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心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

人間の権利について 〜永久の人間の尊厳を生きるとは〜

近年、巷では「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」が、よく叫ばれている。しかし現在での、これらの言葉は、様々な思惑を浸透させた作為的なものになっている嫌いも、度々感じている。詰まる所、これらの言葉を「武器」にして、自己主張をする為のものになっているように感じるのだ。つまり単なる独善の手段にされている。これは実に危惧されるべき事ではないか。

 

「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」という、これらの語の起源には、「人間の尊厳」という概念が基軸とされている訳なのだが、この定義によれば、あらゆる人間とは天上の元において、すべて「平等」であると、かつその前提の上で「主体性」を確立し、これを「自由」に行使する権利を「個人」が持ち得るのだという、本来のニュアンスがある。

 

このように、一旦人間の存在を天上に返上し、再びこれを拝借する。この考えは人間を「神の子」とする一神教独自の思想である。神の子つまり人間とは、神から身を授けられた借り物の身でしかない。その真理からすべての人間は、神の名の下において平等であるという思想が生まれるのであるが、そのような荘厳な根幹を、現代、様々な場で叫ばれている「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」とシュプレヒコールする運動家の語気には、あまり感じられない。

 

何も、一方的に自己主張するだけが、これらの言葉の意味なのではない。また関係性を生まないシュプレヒコールは、単なる独善である。その誤った認識の上で「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」という語が叫ばれているのなら、それは歴史的な誤ちを犯している事になるだろう。なぜなら、それらの語と、それに籠められる語気こそは、過去の人間同士の凄まじい蔑み合いと抑圧の裡から、ふつふつと勃興してきた思想であるからだ。

 

これらの総称としての「権利」という発想は、そのまま「個人」という言葉のニュアンスへと受け継ぐものでもある。この「個人」という概念もまた、天上の元に保障され得る「自由」「平等」を前提とした概念である。「自由」「平等」とそれらによって保証される「個人」という発想は、「天上」から庇護されるものである。これらの前提と一緒にあって始めてそれを行使するのが、「人権」という権利なのである。

 

つまり「自由」「平等」、またそれらによって保証される「個人」から行使される人権とは、人間のオリジナルの造作なのではなく、それは人智を超える天上によって創造されたものであるとされる訳である。だからそれらは、人間の見勝手で侵してはならないのである。なぜなら人間とは、これらを管轄する「主」ではないからだ。神の被造物でしかない人間は、これらを行使する権利を与えられているだけである。またこれらの概念こそは、一神教を主体にする極めて西洋的な発想なのである。

 

これら権利の一群であるこの人権という言葉の起源は、中世ヨーロッパにおける階級制の歴史に、その所縁がある。中世ヨーロッパは、階級制が旺盛を誇っていた時代である。そこでは富を持つ者、持たざる者という人間中心的価値尺度が横行していたのだが、中世ヨーロッパの時代では、富を持ち、かつその位が高い者こそが、世界を支配する強者であった。また富を持たない貧者は、人間的な扱いさえもされない有様だった。

 

これら貴族と事実上の奴隷のように、はっきりと階級が分かれていた時代においては、このような人間中心の尺度が横行していたのだ。そしてこのような事態は必然的に、人間界にパワーバランスの乱れを起こす状況を生み出した。

 

そのような状況は、結果的にパワーのある少数の者が、独断の権力を寡占するに至るわけだが、生み出される富の偏重、それに比例するようにより強靭になって行く、少数による寡占的権力が、多数の隷従を生み出した訳だ。まさにこのような地と天を無限に分け隔てて行くような閉鎖的な矛盾の中で、「自由」「平等」「個人」またはそれらによって行使されるべく「基本的人権」は、宣言されるに至ったのだ。

 

しかし、後のフランスなどの人権宣言にみる「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」という語のその濃厚な重みは、単に闘争によって首を勝ち取ったというような對立に集約される訳ではない。そうではなく、そのような基準を遥かに超えて、むしろ一神教に由来する信仰というプリミティブによって、あらゆる根幹を震わす、気迫感を生み出している訳である。それこそ神の根源を感じさせる迫力さえも滲ませている。それらの体験が人権宣言には濃厚に凝縮されているのだ。それは、人間中心的価値観の内に澱んでいた世界の停滞を、天上から射す光によってようやく融解するに至った、歴史的な事件である。

 

