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心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

憲法9条を持つ意義とはなんだろう 〜集団的自衛権と戦闘参加〜

政治

過去の自衛隊については多くの議論がある。その自衛隊についても、過去から現在にかけてそれは善くも悪くも国際社会に貢献してきただろうと思う。現に、9.11同時多発テロ事件を受けて当時のアメリカが報復措置としてアフガニスタンへ侵攻した時、アメリカ軍の後方支援として、その中継ポイントとなるインド洋へ自衛隊による給油派遣を行なった。そしてこれに関して二年間の期限のテロ特措法を適応させた当時の日本政府に対して、間接的な戦争参加だとの批判が一部の官民から挙がり、多くの議論を巻き起こした。そして今、集団的自衛権ついての政府内の議論が起こる事によって、日本の戦争の参加、非参加の是非を問う議論が、国内で盛んに行われている。しかし我が国が、現段階で直接戦闘にこそ参加していない状況があれども、戦闘地域の難民支援などに関わる現在の日本のポジションを考慮すると、それは直接的、間接的な場合も含め、結果的に大域的な戦争に巻き込まれて行くケースが自ずと目立つようになるだろう。それは、単なる戦闘の参加、非参加を表明するのみに終始する訳では無いのだ。またこれからの日本の戦争に対するポジショニングは、ODAなどの戦闘地域への経済支援を政策の一部に掲げているから、これは純粋な平和的関与なのだと表明する事だけでは成り立たないだろう。現在、繰り広げられている中東の問題に関するヨルダンの戦闘地域への難民経済支援が、結果的にIS(Islamic State)への挑発になり、日本人二人の命が惨殺されたように、どのような日本政府のポジショニングも、場合によっては確実に戦闘への直接的な関与を認めざるを得ない状況にある。

 
 
そのような過去の事例を見つめ直しつつ、今回の集団的自衛権についての議論を進めたい所だ。日本国のポジションについては、決して自国の論理で自己完結出来るように、世界情勢から甘受される訳では無い中で、平和的関与といっても異なるポジションの国からは、その良し悪しが如何様にも取られてしまう現代の複雑な戦争の構造も、特に意識にしなければならないだろう。戦争に加担するという事は、平和的関与、直接的関与という純然なる二元論がある訳では無い。日本が戦闘地域に何らかのアクションを起こしたその瞬間にも、日本国の厳然なるポジションが国外からも痛烈に眼差されるだろう。この時、日本国は様々な国から、平和的関与、直接的関与を問わず、アクションの結果としての善悪のレッテルを貼られる事だろう。それは、戦争に関して一元的なスタンスを貫く事が不可能であるという事だ。あらゆる戦況下にある地域にとって、日本国のスタンスが一元化される事は不可能であるのは、集団的自衛権についても、同じ様に扱う必要があると思われる。今繰り広げられているデモや、その趣旨では、戦争への猜疑心を育てる契機にはなりはするだろうが、戦争へ参加するとはどういう事であるのか、また必然的に国際世論に巻き込まれる中で、限り無く逡巡を迫られる相対的なグローバルな視点を、どのように保持可能かという事を議論するのは、不可能であろう。
 
 
しかし、平和憲法を保持し、またそれの扱いの次第では、日本のポジションを一義的に主張する事もまた不可能ではないだろう。ならば現状の日本のスタンスを明確にしつつ、平和憲法を軸に政略を起こす事も可能だろう。それは、平和憲法を死守する事だけに躍起になるのではない。そのような紙の上のみの平和を護る事では決して無く、平和憲法を主張した時の国際世論の動向を見据える事を可能にする為の足掛かりとしての、平和憲法の在り方の議論を展開する必要があるだろう。更にいえば、平和憲法があるだけだからこそ、その国際的な評価を受けるのではない事も忘れてはならない。しかしこれから起ころうとしている事は、新たな大日本帝国の戦争の発動などではなく、集団的自衛権が執行されて、これから日本国の視るべき方角が変化するという事である。過去の第二次世界大戦で、実質的な戦争は終わたという人も居ると思う。しかしそれは違うだろう。まさに今、戦争は様々な利害を生み出しながら、繰り広げられている有り様だ。ただ日本国のみが持つ平和憲法という国際的にも希有な存在が、結果的に現実の戦争に対して他所事のように扱うのなら、このような平和憲法など、有っても無いのと同じだろう。大切なのは、平和憲法を固持(誇示)する事ではなく、実際それで国際世論の動乱に対して、どのような表明を維持可能であるのかという事だろう。つまり平和憲法は、偶像では無く、様々な手段であるべきだ。
 
 
集団的自衛権によって、実際に兵士と化した自衛隊員が銃を持ち、敵と交戦するかもしれない。確かにその可能性はあるし、それは在ってはならないと思う。戦争の当事者になる事と、それの客観的立場に居る事は大きな違いがあるだろう。あくまでも、日本国のポジショニングとては、最小限の平和的関与にのみ主眼を置くべきだと思われる。しかし、その際に日本が保持する平和憲法についての厳格なポジションを明瞭にする必要がある。そしてそれに加えて、様々な戦況へのある特定の関与におけるケースバイケースな想定を加味した議論を、国内だけでなく、国際世論に向けても発信して行く事が、また必要だと思われる。また平和的関与という名目でも、それが中立的ポジションでも、客観的ポジションでも無く、あらゆる関与も間接的な戦争に関係しているという自覚を持つ事も必要だろう。戦闘地域への平和的な経済支援というのは、そのような意義があるのだ。
 
 
またその上で、平和憲法を書いた紙を翳すだけでは、国際世論の同調を得る事も、また現実の戦争に歯止めをかけられる訳でもない。現状の護憲派は、この平和憲法をまるで、水戸黄門の印籠のように翳したいだけのように見える。この印籠こそは、それが通用する範囲においてのみ効能が期待されるのであって、とうの世界がこの日本的スタンダードを共有しているのだと思うのは、全くの間違いだろう。日本国内で通用する慣例が、そのまま全面的に国際的にも応用が効くとは、全く言い切れない。果たして、現状の護憲派シュプレヒコールのように、平和的な憲法を持つ唯一の国として出来る事が、まさに今、戦火の燃える世界に向けて、このように印籠を翳し回る事なのだろうか。