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心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

人間が人間を裁く事は可能か? 〜不完全なる人間が、神の視座にひざまずく時〜

本来、人間は人間を真の意味で裁く事は、不可能である。また人間は人間を裁きをしていけない。司法の概念が生まれたのも、人間が人間を裁く際に、度を越した応酬とならないために整備されたものが最初の筈である。このような度を越した応酬は、ネットでの私刑を見てみれば判るだろう。あなたは、何かの事件が起きるたびに、どこからともなく私刑を行い、それに酔い痴れている人たちに、異様さを感じた事はないだろうか。人間が人間を裁くとき、あのような欺瞞は、絶対に起こる。だから、法の概念と、それの臣下にある司法システムは、一般の人間から人間を裁く行為を取り上げたのだ。人間が人間を裁く原理があまりにも自由になりすぎると、あのような人間の無闇さをさらけ出すのだ。

 

人間が人間を裁くのは、本来絶対にしてはならない事で、それは神にしかできない事である。人間が人間を裁くとき、そこには絶対中立性が必要になる。しかし、人間には、このような器量を本質的に持ち合わせてはいない。その事から、絶対中立なる概念こそは、神に所以するものであって、そのようなものを、一人の人間が振りかざす事は、絶対にあってならない。司法の意義とは、そのような神の観点を拝借する事にある。そしてそれを司るのが、裁判官という役職なのだ。裁判官なる役職とは、いわば神の領域を代行する事に、その意義があるのであって、それはいわば神事を執り行う事と同質なのだ。裁判官は、裁判において、そこでは人間としてあるのではなく、神に従う神官としての役割を引き受けるのだ。

 

日本では、基本的に裁判官は、実質的に公務員扱いだが、そもそも裁判を公務員が執り行う事自体こそが、大きく間違っているのであって、それこそ神の領域を冒涜する暴挙である。裁判こそ、神事であるべきで、それは裁判官ではなく、神官が執り行うべきだと思われる。日本の裁判官が、審判を行うに際して保持する人間性にこそ、日本の司法システムを腐敗させているのだ。それに日本の司法での「有罪確定率99.9%」という現状は、そもそも司法システムの不全性を示すものであって、半ば裁判官は、裁判をしていないのと同等なのだ。このような現状を見るに、日本の司法制度においての審判の意義とは、半ば、流れてくる書類に判を押すだけのような、流れ作業に、その本質があるように見える。

 

本来、「疑わしきは、罰せず」という言葉があるように、逮捕、嫌疑での段階では、容疑者はなんの罪の意識を持つ必要も、また罰する視線に晒される所以もない筈である。よく世間では、「逮捕」され抑留された人に、侮蔑を送るが、そもそも「逮捕」とは「嫌疑をかけられ、一時的に拘留されている状態」を指すのであって、犯人だから逮捕というのでは決してない。また逮捕されたから、その人は犯人であるという認識は、根本的に間違っている。そこを正しくいうなら、「有罪判決を受けたから、その人は犯人」というべきである。そこの部分が、特にメディアでは、全く認識も共有もされてもいない。「犯人逮捕」という報道は、絶対に慎むべきだ。「逮捕」という状態と「犯人」という判決とは、全く同等であり得ないし、またそうであると思いこむのも、絶対してはいけないからだ。特に、日本の司法制度やそれを司る人間は、人間が罪を背負うという事に対して、あまりにも軽く見過ぎている。ある人間の下される罪が重いのなら、それと同等の厳粛さを全体が共有すべきだ。

 

人間に対して罪を審判できるのは、そもそも「神だけ」であるのに、その権利を一般の人間が無闇に、さも当然のごとく行おうとするのは、それこそ神への冒涜である。またそれは、人間の持つ欺瞞であり、傲慢さでもある。人間が人間に裁きを加えるとき、そこには裁きを与えた人間に対する罪をも発生する。そのような裁判官の罪を意識させるために、ある国では、裁判開始時に聖書に誓いを立てる。それは、人間の愚行である私刑を遥かに凌駕する、神聖なる領域に、人間が侵す事に赦しを請う行為であるとも取れる。

 

人間を裁くのは、ネットで個人情報を晒すのでも、またその個人をバッシングし侮蔑するのでもない。それは、人間の持つ傲慢さが現れているものである。また、あのような私刑こそは、当然の如し制御されるべきものであって、そういう事態は存在してはならない。司法システムの意義とは、このような人間の持つ不完全さや、欺瞞性を、全能なる神の視座に、一旦返納した上で、再度それを畏敬の念を持って拝借する事にある。そもそも神が全能である意義とは、人間の不完全性を意識し、またそれを制御しようとする事にある。本質的に不完全な存在である人間は、不完全であるからこそ、絶対的権力を掌握するのではない。それはあってはならない事だ。そのような全能感を、一旦、神に返納した上で、人間という不完全性を内観する事にこそ、神が全知全能である意義がある。

 

神が全知全能であるからこそ、人間は不完全な自己に対して内省を可能にさせる。また不完全であるが故に起こりうる、人間としての自分の愚行や欺瞞をも、見つめ治そうとする気概をも生まれる訳だ。そのような全知全能の存在こそが、人間に不完全であるが故の「原罪」をも意識させるのだ。そのような流れで、それらを深く見つめ、そして探求し、人間という不完全なる存在を俯瞰しようとする、アカデミズムなる思想が、勃興もしたのだろう。

 

なので、自分こそが裁判官にでもなったつもりで、容疑者に対して侮蔑を送るのは、もう止めなければならない。そんなあなたは、絶対的に中立でも、また公平なる立場にいるわけでもない。それは神のみの視座である。また、そのようなあなたの誤った全能感こそが、人間という存在を、さらに深刻な罪へと導くだろう。