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心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

「LOVE & PEACE」は、戦争から世界を救うか?

政治

二度の世界大戦を経て、時の大日本帝國は敗戦を迎えた。その後、大日本帝國は解体され、平和立国を標榜する日本国として、新たに再建される事となった。それからというもの、その忠実なる平和的中立国としての日本は、その後の歴史の中の随所随所で重要な国際貢献をしてきた。例えば、当時内戦の炎が燃え盛るアフガニスタンにおいて、やがて武装解除に至ったその解決の陰には、日本国の存在があったと言われている。またそこには、単なる平和的中立国としての成果があった訳ではない。それは過去に刻印された敗戦国という立場があって、当時のNATO同盟国よりも、アフガニスタンにより親身なれるという、特殊な立場もあったとも分析されている。

 

しかしその日本国も、過去には、大東亜共栄圏を大々的に掲げ、侵略国として猛威を振るった。そしてその際にも、幾万もの悲惨な犠牲を生んだ。しかしそのような凄惨なる現実がありながらも、またその別の箇所では、結果的にではあるが、当時、弱小であったアジア諸国を、欧米列強各国から独立へと導いたとされる研究もある。またそれを実証するような、当時のアジア各国の高官の話も記録されているようだ。

 

また、当時の大日本帝國が行ってきた戦争というものが、現代の一般メディアによって流布されるに際しては、当時の戦場での、人間の過酷なる生と死のドラマを強調するものが多い。がしかし、そのような苛烈なドラマだけが、戦争というリアルの全てなのではない。それは植民地支配に苦しんでいた当時のアジア各国を、結果的に独立へと導いたとされる史実も確認されている訳なのだ。またそれらが真実なのだとすれば、それも戦争という、もう一つのリアルなのだろうと思われる次第である。

 

そしてこのような史実が、もう一つの真実であろうとされるのなら、戦争というものは、人々の命が無残に殺戮されるという凄惨で悲惨なリアルだけではないという事だろう。またそうなるのだとすれば、我々は一般的に流布されている戦争というパブリックイメージよりかも、もっとより深遠なるプリミティブな戦争という現象が包囲するメタの領域を、俯瞰する必要性があるのだと思うのだ。そうこの「戦争」こそ、その内実には更なる複雑な次元を彩るダイナミズムが蠢めく、より深い戦争という現象がある筈なのだ。それこそ人々の悲惨な犠牲というドラマだけで、戦争という現象が存在しているのではないと思われる訳である。

 

またそこには、一般の研究的理論化という手法を持ってしても、まだ到底語り尽くせない、さらに複雑な戦争という深遠なるプリミティブがあると思われる。そういう意味では、現象の大枠を意味する「戦争」と、またその双対である「平和」というものも、これらとまったく同じ論理で、「戦争」と「平和」という現象の率直な定義に沿うように、それらを単純な二元論に還元する事は、実質的に不可能であると思われるのである。それは、どのようなリアルをも、複雑怪奇に、かつ混沌未分に、あらゆる現実同士が密接に錯綜し合っているものであるというように。

 

リアルを構成する大から小にかけてのどのような関係にも、例えば、そこに内包し切れない正と負の作用が、複雑に存在しているものである。かつそれらは複雑に入り組み、真実の探究をより困難にしている。つまりは、歴史上で起きるどのような事件をも、たった一つの観点から、その事件に関する、あらゆる純然なる真実を導き出す事は、不可能であるという事だ。それは戦争という歴史的事件も同じである。

 

巷には、「LOVE & PEACE」を掲げ、戦争反対を訴える集団がいる。彼らは「LOVE & PEACE」で熱く戦争の悲惨なるリアルに立ち向かっている。だがしかし、そんな彼らが主張するような「LOVE & PEACE」という理想だけが、戦火の舞い上がる悪辣なる歴史の流れを、より良き途へと統一する、唯一無二なる真実なのでもない。

 

