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心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

大量生産の論理は経済を成長させるか 〜「モノの取捨」から見る経済成長論〜

経済の循環というのは、いわば生体のリズムと同じである。一個の生体はその生命を維持するために、モノをしきりに食べ、それらを使って絶えず代謝をしなければならない。が、その代謝には、必ずや老廃物が伴う。そしてその老廃物は、身体の外部に排泄されなければならない。何故ならば、発生した老廃物は、その生体のリズムにとってすでに必要でないものだからだ。またそれらは残留し続ける事によって、時に、生体のリズムにとっての致命傷にもなり得る。だから発生した老廃物は、生体の外部に排出されるのだ。しかし老廃物が排泄されてそこで全く終わる訳ではなくて、それらはまた別の存在にとっての栄養になる。この世界には関係性がある。特にそれを生物学では生態系と言われているが、それらはある意味そのテリトリー内で自己完結をしているもので、その内部では、どのようなモノも、誰かにとっての必要なモノになり得る。それは老廃物と栄養の関係も同じだ。そう、そのどちらもが、誰かにとっての必要なる双対性でリンクしているのだ。

 

この「誰かにとって必要なものが絶えず廻っている」という、このような前提こそが、特に経済を語る上では、もっとも重要な事だと思われる。それは生態系の仕組みでも同じ傾向にある。このように生物学的な生態系を改めて敷衍する中に、再び、経済成長における仕組みのまた違った新たな一面を、垣間見る必要があるのではないか。

 

そのような循環の作用を廻る老廃物と栄養とを、総括して有機物と形容できるが、この有機物とは、幾重もの食物連鎖を巡り、再び生体の代謝を促す栄養になって行くものだ。そこには、すべての生態系を巻き込む、混沌未分なる連鎖の理がある。このような無数の循環の中では、老廃物と栄養は、その限りのない複雑なる作用により、そのいずれもが共に等価である。つまり、そこには絶対的な優劣などの指標はないのだ。またそれがあるのだとすれば、つまりそれが自分にとって必要の無いものであるか、または有るかの違いだけである。そこには、栄養と排泄された老廃物とを介した、代謝と排泄の作用が、交互にあって、それは一個の生体全体での、または生態系でのよりマクロなスケールのリズムを作り出している。

 

しかしとうの生体は、そのような作用の中で、一個の体として維持されているが、それは決して、ある一定のゾーンに常に固定されている、という訳ではないのだ。つまり生体というのは、その絶え間のない代謝と老廃物の排泄の作用で、それ自体では確固とした一個体を維持しながらも、その形態は、微妙な膨張と縮小のリズムを繰り返している。だから昨日の自分は、明日の自分と同じではあり得ない。その形態は代謝と老廃物の排泄とで、入れ替わり立ち替わりしながら、形体の膨張と縮小を繰り返しているのだ。そして、この一連の流れ中で、一つの生体の仕組みを維持している訳である。そして、このようなリズムを打つ循環の中では、そこで常に固定している指標などは、全く皆無である。このような絶対の無い循環の中で、生体というものは維持され、代謝と排泄、それに伴う身体の膨張と縮小とを体験し、絶えずバイオリズムを形成しているのだ。

 

そして、経済成長を語るのであれば、またそこに必然性があれば、そのような生体のリズムを意識しなければならない場合があるのではないか。とうの生産活動が、このような経済システムでいう所の代謝になり得るのなら、その代謝には必ずや老廃物が出てくる。そのようなものは、俗に温室効果ガスなどと言われているものであろうが、このような老廃物は、そこのテリトリーにとって必要のないものだから、必然的に排泄されなければならない。しかし、経済的な生産活動にのみ専念するあまり、それに躍進し続けると、必ずやどこかで歪むが生まれる。例えば、モノを散らかすだけ散らかして、日々の部屋の掃除を怠ると、どんどんとその場所の空気が淀んでくるだろう。これと全く同じ状況は、経済成長にも当てはまる。そう、特に現在のように、経済の成長に欠かせない生産性にばかり眼が囚われている最中で、環境に関する問題ばかりが先送りにされ続け、やがてその影響で、いつの間にか温室効果ガスは吹き溜まり、地球の環境はみるみる裡に悪化していくばかりである。それはいうなれば、部屋のゴミが散乱し、誰にとっても不潔な場所になってしまっているような状況である。ましてやそのようなゴミは、即急に処分しなければならないのだ。

 

そういう重要な事に気づき、晴れてそれらのゴミを捨てた際、結果的にモノは減り、部屋は少し殺風景になるだろう。これと同じ作用は、経済の規模の一時的な停滞、低下という状態と同相である。しかし、その部屋の掃除の後に、新たにモノを置くスペースが、仮に出来たなら、そこを有効活用する余地が生まれた訳だ。更にもし、その新たなるスペースに、別の必需品を新しく備える事が出来たのなら、その部屋には、必要なモノが増える事になる。つまり、ゴミだらけの汚染された部屋は一掃され、それにより古いモノは捨てられ、そのようにして新たなモノが置かれる。つまりこの作用によって、その部屋の環境が一新されたのだ。ここで重要なのは、ただ単に綺麗になったというのではなく、ようは、「要らないモノを捨てた」事によって、「新たにモノを置く余地が生まれ」、結果的に「必要なモノが新たに増え」「部屋の様子が心機一転した」という一連の現象である。そしてこの原理を応用する事こそが、経済成長論を支えるもう一つの面になり得ないだろうか。つまり経済成長には、要らなくなったモノを「捨てる」という前提が必要なのだ。そう、生産効率を無理にでもアップさせ、モノを無尽蔵に造り続ける事だけが成長なのではないのだ。「捨てる」事から「増える」事に繋がる。この作用が、今こそ必要なのだと思う訳だ。

