するサイエンティストが現れるという言葉だったとすれば、どうだろうか。自らが独善的に盲信する真理で、他者の真理を猛攻する時代の到来を、かのニーチェは予言したのだろうか。かつてニーチェが予言したであろう、社会で共有されるべく【絶対性〔ストーリー〕】が成り立たず、実質的に形而上学が成り立たなくなってしまったとすれば。しかしそんな現代においては、「私的な」から成り立つ個人の真理にとって、【他者の真理】とは、これまでとは違う形式で、形而上を継承する役割を待ち得る筈なのである。つまり、他者の存在が、思想的にも身体的にもより身近である現代特有の距離感こそが、逆に、そこに到達し得ない存在としてのポジションを持ち得るのだ。

 

これはどういう事かと言えば、つまり【他者の持つ真理】こそが、フィロソフィーでいう所の【決して触れられないもの】の箇所に相当するのではないかと推測されるという事である。例えば、相手がそこに居るにも関わらず、その心を完璧に知るという事は不可能であるという見方からも、それが伺えるだろう。近くに居るのにも、関わらずそれに触れる事も、知る事も出来ない、これは【他者】という存在だけではなく、これまでの形而上学の対象であった、神、精神、また魂や美という現象もそうである。決して触れられない存在として、その根源を探究する事、それはつまり人間の生き方であり、人間としての真善美であった訳である。かつそれが形而上的な現象だけではなく、【親しい友人】でさえも、その定義に十分に当てはまる。

 

しかし、形而上学で扱われるような真善美が、人類に普遍的なものとして共有される時代は、とうに終わったのだ。しかし、それは普遍的に共有されるべく大きなストーリーの【元型】を失っただけである。それは決して普遍性がというのではない。だからそのような普遍性という本質こそは、形を変えて現代でも残滓として残り続けている。そしてその名残はあちらこちらの箇所に観られるのだ。

 

例えば現代では、アイデンティティに規律された個人というものが信仰されている。またつい最近までは、「自分探し」に代表されるような、本当の自分とはなんぞやを探究する自己啓発が流行していた。そしてある人は、愛する人の裡に、本当の愛を夢見るものであり、またある人にとっては、日々意識を高める事に確かな充足感を求める。そしてこれらに広く観られるのは、自分にとっての【普遍的な生】というものである。このような現代特有とされている【普遍的な生】という理想こそ、実は、かつて様々なフィロソフィア達が、形而上学に求めた、人間の生き方の真理そのものである。

 

しかし現実では、自らを神と自称したサイエンティストが、自らの体験を真理として「全てを知り得たのだ」と陶酔しているような光景が多く観られるようになった。その大方は、無闇な正義欲に振り回されて、他者を執拗に攻撃している。つまり、サイエンスにおいて「私的な」の流行とは、また別の観点から見れば、いわば「エゴ」の時代を表象したものであるとも言えるだろう。また形而上の失われた時代というのは、普遍的な価値が、形而下すなわち神不在の物質的な価値観に置き替わる事を意味し、それが思想的独善を、生み出しやすい状況を作ってしまうのだ。つまりそれが、現代で 【思想的エゴイズム】が流行するという事の証左である。

 

そしてたった今、巷の書店では、精神世界の書籍が流行っていると言われている。その訳とは、こうしたエゴイズムの時代への適応を呼びかけたものではないかと、みやすけは推測している。こうして見ると、その時代の流行りとは、むしろ、その時代がそういう流行りの逆に偏ろうとするから、その抑止力として顕れるのではないかと、仮説が立てられる訳である。むしろそこには、その流行りと拮抗する世の中の流れがあるのだと、そう仮説が立てられる。

 

そんな形而上が事実上失われた現代において、改めてその普遍性を持ち得るのは、【他者】という存在である。人間は、社会を形成して、その関係性の中で生きる動物である。そしてこれまで、そのような智慧を、神や、精神、そして魂や美に、その普遍性を求めて探究して来た訳である。人間とはそうした広い世界に、想いを自由に馳せて、これまでの永い歴史を紡いで来た。しかしどれだけ遠くの土地に想いを馳せようとも、結局は、近しい人間との関係性に立ち帰って行くのだろう。そして現代、人類普遍の法則はもはや捨て去られた。そして新たに、人間と人間の関係を再考する時代に、たった今突入したのかも知れない。