なぜなら、この「LOVE」と「PEACE」こそは、それ単体だけで、人間的平和の本質を形成している訳ではないからだ。仮にこの世界が、正と負の作用の両立で成り立っているのなら、それはまさしく戦争と平和もまたこれと同一の作用で両立するものである。つまり、正と負は一個に分節化される現象ではなく、相補的に作用し合って、一つの現象を創り出しているという事である。それは戦争と平和でも全く同じ帰結である。つまり「LOVE」と「PEACE」こそは、これからの世界平和の樹立を可能にする、唯一絶対なる正しいテーゼなのではないという事なのである。それは、かつての大日本帝國の侵略が、あくまでも結果的にではあるが、アジア各国の独立の起因になったという史実もまた真実であるからだ。戦争は絶対悪ではない。それは当時の高官による逸話が証明している。とすれば、それは逆説的ではあるが、時の戦争こそが、未来の人間的平和を形成するにあたっての、重要なるポイントを、時に成す事があるとも言えるだろう。このように、戦争もまた単に破壊や殺戮というものだけではなく、それは時にケース・バイ・ケースで、一国の未来を創造する起因にもなり得る訳なのだ。

 

それでもほとんどの戦争は、たしかに人々の命や、その生活をも根こそぎ破壊する。それらは決して、許されはしない。それこそは正しい主張である。しかし、大日本帝國の侵略戦争が、結果的に、欧米列強国から、アジアの国々の独立を可能にしたと伝承されているように、またそれらが真実なのだとすれば、戦争という現象も、極一部分ではあるが、これからの世界を生み出しもするのだ。つまり戦争は、ある場所を破壊し、ときに殺戮も招くが、また別の箇所では、創造に起因する事がある。これは実に逆説的である仮説である。一口に戦争といっても、そこには正と負の両方の作用が、逆説的なスケールで作用し合い、かつ存在している。そう、このような前提があってこそ、正と負の作用が複雑に入り混じった、逆説的なる表裏一体を形成する、戦争という混然一体の実状があるのだ。そう、戦争と平和、これらは、一筋縄の理論では簡単に解く事が出来ない、歴史的現象である。

 

この一見矛盾なる結果、つまり巨大なスケールで包摂する戦争という歴史的事件を、単純な「善」と「悪」の二分律で、どちらか一方にのみ結論付けるのは、間違っている。つまり戦争というのは、厳密に言えば、それだけでは「善」でも、また「悪」でもない。しかし「破壊と殺戮を招く」という一面が現れて、初めて戦争は悪であり得る。戦争によって人間が無意味に殺戮されていくのなら、そういう一面での戦争というのは、どのような観点を取り入れようとも、それが絶対的な正しさ故の結果だとは言えないだろう。それは間違いなく罪あり、むしろ絶対的な間違いでもある。しかし、「戦争」という、より「巨大な現象」としてのスケールにおいては、決してそれが「絶対悪」であるという訳ではない。つまり、あらゆるケースを総括した「戦争」という現象自体には、それ自体には、良し悪しという小スケールのような単一性は無く、むしろ相矛盾する逆説性を巨大に包摂する、複雑なフィールドが内在化されているのだ。そこには、「良し」「悪し」のみの尺度で、それを語る事を許さない、壮大な戦争という現象が存在しているのだ。

 

そういう意味では、日々主張される「LOVE & PEACE」もまた、それ単体だけでは、世界を生み出す訳でも、また結果的に未来が創造される訳でもない。大枠の歴史というのは、たった一方の、何らかの絶対的真実だけが唯一存在し、かつ、それを絶対軸にして紡がれてきた訳では、決してない。それが歴史的であるとは、複合的な複雑性超スケールを意味し、それは単に一般名詞を表している訳ではない。そして、そのような名詞をも、あらゆる歴史的混在性の中の、たった一片だけが現れているというものは一切存在しない。そうではなくて、あらゆる物事が混在化された多面的多様性の上でこそ、その歴史的存在が可能になるのだ。そこでは、あらゆる現象が歴史という複雑系に内包され、かつそれらが複合的に作用し合いながら、混沌未分なる歴史全体を創り上げているのだ。そこには正と負の作用も共にあり、またそれの逆作用もある。正は時に負となり、また時に負は正に作用する。それらの要素が巨視的レベルで、逆説的超スケールを発生させながら、カオティックに歴史的ダイナミズムを躍動させているのだ。

 

つまり、歴史という全体性には「正」も「負」もないのだ。まさに、このような正と負の作用が、歴史的巨大スケールで複雑怪奇に作用し合っているのだ。また時にそれ以上の次元を包摂しながらも、それらはお互いにその一切を余す事なく、おびただしく切磋琢磨しながら、人類の歴史というものを築き上げてきたのだ。そういう意味で、「LOVE & PEACE」のように、それらのただ一方のみが作用するだけでは、これからの歴史が構築されて行く事は、まずあり得ない。またそれと全く同じ構造で、もちろん戦争「だけ」でも、歴史は成り立って行かないのである。つまりどちらか一方だけの結論では、新たな歴史というのは、生まれては来ない訳である。その両方が作用し合ってこそ、歴史の本質なのだ。しかも更にいえば、このどちらかが一方的に不要なのだという事も決してない訳である。そう戦争と平和こそは互いに両立してこそ、戦争と平和なのである。むしろそのどちらもが、歴史という全体を成す、重要な構成要素である。

