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心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

合理性と死への快楽のエロティシズム 〜理性に緊縛された肉体は絶えず死を希求する〜

思想

人間は他者を求めるとき、そこに自分の身体、精神の総てをその他者のイメージの中に投影しようとする。肉体が他者を求める衝動は、絶えず人間の存在を揺るがす。他者を愛するとは、自己の存在を総て、愛する他者の体内に浸透させようとする企てだ。愛の中に融けて行きたいと欲する人間の実存は、まさにその快楽の最中にこそにあるものだろう。しかし人間の輪郭を描く合理性は、絶えず自我の内部に、自己を呪縛する。それでも絶え間ない欲求の中で、自分が壊れてしまう事を恐れるのは、生命体としての秩序を守護するための装置である。

 

それはある意味での死への恐れである。人間は、実存としてではなく、生命の欲求として死を忌避する。生命が生命として秩序を維持するために、人間は人間であり続けようとする。その中での快楽とは、この合理性の世界に縛られた肉体を、その合理性から解き放とうとする思惑なのだ。それは、合理性によって構築されている森羅万象からの逃避の願望なのだ。人間を組織立てるあらゆる細胞の作用は、森羅万象の理を象る合理性の象徴である。人間の存在とは、そのような合理性の荒縄に緊縛された形で成り立つのだ。

 

ときに緊縛された人間に欲情するのも、そこに合理性に縛られた存在としての自己を、そこに投影するからだ。その緊縛され横たわる人間の姿こそ、森羅万象を象る合理性に同じく縛られた、自己の存在をそこに投影できるのだ。またそれがときに美しく想えるのも、そこに対面した自己が、その対象と同一化する事によって、一時的にその荒縄の緊縛から解かれたと感じるからだ。人間は、愛する対象と対面することで、自己の合理性の緊縛を解くことができるのだ。それは空中に浮遊したとき、重力を感じなくなる作用と同じだ。

 

森羅万象を象る合理性は、人間の肉体を締め付けるこの荒縄こそに、妖艶に象徴されているのだ。また荒縄に縛られた人間の姿は、合理性によって秩序立つ森羅万象もまた象徴しているのだ。よって、合理性を解くためのこの快楽こそ、森羅万象の理の世界から解き放たれた、本来の実存と合一化するための方法なのだ。それは人間を愛すること。またそこに合一を希求することもまた、森羅万象を超越する実存へのアプローチなのだ。そしてこの合理性こそは、生命たる人間を形作る生命体の本質をも意味している。

 

しかしその合理性の瓦解してしまった身体は、理性を見失った狂気の世界に引きずり込まれることになる。しかしこの狂気の世界こそは、生命として生存するためだけの生まれ出た肉体を持つことになった事態の所以である。このような狂気の世界は、秩序ある生命として生存している肉体の構造には、それが組み込まれていないのだ。人が狂気に襲われるのは、そこに秩序立つ肉体があるからだ。人間を象る肉体にとって、快楽に溺れ狂気に呑まれる事は、単なるエラーに過ぎない。

 

しかしとうの狂気の世界こそは、その外縁は、人を魅了する妖艶なる皮膜に覆われている。その皮膜は人間を仕向ける芳醇なる香りを漂わせているのだ。がしかし、大抵の人は、その内部には、決して足を踏み入れようとはしないものである。では、その狂気を忌避するのは、生命としての本能なのだとすれば、この世界の生存する人間の実存は、いかなる方策によって存在し得るのだろう。

 

人間は、快楽を求める所に、本当の意味での実存を求める。この合理性の鎖から解かれた瞬間にこそ、自己は燦然と、その実存が輝き始めるのだ。しかし合理性の破滅こそは、すなわち生命体としての肉体の死を意味している。しかし人間は、絶えずこの死の中で、実存の意義を見出そうとしている。死に本当の解放があるのなら、人間は、その死を欲求する快楽の中にこそ、本当の人間としての実存があるのだ。人間は、死への快楽に肉体の輪郭を融かし、その死に触れる瞬間に、本当の人間としての実存を感じるのだ。しかし人間は、そこに禁止の鍵をかけてしまい、それを禁断としてしまったのだ。人間は更にそこに、抑圧の構造を造り出してしまったのだ。

 

人間が人間を愛するとき、自己を形成するあらゆる細胞組織が震えだす。そして確固たる自己は、このとき愛する人間とのイメージの中で融解してしまう。肉体の輪郭が無くなるほどに燃え上がる愛とは、まさに死に触れる体験である。その死の前触れに、全身の細胞はその脅威に怯え、震えるのだ。人間は燃える愛の中に、絶えず死を希求している。愛に満ちる快楽は、合理性の縛られた存在ではなく、そこにこそ合理性から解き放たれた瞬間の芳醇なる実存の姿があるのだ。

 

人間は、森羅万象の理を形作る合理性からの解放を願っている。不意に沸き上がる人間を愛したいという欲望も、それは合理性の荒縄に緊縛された姿からの解放を願ってのことだ。人間が愛すること、その愛に飢えた姿は、きつく緊縛され身動きの取れない状態に苦痛を感じるからだ。人間は人間として肉体として存在していることに窮屈を感じる瞬間がある。ときに縛られた人間が身悶えする姿に興奮するのも、まさに人間の持つ自虐性に根ざす感情によるものだ。どのような人間もすべからず、人間の苦痛に歪む姿を見るのが快楽になることがある。それは、苦痛に歪む人間を見て嗤うことによって、きつく緊縛され、その苦痛に表情を歪めている自己の姿を嗤っているのだ。