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心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

そもそもの学校の意義とはなんだろう 〜体罰は是か非か?〜 No.1

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卒園時、各校区に振り割される時も、また入学式の時も、とうの子どもは訳も分からないままに、学校制度に馴染むための工程を進んで行きます。かつてのみやすけ自身もそうだったように、大人からは学校に行きたいか、行きたくないかの明瞭な説明も、一切無しに、全ての子どもが入学させられる訳ですよね。だから、学校に合わない子どもが出てくる事、それ自体は必然的な訳なのですよ。

 

子どもとの合意も何も無く、ただエスカレーターに乗るように通わされる訳ですからね。だからそこで足をすくめたり、拒否感情が芽生えるのはしょうがない側面もあるわけです。子どもは意味も無く反抗するのではありませんね。その問題行動には、何かしらの動機があるわけです。それは単なる若気の至りなのではありません。子どもには子どもなりのロジックと感情があります。彼らも人間ですから当たり前なのです。そのような背景を忘れたような大人が、まったく言う事を聞かない子どもが居て困っていると言う。だから言うことを聞かすためには、体罰は必要だと。そう言うわけなのです。

 

しかし、根っから学校に合わないような子どもが、教師の言う事を聞かないのは、至極当前です。なぜなら、はなから行きたくて登校してる訳じゃないからです。これは入学時に学校に行くか行かないかの選択権を一切与えず、一方的に登校させたのが第一の理由でしょう。だからそういう子どもが言う事を聞かないというのは、その子にとってのまっとうな意思表明なのだという訳です。このように思う事から、子どもに対して体罰をする、またはしても良いという風潮に、みやすけは疑問を投げかけようと思っています。

 

よく大人の方は、子どもは嫌でも学校には行かなければならない、ズル休みをしてはいけない、みんな我慢してるんだからと言いますよね。しかし、言うこと聞かなければ体罰やらなんやらするぞ、と子どもに何かとどやしつける、とうの大人の側も、働きたくもない職場は、さっさと見切りをつけるでしょう。嫌なことがあればすぐに逃げる、それが大人の世界なのです。そういう風にして大人たちは、普段逃げたりとか、ズルをしてる。そのクセ彼ら大人は、やたらと子どもに忍耐を押し付ける。はて、彼らの言う忍耐とはなんなのでしょうか?

 

その場所の居心地が悪けりゃ、居心地のイイ場所に移動する。これは動物の本能です。それをミスミスとやってのけるのが大人なのに、子どもには忍耐を強要する。これでは教育現場が狂うのは、当たり前です。まず大人が逃げ惑っている状況を、どう子どもに納得のいく説明ができるのか、これが荒れた教育現場を復活させる、一つの肝ではないでしょうか?

 

よって荒れた教室の秩序を回復するためには、普段の大人のズルを子どもに理解させることが、第一の近道なのだと思います。子どもは意外に、普段の大人の行動を正確に把握しているものです。だから子どもの感性を侮ってはいけません。子どもを本気で納得させるためには、まず大人側がその忍耐の鑑にならなければなりません。ただ自分の身だけを守るような大人に、子どもの瞳が輝くことは、まずありえません。

 

それに巷のコメンテーターたちは、学校の問題において、子どもたちの問題行動に関して、何かと心理学的な要因を貼り合わせて、ワラワラと語ったような気になっています。が、子どもが問題行動を起こすのも、単に、学校がつまらないか何かで、根本的に学校と肌が合わない、それだけなのだと思います。

 

しかしとうの大人であれば、会社に所属する場合でも、それは契約なので、嫌な事があればさっさと打ち切ろうとしますね。嫌だったら逃げる、それが大人になって通用する手段です。ではなぜ、それが子どもには許されないのか? 子どもに叱咤する大人は、無理やり言うことを聞かせようと、体罰を振るおうとしますね。でも、それと同じ事を大人がされたらどうでしょう? それを知った適当なライターがこれは人権問題だ、社会問題だと警告を発し回りますよね。仮にそれに火が着けば、社会総体の大問題扱いなんですね。しかしそれと同等の事が子どもになされても、その場合は、却って子ども本人の問題にされてしまう訳です。これは明らかにおかしいですよね。