 

かつて、人間愛を標榜し、人間的世界の平和を謳ったヒューマニズムが起こった時代があった。そしてその華々しい勃興から、それらが次第に、活気のある流行になって行った。しかしその時流がますます強くなって行くに従い、その内部では、絶対的な神聖化が進み始め、やがてその病魔は、ヒューマニズム勃興時の自身の目的を蝕む事態となった。そしてその病状が悪化して行くに従い、ヒューマニズムを信仰する理性的人間と、それを信仰する自分以外の人間との差別化が、生まれるに至った。それから、絶対的な神聖である自分的ヒューマニズム以外である、その存在から富を奪取せよ、それ以外を信仰する集簇に対してなら、自身がより栄華して行く為であれば、そうしても構わないと、華やかに謳い、やがて自滅の途を辿ってしまった過去があった(※2参照)。

 

それと同質的に、「LOVE & PEACE」の、これからの絶対化の流れもまた、それ自身が和平の構築なのではなく、むしろ「LOVE & PEACE」を標榜する善人と、それ以外の悪人との差別化をより露骨にし、それらの対立を深めていくのではないだろうか。そういうあらゆるライツが辿るそのような誤作動は、歴史的にも充分に証明されている。

 

愛が人を守るのではない。その愛は、愛するあなた以外の存在を排除するだろう。平和があなたを護るのではない。あなたが平和を謳歌するその外縁には、過酷な労働に耐える末端労働者の苦悩の滴る汗水がある。ゆえに愛と平和だけが、あなたの誇りなのではない。それが全てだと謳うだけの「愛と平和」は、その「愛と平和」以外の現実を盲目にさえするだろう。ゆえに正しい事だけを美しく謳う「愛と平和」は、ときにあなたをそこだけの快楽に、身を閉じ込めもするだろう。それでは、むしろ世界は閉じていくばかりだ。

 

それでも、ほとんどの戦争はそのような世界をも破壊する。そう、愛と平和を美しく謳歌する、あなたの暮らしをも。そしてそれをも、いつなん時、どこぞやの敵国の爆撃によって、その全てを無残に破壊されるかも知れない。しかし、国会議事堂前で叫ばれる「LOVE & PEACE」もまた、「LOVE & PEACE」を標榜する以外の悪人という存在を造り出しているのかもしれない。破滅への戦争が、ときに未来への創造の一端になっていたのなら、逆に「LOVE & PEACE」もまた、その標榜以外の悪しき存在の破滅を望んでいるのかもしれない。そしてここまでの巨視的スケールとなって初めて、「戦争」と「LOVE & PEACE」とが内包している善悪は逆転する。しかし真実がそうであるならば、このどちらかの主張が間違っているのだろうか。「LOVE & PEACE」の裡に秘めるある種の偽善性にも、戦争という現象の必然である「破壊と破滅」の凄惨さにも、むしろ、そのどちらにも人間性の暗い一面が染み出している。またそれらは、時に希望でさえもある。このどちらの要素にも、その一方が抱える、人間の悪質性を成す本質が含まれていて、またそれらは人間を良きものに導く良質性をも兼ね揃えているのだ。しかしであるからといって、そのどちらかが一方的に正しいという訳でもない。かつそのどちらもが、間違っている訳でもない。このような、お互いに補完し合う正負両面なる要素こそが、歴史というものを、完全無欠なる包括的結論に帰結させない動機である。つまり、「戦争」と「LOVE & PEACE」の根本に拡がるジレンマは、ここにこそ存在しているのだ。

 

よって、そのどちらの方にも正と負の因子が混在している訳だ。が、そんな中で「戦争」や「LOVE & PEACE」というのは、それらのどちらか一方が絶対化する時流の中では、むしろそのどちらもが「悪者の破壊」という括りで、一つの大きな同相体を作り出しているのだ。

 

