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心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

「皮膚」を脱ぐ為の表現行為 No.4

現在、世界中のあちらこちらで、様々な表現を目の当たりにできます。しかし、人によっては、差し向けられる表現に嫌悪感を抱くものもあるでしょう。なんなんだこれは、と。しかし実は、その嫌悪感の根源こそ、それはその人にとって、より生々しく肉感のジクジクと伝わる表現なのではないか。みやすけはそう感じます。実はそれこそ、身体が求めているのです。そのグルーヴをガチガチの皮膚が呼応しようとしている。そう、肉体が共鳴するから、それが嫌悪感として感じるのです。だからそれがドロっとしたような感情であったりする。

 

それに、自分の感覚に素直になれないと、妙に嫌な感じがするものなのです。それも一種の防衛反応です。ある表現に対して、嫌悪感が大きいという事は、実は、それに共鳴する度合いも高いのですが、それに素直に身を委ねられないという事なのです。これは、人前で頑なに裸になろうとしないという事でもある訳です。そうして、自分を過剰に護ろうとする、言うなればこれは、それだけ周囲に脅威を感じているという証左でもあります。

 

しかし本当に自分とはなんにも関係がないと思えるのなら、普通、何の感情も湧きません。でも、それになにかドス黒い感情が湧き上がってくるのなら、それは本当に、単に感情の迷いの作用なのでしょうか? いいえ、それは恐らく、硬くなって歪になった皮膚に、じかに響いているからではないかと思うのです。普通なにかが響かないと何も鳴りません。そう、嫌悪を感じているというこの状態こそが、その表現に共鳴しているという状態なのです。まさに、それが如何に良いものか、または悪いものかに関わらず、です。みやすけはそう思います。硬くなって歪になった疾病程、つい、その本能を揺さぶるような刺激には、ついつい反応してしまうものです。

 

それに現代は、皮膚が過剰に膨れ上がり、なおかつ石化している人間が大半であろう時代なのです。しかも、その状態が普通の感覚であると、大方の人たちは思っている。そう、鈍感こそが普通であると。だから、敏感な人はことごとく生きづらいのです。そして、その鈍感さを打破しようとする表現は、ものによっては異様に観られるし、また嫌悪、蔑視されるのです。それは、表現を見せるとは、普段なんとなく護りに入っている、日常のテリトリーを壊す試みだからです。そうそれこそが、皮膚を脱ぐという試みなのです。

 

しかし肉体を覆う皮膚も、古くなった角質は、代謝によって剥がれ落ちるものです。それが皮膚の本来の姿です。この代謝こそ、生きる為に必要不可欠なものです。が、現在はその皮膚の角質が、硬直したまま剥がれて落ちて行かないのです。そう、この皮膚の異常こそは、現代のひっ迫した状況と、とても似ているような気がします。これは先ほど書いたようなペルソナの話もしかりです。しかし、いくら皮膚に代謝があると言っても、角質という存在はまったくの邪魔者ではありません。それは、ある一定の角質層が、肌の保湿を助ける作用があるからです。それに、どんなに古代に遡り、それが幾らプリミティブな状況でも、まったくペルソナのようなものが必要なかったのだと断言するのは不可能です。なぜならば、生物というものはそもそも、皮膚か、またそれに相当する臓器があるという事が大前提となっているからです。つまり、それが観念的であろうが、物理的であろうが、自分を護る手段は、必ず必要なのです。

 

生物が永い進化の末に、皮膚という臓器を生み出し、自他を区別するようになったという過程において、現代の人間のように、すでにそれが過剰にまで溢れる事態にまで陥ってしまったのは、なかばその道の宿命なのでしょう。すべては必然のもとで、この世界を廻るものなのでしょう。だから、そうした進化に抗うのではなく、それに適うメンテナンスが必要だという事なのです。それはどんな製品でも、その設計が緻密になればなるほどに、その後のメンテナンスは、より小マメにしなければならないのと同じなのです。例え設計図に反抗しても、待っているのは高値でせっかく買った製品の、挙げ句の果ての故障という訳です。

 

だから知能と、それに付随してその認知と行動が複雑に高度化すれば、それに相応するメンテナンスは必至なのです。これは、人間身体の野生本能の退化うんぬんの話ではありません。むしろその野生の本能が、今でも活きているからこそ、メンテナンスもしなければならない。つまり人間の進化が複雑に高度化すれば、おのずとこうなる宿命だったのです。

 

そういう進化の流れの必然の中で、再び表現する事の意義を考えてみますと、これは社会性というものが、より発達していく事がこれからも確実なんだとすれば、そこにこそ表現する事の意義は、おのずと付随して行く筈なのです。つまり両者は共に必要不可欠な存在という事です。表現の行為こそは、これからの人間の生物学的な進化に対して、なんらかの作用で影響し続けていくのでしょう。なので人間が現代でも表現を求めるのは、そこにこれからの救いを求めるからだとも言えそうです。

 

ではその救いとは、なんなのでしょうか? それは日々の社会的生活により窒息してしまいそうな肉体に、爽やかなる風穴を開ける役割なのです。またそれを生きる為の気晴らしとも言えるでしょうか。彼らのように皮膚の内部の「肉をさらけ出す」事、その生々しくオドロオドロしい表現こそが、それを求める時代の気風を表しているようでなりません。それぞれの時代は、これからを生き抜く為の救いを求めているのです。とどのつまり、その時代時代を代表する流行りとは、まさにそういうものなのかも知れません。

 

しかしよく巷では、最近の表現はうるさいだけだ、自己を面前に押し出し過ぎているというような話もちらほらと流れています。では、彼らが奏でているうるさい音は何を表象しているのでしょうか? また彼らが自分の表現を、衆目の面前にこれでもかと押し出さなければならないのは、一体ナゼなのでしょうか? それはそれだけの圧力と動力を駆使しなければ決して届かない、または打破不可能な現実が、彼らには見えているからです。だから彼らは決して、ただマイクを片手にガナっているだけではありません。そこに賛同者がいる限り、その部分にはなんらかのキーがあるという訳なのです。

 

これまでの進化の過程で、皮膚という臓器が生まれ、やがてそれがさらに衣服をまとい、そしてこの現代の社会では、ついに心理の面にまで、ペルソナという衣服をまとって生きなければならない地点にまで到達しました。この現代のように複雑でより高度化の様相を呈してしまうと、それだけメンテナンスの方も大変な労力と時間が必要になります。だからそれだけのギャップを補強する為に、強烈なパワーとビビッドが今の表現では必要とされているのでしょう。皮膚を脱ぐ為の表現行為、このような時代こそが、今この瞬間の進化という歴史なのです。