心象風景の窓から

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サイエンスの解体とアイデンティティの行方 〜【私的】社会構造とサイエンス〜 No.2

これまでサイエンスは、「主観」とされるものを極力排除してきた。その傾向をより強めたのは、16〜19世紀の期間だとされている。この頃のサイエンスは、観察器具による現象の観察と、幾度の実験による検証という手法を確立した時期である。これら観察器具と実験の発達によって、サイエンスは飛躍的に厳密化されていく事になる。例えば、およそ16世紀にコペルニクスによって唱えられた地動説も、天体の厳密な観察によって立証されたものだった。それから一世紀を経て、ガリレオによって発明された天体望遠鏡によって、その傾向はより厳密かつ急速に発達するに至っている。

 

こうしたサイエンスを行う際の手法が、「私的な」を排除した理由とは、なんだろうか。それは恐らく、そこに自分こそが全能であるという惑いの余地を、あらかじめ封じる為のものであったのではないかと、みやすけは思うのである。

 

世界の根源を探究するというのは、ある意味、魔境を彷徨うのと似ている。それは、自分が世界を俯瞰するという状況において、まるで、自分が世界の総てを手に取っているのだ、という感覚を憶える瞬間があるためである。それは世界を「客観視」する事を、逆に、世界を「支配」していると錯覚する事によって生じるものである。

 

そしてそれは、「思考」という行為にも、その片鱗は現れるのだ。頭の中で、深化する思考。現実のあらゆる感覚を拒否し、より深く思考を研ぎ澄ませると、不意にとある臨界に達する瞬間を迎える。それは「ひらめき」と言われるものである。やがてそれに到達し、そこに深い手応えを感じると、自分こそが世界の覇者であるという全能感に支配されてしまうのだ。

 

こうした世界の全てを堪能しきった、あらゆるものを理解してしまったという体感、それはさも強烈な体感である。更にそこでは、酔い痴れるような快感が伴う。そうした極限の思考に到達される臨界点では、輝くような「ひらめき」があり、その更なる内部には、「世界を知ってしまった」という全能感が待っている。そしてその溢れ出す多幸の瞬間に、この世の神が現れるのだ。

 

このような体感とは、いわばこの「私的な」という観点からの思考が成し得る、耽美なる極限の形なのだ。そしてこの場合の神とは、身体感覚を強烈に体感する思考的オーガズムの渦中に現れるものなのだ。思考の極限にほろりと咲く可憐な華。そのような強烈な体感の最中に、全知全能の神は、煌めくような閃光を放って、探究する者を丸ごと呑み込んでしまうのだ。

 

特に現代は、この「私的な」の領域が、社会科学を中心に、半ば全面的に流入される時代となった。特に、社会科学の領域においては、「私的な」という一観点を用いて、人間社会を複雑に構築する、ありとあらゆる現象を解明して行く手法が流行している。

 

そんな現代とは、これらは既に言われている事ではあるが、前近代において機能していた階級制や身分制などの制度が成り立たなくなった世界である。更に現在の学説にならうと、前近代的な不自由で不平等な社会構造においては、アイデンティティで個人を規定する必要は、あまりなかったのだとされている。しかしこれは逆にいえば、社会構造が絶対的であるとは、いわば、その社会構造の内側の安定性を保証するものだった訳である。

 

特に現代では、様々な属性が多様化複雑化した世界となり、自らその最中で自己を確立し続けなければならない。また人間とは、社会を集団で形成しなければならない動物なのである。そうした渦中で、絶え間なく流浪して行く構造の最中に、独立した成員としての自我を保つ必要がある訳だ。そしてさらに、こうした構造社会の中では、この社会に対して、自らが充分に果たせるであろうメリットを、常に表明し続ける必要さえもある始末である。そう自分は、この社会にとって、常に有用なのだと宣言し続けなければならない。なぜなら、かつてのような絶対的な社会構造を失った為に、今度は、個人の自律を要請されるからである。

 

複雑多様化の社会とは、言い換えれば、それだけ不安定な社会構造という事である。そういう社会で絶対性を求める事は、ややもすれば差別を生み出す事にもなりかねない。なので、こうした社会構造に絶対性を定立させる事は不可能なのである。特に、今の世の中の時流は、相対性の時代である。そういう相対性の時代では、自ずと、個人というものを、それも自ら率先して安定させなければならない状況下に、晒される訳である。個人の安定化、それが現代社会の中で生き残って行く為の、必須なる術である。

 

そしてその最中で、常に「私的な」の一観点を導入するとは、絶え間なく流動する構造社会の裡で、ポジティブにアイデンティティを確立する為の手掛かりを、有益な形で提供をしているとも言えるだろう。これはどういう事かというと、順を追って説明すると、一つに、現代では形而上を形成する余地が、もはや無いのだという事実に、その解答の一端はあると見ている。

 

それは、この社会には、様々なアイデンティティを持つ人間が、同時に存在しているという事に深く関わっている。しかも、それが常に意識される範囲にである。そのような社会では、誰かしらの発言をも、そこに曝されるべく批判のようなものが、常に付きまとっている訳である。しかもそれは、決して見えない形で、周囲から常に見張られているような体感の下にである。つまり、社会の成員全てが合意し得る現象というものが、もはや成り立たたず、そうした渦中で、さらにその絶え間のない批判の眼差しに晒される上に、アイデンティティを確立した個人を形成する必要性に迫られているという事である。つまり、形而上学が成り立つ時代の、事実上の終焉において、個人というものがより前面化されるという事である。

 

そしてもう一つのキーとは、サイエンスにおける「私的な」の流行にある。それは、「アイデンティティ」という新たな個人の時代の出現に、深く影響されている。これらサイエンスの「私的な」の流行と、時代が要請する「アイデンティティ」の確立とは、実は、密接な表裏を共有しているのだ。このサイエンスの「私的な」の導入に際しては、それらは、主に社会運動に還元された形で、広くその思考体系が共有されるに至っている。それはつまり、「かつてのサイエンス」の事実上の解体を、余儀なくされているという事である。

 

それによって現代では、幅広い範囲に、サイエンスという思想が還元される契機にもなった。そこではもはや、かつてのような知識を待つ者、そして持たざる者という階級さえも消滅した訳である。つまり、サイエンスに「私的な」を導入した事、それによって様々な知識が溢れ出し、その移り行くトレンドの最中で、個人を確立するアイデンティティは、より醸成されて行くのだ。これらの事柄によって、アイデンティティがポジティブに確立されるに際しての手掛かりを示して見た。