一方で「LOVE & PEACE」と、そのみんなが謳う言葉には、その外縁で殺されていく人々の現実が排除されているように見える。実際、大勢の若者が国会議事堂の前で、どれだけ「LOVE & PEACE」を叫んでも、今隣の国で起きている戦争に終止符を打つ事さえも出来ない。むしろそこにこそ、「LOVE & PEACE」という理想と、それでも「終わらない戦争」という現実の狭間で、苛烈なる歴史的宿命の応酬があるのだ。そこには、厳然とした終止符のようなものは、存在しない。しかし、それは歴史の宿命が秘める無情さでも、また人間が作り出す運命の卑劣さでも決してない。そのような「LOVE & PEACE」と「戦争」を隔てる間隙には、互いの似姿を無作為に放射し合う、無限に繰り返される自己投影の極限がある。そしてそれ単体では、完全に正しい主張である筈の「LOVE & PEACE」をも、時に独善に陥る事がある。その時の「LOVE 」「PEACE」は、それに賛同しないそれ以外の人を嘲る。そして「戦争」もまた、その一方で、時に凄惨さそれ以上のマクロなスケールでは、誰かの幸福にさえなるというように。そしてこのような負の作用とは裏腹に、また遠い別の位相では、これらとは全く逆の作用も、また当然のように存在しているのだ。

 

しかしこのようには言うが、戦争という悲劇から脱却しようとする「LOVE & PEACE」なるアクションが、全くの無駄であるという事では、決してない。そう、「LOVE & PEACE」なる理想もまた、より良き歴史の未来を提起するにあたっての、より重要なファクターであるのだ。なぜならそれは、純粋に正しい事であるからだ。けれど、それでも何らかの諸外国から、戦争という銃口を、どこからともなく突きつけられているであろう現実も、またリアルなのである。その状況下で、それらを十分に加味した上で、自衛隊のこれからの意義や、憲法などの再解釈に当たる議論を展開する事もまた、日本国の未来を考えるための、一つの重要なテーゼであるとも思う。大切なのは、考えを巡らせる事だ。たとえ「LOVE & PEACE」であろうと、「戦争」であろうとも、そこに「絶対化という停滞」があり続ける事が、あらゆる事態をより悪化させて行くのだから。そして、「LOVE & PEACE」や「戦争」が共に、「正」と「負」の部分を持ち合わせているという、この二つの真実こそは、その両方ともが、「戦争」という歴史的現象を語る上では、より重要なテーゼとなり得るだろう。しかし、みやすけは、そのどちらかの一方の主張「だけ」が、絶対的に正しいという事を言っているのでは、決してない。

 

なので、「LOVE & PEACE」が絶対的真理を持てないなら、「戦争」というのも、それと同じ動機で、また絶対的な真理にはなり得ない。しかし、この二つの命題というのは、それらを独立二分にするような、ある基準によって、まったく分け隔てられた存在ではない。むしろこの二つの命題こそが、それぞれの影を投影し合って、より密接な関連を作り上げているのだ。よってこのそれぞれは、それぞれを独立的に語る事を許さない。それらは、互いの領域を共に跨り、かつ各要素は複雑に作用し、そしてそれらはお互いに、混沌未分なる本質的スケールをも共有し合っているのだ。だから、そのどちらもが、決して欠いてはならないし、また、どちらかの自己主張が強すぎてもならない。「戦争」と「LOVE & PEACE」は、根本的なフィールドでは、渾然一体を成している。よってそのどちらもが、どちらもに対しても、一方的独善に陥らないような議論を展開する為の抑止力になるのだ。つまり「戦争」と「LOVE & PEACE」という二つの命題は、どちらか一方の独善的議論へと陥るのを、抑止させる作用を持ち合わせている。つまり戦争という歴史を議論する際においては、この両方こそは絶対的に必要となるリアルである。そして、このような絶対的真理を許さない、歴史的現象の包摂する正負矛盾率が流動する作用にこそ、「戦争」や「LOVE & PEACE」のどちらだけが神聖化して行く事態を抑止する効果があるのだ。このような、より広範なる戦争という現象に関する議論が、今こそ必要なのだと、みやすけは思っている。

 

〜参照の記事〜

synodos.jp

 (※2)ヒューマニズムの歴史について

ヒューマニズムには、様々な観点からの研究があり、それこそ一辺倒な見方は不可能です。特にこの箇所では、ヒューマニズム一般を総括ようとした意図や、そのようなニュアンスは決してなく、あくまでも、この文章の趣旨の沿った形で、あらかじめかい摘んだ形となっています。ご了承ください。