心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

絶対性の凋落、無限に相対化する社会に生きる 〜なぜ若者は自己肯定感が持てないのか〜 No.2

そのような高度経済成長期の時代の栄光も、ついにはイデオロギー集団の絶対的な構造と共に崩壊に向かう。それにも関わらず、その絶対的な集団の「意識」だけが残滓として遺った。そしてその当時のポジティブな差別化の構図と、その力学の原理が、そのままの形で絶対的な構造の崩壊後の社会にも残ってしまったのだろうと思われる。

 

このような時代的な潮流にも関わらず、現代の若者は、現在、かつてのジャパン・アズ・ナンバーワンのような明確な差別化による優位性を確立出来ずにいる。優位性というのは、必ずしもパワーバランスを形容するニュアンスでもなく、ここでいうニュアンスとは人間がアイデンティティを形成する上で、その自律性を維持するためのポジティブな動機に他ならない。また現代では、イデオロギー同士の大域的な対立はその影を落とし、自らのアイデンティティを構成するための差別化は、新たに発生した複雑な相対化の上に、危うく自律させなければならなくなった。

 

しかし、現代の若者は無意識にそのようなイデオロギー集団的な「意思の絶対性」を内面化し、更にその集団意識を固持しようとしている。それは丁度かつての「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を謳歌した世代の風紀が、何らかの仕方で、若者の意識に影響を与えているのだろうと思われる。そしてとうの若者はその風紀を内面化し、それを固持するのだ。

 

そんな現代では、冷戦構造のようなイデオロギー的な絶対性を失い、新たに「相対主義」が社会を席巻するようになっていく。それに従い、アイデンティティは、自己完結する動機を剥奪され、ついには「無属性」を強制されるようになる。それは、個人があるテリトリーに自己完結する事を許さない、時代の空気を作り出している。それにより剥き出しになったままの裸の個人は、無数の複雑な関係性の中で、たがいに激しく批判合戦を繰り広げるようになる。そしてやがて、剥き出しの自我は無限に相対化され続ける事になり、その結果、過敏になった自意識だけがどこまでも肥大化していく事態に見舞われるのだ。

 

そうなると当然の如く、些細な刺激でも、すぐさま自己矛盾を誘発し、ましてやそんな不安定な状況の中では、アイデンティティの成立がよりあやふやになってしまう。何が自分にとって正しい事なのか、また間違っているのかという、アイデンティティの核心を形成するオリジナルな指標をも、このような相対主義の吹き荒れる只中では、その自律を保つ事が出来ない。そのような時代の風紀では、かつてジャパン・アズ・ナンバーワンという無類の自己肯定感のような確実性の、その一切が無縁となっていくのだ。そのような時代の運命が、現代の若者の自己肯定感の無さに繋がるのかもしれない。

 

このような時代の渦中に陥ってしまった個人は、総じて自己肯定感が低く、そんな拠り所のない無力な自分は、絶えず、他者に承認してもらわなければならなくなる。そのような承認なしでは、この時代の渦中に陥った若者は、アイデンティティを自律させる事が不可能なのだ。この安心して自己完結する行動を許さない環境は、その空しさを補うために絶えず他者の承認を欲する。昨今流行っている、自分探しや、スピリチュアル、占いなどのブームは、このような背景が有って巻き起こったのかもしれない。

 

そのように、吹き荒れるような相対主義の摩擦熱は、また別の面で、人間関係の過度の密着、また過度の希薄を生み出しているように思う。それは、判り易い集団の属性間での差別化の困難な状況が、自他の境界線の融解を引き起こしている。絶対性の失われた、この世界では、まさにありのままの自分を絶えず探さなければならないのだ。