 

このように経済成長というのは、要らなくなったモノを捨て、新たにモノを置くスペースを用意する事によって、可能になる現象なのだ。縮小あって、拡大の余地が生まれる。つまり、巷の経済成長肯定論者が信仰するような、ニュー・マーケットを外部に開拓するという理論には、百歩譲って、それなりの根拠があるのだが、それは脱経済成長論者が異議申し立てをするように、それには理論上、無限の領域が必要になるのだ。果たしてそれはどうだろう。この世に無限の可動領域など存在するだろうか。しかしモノを置くには、絶対的にそれなりのスペースがいる。それも、モノが多くなれば、それだけに見合った、更に広いスペースも必要になってくるのだ。そのような未知なるスペースに対して、目指すべきニュー・マーケットの、肯定的な信仰を捧げるのも、あながち間違ってはないが、このような広大な領域を外部から外部へと、それも際限なく確保し続けるのには、必ずや限界が来るのだ。それも、経済活動の源であるとうの地球は、明らかに有限の大きさしかないのだから、そのような経済成長肯定の論理は、絶対に頓挫する夢想である。しかし経済成長のためにフロンティアを目指せた時代は、歴史的な一経過の中では、確かにあった。これは立派な史実である。しかし、この地球上の至る所で、大勢の人間が経済的な活動をせっせとこなしている現代では、そんな旧時代の論理が、そのままの形で通用する事は、まずあり得ない。なぜなら、経済成長理論が奉祀するフロンティア思想は、地球の絶対的有限性という地点で、必ずや頓挫する宿命にあるのだから。

 

そんな状況の中で、現代のようにモノが溢れたら溢れたなりに、今あるスペースを有効活用して行くという発想も、また立派な経済的活動にリンクするのではないだろうか。それに大抵の人は、今住んでいる家の中で、なるべくその立地にあった規模で、物事をやりくりしようとするのではないだろうか。そしてその過程の中で、やがて要らないモノが出れば、時に友人なりに譲り、それさえもままならなければ、最終的に捨てるだろう。そして、その必要が生まれれば、新たに必需品を購入し、部屋の雰囲気共々、心機一転させるのだ。それは経済の構造でも同じではないだろうか。つまり経済というのは、家での生活を維持するのと同じく、「縮小の必然性」と「拡大の可能性」とを、セットにして語らなければならないという事だ。しかし経済成長の論理が全て幻想なのだといって、無闇にモノを捨ててばかりだと、結果的にいつしか、生活に必要なモノまでも無分別に捨ててしまう事にもなり得る。それもいけない事だ。捨ててばかりの行為もまた、それも不可能である。モノが捨てられるのも、要らないモノが有ってこその動機である。またそれは、逆にいえば、モノを生産できるのも、そういう必要なモノが無いから可能であるのだ。だから、必要なモノを無闇に捨て続けても、また無尽蔵に要らないモノを造り続けても、そのどちらも結果的には、行き着く先には破滅があるのだ。つまりは、経済成長が一方的に神話化するのも、確かに問題だが、では逆に、脱経済成長論の自己主張が強くなり過ぎても、また問題なのだ。

 

そういう意味で、経済は循環しなければならない。それは、ひたすら成長し続けるモデルでもなく、またそれを否定してばかりの理想なのでもない。経済が成長しないのは、それは生産の効率が悪いからではなくて、もうその場所にモノが置けないという事だからである。スペースの無い箇所には、どのようなモノも置けない。かつそのスペースが有限であるならなおさらである。だから要らないモノは、捨てなければならない。しかしそれは単に使いものにならない無機物ではなく、それは誰かにとっての有機物でもあるのだ。ちなみに要らないモノと必要なモノとの本質的な相違は、要は、ニーズのバランスの問題であって、自分が要らなくなったものを、他者に譲ったからといって、そこに優劣が発生するわけではない。そこには、純然なる交換の仕組みがあるだけである。

 

しかし、そのようなモノも栄養として過剰に溢れれば、結果的に、生体のリズムを脅かすものになるだろう。環境が汚染されるのも、そこに過剰さがあるからだ。食物を無理やり詰め込まれた胃袋は、自己防衛で吐き出してしまうが、その吐瀉物は、一見誰にとっても違和感のあるものにしか見えない。大気を汚染する排気も、地球の大気のバランスを乱す温室効果ガスも、そのいずれもが、生命を構成し得る有機物であるのにも関わらず、それが汚れて見えるのは、まるで道端に落ちているナマの吐瀉物のように、それらが自然の作用に消化されないままの形で、雑然と散らかっているからなのではないか。そう、ナマの吐瀉物は誰にとっても、嫌らしく感じるものであるように。しかし、環境汚染の原因は、そこに経済成長があるからではない。モノの生産性だけをあまりにも重視するために、未消化なままのナマモノが、吐瀉物として散乱している状態にこそ、その原因があるのだ。しかしだからといって、そのような環境汚染を道具に、一方的に経済成長を否定し続けるのも間違っている。なぜならば、誰かにとって必要なものは、いずれ生産しなければならないからだ。そのニーズは決して絶える事は無い。必要なモノがあればそれを造る、それは人間の生命活動の根本を成す必然である。

 

しかし経済というのは、どちらかの一方的な理論の大黒柱で成り立っている訳ではない。また、現状ではそうなっているのであっても、その状態は、経済のシステムとして根本的に間違っていると思われる。どちらか一方のみの柱は、必ずやガタが来るだろう。とどのつまり、ようはバランスである。それは生体のリズムが代謝と老廃物の排泄との作用の裡にあるように。そして経済システムもまた、このようなバイオリズムを意識する時代が来ているのだ。