 

「子どもが従わない、それは何故だろう? どうすれば従わせる事が出来るのか? そうだ体罰だ!」大抵の大人は、そう思う訳ですが、では、大人に対してこれと全く同じ事を行なえば、どうでしょうか? つまり出社を拒否したり、仕事を怠けているから、ムチで引っ叩いて体罰を与えよう。もしそう実際に敢行されればどうなるでしょうか? そうですよね、即メディアは、深刻な社会問題としてドラマ化して、その体罰をした人物は、各方面からバッシングされるでしょう。

 

しかし現在のように子どもになんの発言権も、決定権も与えず、ただ校則に従わせる。従わなければ、体罰という拳が降ってくる。子どもたちにこのように振るう行為、それこそは、動物を意のままに調教するのと基本的には同じ手法だと、みやすけは思っています。こちらの論理に従わないからムチを打つ、体罰とは半ばこういう理屈で行われていましたね。

 

現代の教育現場では、子どもが荒れているといわれて久しくなりました。しかしとうの教師はヘトヘトになってその場から逃げてしまいます。おかしいですよね。子どもが同じ行動に出れば、子どもの方が問題とされ、態度を矯正されるのに対して、教師の方は、これは社会問題だからと許される。共にまったく同じ行動でも、大人だからという理由で許されているのです。言うこと聞かん子どもを相手にするのはしんどいね、そう周りの同僚から慰撫される訳です。

 

そういう風に子どもを扱うこと自体、何らかの人権の侵害に抵触するのではないでしょうか。子どもへの一方的なヘイト、そのようにみやすけには見えてしまいます。教師はどんなに逃げても良いが、子どもは逃げてはいけない。子どもがしんどかったら教師は逃げても良いけど、しんどい教師からは、子どもは逃げてはダメだという訳です。このような歪みこそが、教育現場のしんどさを、更に歪曲化させているのでないでしょうか?

 

しかし巷には、あの時に体罰があったから今の自分が居るんだ、むしろあの時シバいてもらって大変に喜んでいると、このような事を言う大人がいますよね。でも、現代で問題になっている体罰とは、大怪我を負うものであったり、精神的に追い詰めるようなものまで、罰の範疇をはるかに超えるものが主に問題になっているのです。愛のために子どもは怪我をしても良い、それは大人のエゴです。そういう風にした方が、大人は楽だから、そうするのです。怪我を負わすこと、決してそれは愛ではありません、むしろ教えの怠慢なのです。

 

それでも、中には子どもの方が悪智慧を働かせて、教師を嘲笑っているというような、教師の話もあるようです。でも、よく考えてみましょう。もし仮にその子どもにとって学校が、教師をからかう事でしか居場所の意義を見出せていないのだとすれば、それは、子ども本人の過失よりかも、その「子どもにとっての学校問題」がある事になる訳ですよね。

 

それを放置した上で体罰を容認する。そうした所で、子どもの側の憤懣は、より陰湿な形で、どこかで噴出せざるをえなくなるでしょう。もしかしたら現代のイジメの構造も、このような歪みからの派生なのではないかと、みやすけは推測しています。この場合の体罰の容認とは、問題の核心に蓋をする形にとなるでしよう。

 

叩けば直る、こういう考えはとても危険が孕んでいます。子どもためと振り下ろす拳、それは子どもの事を想うのではなく、大人が楽したいがためのもののように見えてしまいます。「叩けば楽だから」これが体罰が問題であるという問題の核心をなしている、そんな気がしています。ただ楽したい、これではいつまで経っても人に教えを与える、良き教育者にはなれないままでしょう。