心象風景の窓から

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ダイバーシティは社会を多様にするか?

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結局、ダイバーシティの機能性を重視するあまり、その目的である経済的価値の方が神聖化してしまい、その結果、地域というものが蔑ろにされてしまう可能性がある。また、経済的価値観が優位に信仰される世の中で、そのような経済的価値から外れたような人(特に男性)は、人間的尊厳や人間的価値からも排除される事にもなり得るだろう。それは、経済的価値観に目がくらむあまり、経済的価値観から排除されている地域社会の重要性を、全く考慮にされていないためだ。地域というのは、経済的価値社会との接点としても、またそれは時にセーフティーネットとしても、そこには補完的な役割がある。それは経済的価値社会にとっての単なる補助的な存在なのではなく、そこにはきちんとした人間の暮らしの営みとしての存在意義があるのだ。それは経済があって人間が営めるように、そこに人間の暮らしの営みが礎にあって、初めて経済が維持できるのと同じ原理だ。

 

経済的価値社会と地域社会は、相補完性によって、その両方に必要性が生じる筈なのだが、今までの(特にマイノリティなどの)権利運動などは、純粋な地域性を表明するのではなくて、このような経済的価値観(マジョリティ的価値観)に迎合する形でしか、その動力に意義を見出してきていないのではないか。そして経済的価値観の優位なる状況は、その周辺に排除されていた筈のマイノリティ界隈にも、徐々に拡がるようになるだろう。またその進行によって、マイノリティにも、経済的価値観の義務が課せられる事態になるだろう。それは、「経済的価値=人間の尊厳」の状況に陥っているマジョリティ(特に男性)に迎合するということである。

 

それは、ダイバーシティの概念が先鋭化するに従い、マイノリティにも、その経済的価値観を履行する義務が課せられるという事だ。つまり、そのようなマイノリティも、経済的価値を失った際に、人間の尊厳から排除される可能性が生まれるという事なのだ。それは、経済的価値を失ったマジョリティ(特に男性)が陥ってしまう苦境(犯罪や自殺など)に、マイノリティも、その同じ苦境に立たされる可能性がある事を、示唆している。そのようなダイバーシティの概念が勃興する中で、その輝きが神聖化して行けば行く程に、マイノリティとマジョリティを隔てていた領域は、融解していくだろう。

 

例えば、地域に管轄されていた責任を負っていた人は、現在のダイバーシティの概念が、社会的な領域で顕著になるに従って、その経済的価値観をも同時に義務化される事になるだろう。こういう人は、地域的価値と経済的価値の両方の義務を、追行しなければならなくなる。それに、多様性ダイバーシティの概念は、同一に混同してはいけない。多様性ダイバーシティは、目的概念が大きく違うのだ。ダイバーシティのみによって、社会が多様化するのは間違いで、とうのダイバーシティが優先するのは、あくまでも経済的効率。そこにマイノリティーの参入を可能にするのは、多様性の結果ではなく、そこに経済的な潜在的成長性が見込めるからだ。

 

経済的価値観を敷衍させる事のみが目的化してしまい、結果的に、そこに相補完的に林立している地域社会の位置付けが、矮小化されてしまうのなら、そこには、多様性の実現などは無く、ダイバーシティという理想は、単なる経済特区に成り下がってしまうだろう。地域社会というのは、経済的価値観に染められて、初めて成り立つわけではない。それは常に、経済的社会に林立する形で、相補完的に平行する社会である。

 

しかし例えば、家庭でなされる家事を、経済的価値観にすり合わせ、経済的価値を実際に算出して、それを家事労働と位置付けて、この家事も立派な賃金に還元すべき労働なのだとアピールしている集団もあるようだ。しかし、経済的価値観によって家事を労働と位置付けただけでは、それは経済的価値観に迎合しただけであって、いうなれば、地域内で、ピュアに存在し得る家事の役割を、地域から逆に排除する形にしかならないだろう。

 

ダイバーシティこそは、それに多様性の本質があるわけではない。ダイバーシティにとって多様性とは、ダイバーシティをより確信的にさせるための媒体に他ならない。現に新自由主義の流行が本流にある世の中で、ダイバーシティの持つ役割は、マイノリティの単なる社会参加に、その事態は収まらず、それは新自由主義が持つ本質である、格差という問題が、マジョリティの範囲だけではなく、マイノリティの範囲にも押し寄せるという事でもあるのだ。