むしろそういう体験は、歴史という壮大な潮流を超えた、人間の尊厳を永久に保障するであろう途を照らし導くものだ。「永久に保障されるべき人間の尊厳」という響きは、単に戦勝の末に建てられた凱旋門のようなものではない。これらの言葉は、過去の栄華を讃えるものでは、決してあり得ないのだ。むしろ人間界の支配下にあった「人間の尊厳」というものを、そうではなくて、これを天上の賜物であるとした事、またそれが故に神の被造物に過ぎない人間が、これに無闇な解釈も、また無差別な外傷を加えてはならないとした事に、その功績があるのだ。

 

それは人間中心的な世が犯した、人間の途方も無い傲慢さや周囲を省みぬ姑息な猜疑心を払拭する為のものなのだ。神を省みない人間とは、ただの欲望に忠実な獣物である。そしてそのような罪を綿々と受け継いで来たのが、中世ヨーロッパの世界だったのだ。

 

そして、その永久の尊厳の内に、「個人」が立脚している。個人とは、この永久の尊厳を単に一方的に享受されるだけではなく、その歴史的な重厚感を、今こそ体感し、それを体現し続けなければならない。なぜならば、永久の人間の尊厳は、常に天上の存在を元に、意識し続ける必要があるからだ。紙の文字に記されただけの尊厳など、ただの知識になるだけであって、それが深い体感には成り得ない。声を上げるだけの事なら誰だって出来る。問題なのは、それがいかに歴史の体験を継承し、その史実を忠実に具現化しているかという事だ。

 

それらの理想は、神の信仰の名の下に追行される。神の元に在らぬ尊厳など、全く何も無いに等しいのだ。このように、永久の人間の尊厳を理解する為には、そもそも人間を創り出したのは、人間の領域を遥かに凌駕する超越的存在である、という真理を意識する事である。だからこそ、人間が侵してはならない領域があるとなる訳である。それが神であり、神の元に保証される「平等」「自由」「個人」や、それらを約束する「基本的人権」なのである。それらは「人間が侵してはならない領域」である。よってただの人間は、それらを「行使する権利」を、与えられているだけである。それを被造物である人間は意識し続けなければならない。何故なら、神の眼に晒されない人間とは、リードの無い猛犬と同じ存在だからだ。

 

しかし人間存在の永遠の真理である神の姿は、我々の人智では、決して見る事も触れる事も出来ない。しかし神とはあるものではなく、常に傍に居るものである。だからこそ、常に意識し続ける必要がある訳だ。神は常にこの片隅に居る、だからこそ自戒や畏怖の念が生まれ、猛威を振るおうとする欲望を抑制しようとする訳である。

 

また、見えない遥か遠い存在は、絶えず自身の心の中に居るものだ。まるで逆説的に見えるこのような真実が、むしろ神と人間に交感を生み出すのだ。そう、絶対的で超越的な存在とそれを映す心との交感を。そのような「永久の人間の尊厳」の持つ、うっとりとするような重厚感こそは、人間に純粋な自主性を育ませるだろう。また全知全能なる神に庇護されているという安心感から生じる自信により、人間の核を成す個人がより輝くのだ。しかしそれは、決して過信ではない。

 

それは、永遠に繰り返される歴史を、「主体的」に生きるという事だ。その永遠こそ、神の名の元にある。そしてその視座に畏怖し超越的絶対者を信仰するその心こそが、神の御心なのである。そしてその延長に、「人間の尊厳」は果てしない歴史の潮流と永久に交差し合っている。よってその永遠の流れを汲む「人間の尊厳」というのは、決して紙の上の条約で証印されて、機械的に承認されるものではあり得ない。それは、永久の尊厳を、被造物である人間に賜って下さった神の存在を意識する事によって、個人が自主性を確立し、その天上の導きの下に、主体性を行使するという事なのだ。

 

すべての人間の尊厳は、天上により保障されている。それは他者の行使するあらゆる力や独占によって冒される事はあり得ない。なぜなら「尊厳」という天上の賜物は、人智を遥かに凌駕しているからだ。しかしそれによって意図的に穢され、ある少数の手の内に収める不正を不可能にさせているのだ。

 

このような超越的絶対者を瀆す資格など、人間には持ち合わせていない。だからこそ、すべての人間は、その「尊厳」によって庇護されるのだ。そう、誰にも穢され得ない大きな腕に包まれ、すべての存在が護られている。このような全知全能の絶対者による守護、それこそは、神の寵愛である。

 

このような歴史的な流れに琢磨されてきた、重厚でうっとりするような根幹を意識した上で、現代でも「平等」「自由」「個人」や「基本的人権」の持つ、このような壮大な歴史を敷衍するニュアンスを、どうか大切にして、現実の社会運動に繋げてほしいと思う。