心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

犯罪を防ぐ為に大切なこと 〜犯罪を通して苦境から人を救う眼を持つこと〜

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前もって伝えておくが、みやすけは、犯罪者が、単に人権が守られるべき存在だからだとか、可哀想な存在だからだと擁護したいのではない。

 

よく巷の人々は、犯罪者は異常だから厳罰を死刑をみたいな、スローガンを掲げたがる。が、とうの犯罪者の過去を見てみると、凄惨なケースがとても多い。これはまぎれもない事実ではあるが、だからといって、どのような犯罪も許されるという事をここで言いたいのではない。しかし、犯罪に対して厳罰化されたとしよう、それで犯罪が減るだろうか。それは違うだろう。ただ、夕方のニュースで厳罰に処される犯罪者に対して「異常者!」とニヤける視聴者の姿があるだけだあろう。果たして本当にそれで良いのか、それが本稿での主張である。

 

よく世間では、犯罪が起きる度に、被害者側のポジションに立った犯罪者への応酬が、あちこちで繰り広げられている。そこでは犯罪者をとことんあざ笑い、侮蔑を浴びせかけている。しかしそこには醜い感情の応酬があるだけである。犯罪者に対して感情をぶつける、このような報復で本当に犯罪は減るのだろうか。

 

仮に、ある人間が凄惨な過去がきっかけとなり、犯罪を犯してしまったのなら、第三者である我々が眼を向けるべきなのは、そこの部分にこそある。みやすけはそう主張するだろう。しかし、いくら凄惨な現状に見舞われていても、全ての人が犯罪に手を染めてしまう事はない。それは正論である。が、現にそれが故に犯罪に手を染めてしまった現実がある限り、第三者の我々が、見つめなければならないのは、犯罪者のそうした凄惨な過去の方ではないのか。以下、さらに詳述をしてみよう。

 

「犯罪者には厳罰を!」そうした主張は、実際には犯罪の抑止ではなく、視聴する側のエゴを増長しているだけだと思われる。連日、テレビに放映される犯罪者。その彼らを異常者だと嗤い、エゴを満たしている、そういうとうの視聴者の姿こそ、本当の人間の醜態のように見える。それでも犯罪は、あってはならない事態だ。それこそ正論である。しかし、犯罪者のかつての凄惨な体験が、実際にそうさせているのなら、単に厳罰に処して、見捨てるだけではまるで意味がないだろう。後日、犯罪者の凄惨な過去が明らかになったとすれば、第三者である我々は、そこから学ばなければならないだろう。それは、かつての犯罪者と同じ境遇に置かれている人達が、まさに今、見えない場所で、存在しているという現実を。そしてそんな彼らにこそ、放映される犯罪者を通して、我々は眼を向け、救いの手を差し出さなければならないという事を。

 

犯罪者を嗤い、切り捨てる事はとても簡単だ。しかし、厳罰化で本当に犯罪が減り、世の中が平和になるのだろうか。仮に、犯罪者をあざ笑っても、そこには虚しい快楽しかない。それでは却って世の中は不健全になるだろう。そうした視聴者は、かつて犯罪者の置かれていた、凄惨な過去を見つめる事にこそ、本当の犯罪抑止に繋がる事を、よく知っておいて欲しいと思う。決して、単なる人権どうのこうのではない。それは凄惨な境遇に置かれている「他の存在を知る」という事である。

 

テレビで放映される犯罪者を嗤うその眼は、世の中に大勢存在しているだろう。むしろそのあざ笑う眼が、凄惨な状況に置かれている見えない他の存在に対して盲目になっている。このような犯罪者をあざ笑う視聴者の眼が、周囲に対して盲目になっている、そのような状態こそが、新たな犯罪を生む事に、加担しているのだ。放映される犯罪者を通して、我々に出来る事は、同じような凄惨な境遇に置かれている、見えない人達の存在を知る事である。


犯罪者は日頃の鬱憤を晴らす為の便利なサンドバックではない。だから今、我々がしなければならないのは、犯罪者に対して向ける嘲りから、その眼を解放する事である。その眼は、同じ凄惨なる境遇に置かれている人々に対して向けなければならない。そしてその苦境から救う為に、手を差し伸べる事である。そうそれは、彼らが将来、犯罪という誤った道に進んでしまうのを止める為の抑止力になるだろう。このような事を踏まえてこそ、犯罪者を視る眼なのであり、そしてその眼はいずれこれからの犯罪の抑止に繋がるのだと思っている。