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心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

文化の純粋なオリジナリティは成立するか

その民族のオリジナリティは、他民族からその文化を輸入したものが多く存在する。例えば、日本の文化には、宗教的にはインド仏教学や儒教などの中国思想のような、他文化のオリジナルが多分に影響されて形成されているのが見られる。文化の形成には、他文化からの文化の輸入が必須である。そこで、例えば日本文化の純粋なオリジナリティを考えた時に、このような、多くの異文化のオリジナリティに影響されたその中から、それのみを抽出する事は、一見不可能のように思われる。日本の文化のピュアな部分を抽出する為には、他文化の影響を取り除く作業が必要だが、他文化の構造そのものは、日本の文化の構造の骨格を形成する一部分なので、その部位を取り除く作業は、場合によっては、日本文化そのものの存在の否定に繋がる状況にもなりかねない。

 
 
しかし、日本民族という、確かな指標があるかぎりでは、そのようなある文化そのものの特性は、確かに存在するのであって、ここまで多様な文化が併存しているのは、単純な文化の輸入という反応があるだけではなくて、そこには或るその文化を形成する上でのアイデンティティが、存在するのだろうと推測出来る。もちろん、ここで発生し得る民族性の本質についての議論のポジションを流入する必要があるだろうが、ここで議論したいのは、そのような実態論ではなく、例えば日本国として広く人々に認知されているような、抽象論的な事である。つまり、この話の筋として意識すべきなのは、幅の広い事を含意している抽象的名詞に還元されるべき民族像を示す事であって、それか決して実態論ではなく、例えそれらがどのような形であれ、広く共有されている概念としての抽象論的な民族像に立脚しているという事である。例え日本的民族というのが実態的には幻想だとしても、西洋的、日本的と形容可能な抽象論的な生態は、表現し得るだろう。
 
 
それに民族的アイデンティティとは、個人に還元されるべき個体論ではありえない。何故なら、その自己民族意識は、生まれ出たその瞬間から、周囲からインプットされる環境的作用が大きく依存するからだ。例えば、生まれた瞬間にアメリカ人の親と接したのか、また日本人の親と接したのかでは、その子のその後のアイデンティティの生育に大きな影響が出るだろう。そのような瞬間的な影響も含め、その触れ合いが長期的なスパンになればなる程、その染色の度合いが高まるだろう。それは、しっかりと日本的作法が身についた折から、後になって、アメリカ人へのネイティブな同化を実現す事は、ほぼ不可能であるのと同じ作用である。
 
 
この民族的アイデンティティが、他文化の構造を受け入れる上で、或る一定の仕方で作用しているのであれば、このアイデンティティを探るには、文化の構造の骨格を取り除く作業では、まるで解明されないであろうと思う。では民族の文化のその根底に広がるアイデンティティを見出す為には、どのようなアプローチが存在するのだろう。
 
 
一般的な考えでは、ある文化の形成には、他文化の影響の下にある事が力説される事が多い。例えば、或る対象と対象が比較可能であるとは、その比較する対象同士の共通部分が存在する事が前提とされる。この文化の共通項という概念は、文化そのものを構造化されたものにしてしまうが、この構造こそは、異文化の運動を表現する方程式を記述する方法であって、肉質的な部位を具現化する文化的なアイデンティティを見出す所までには、遠く及ばないのではないか。仮に、文化的な構造の他に、文化的なアイデンティティが、有るのだとすれば、それは、比較文化学が了解しているようなイーブンな関係の構造を探る事だけでは、到底語り尽くせないだろう。
 
 
では、イーブンで結ばれる文化的関係の他には、如何なる方法が存在するだろうか。それは、異文化の本質を差分する事であると謂えるだろう。差分される本質とは、その文化の変遷である。例えばある文化は、他文化に輸出される事で、その輸出元の文化のオリジナリティが、その輸入先の文化の形式にシェイプアップされるだろう。文化のオリジナリティが、このような変遷にこそあるのだとすれば、この作用の結果と、文化的オリジナルとの変分こそが、その民族の持つ文化的アイデンティティなのではないか。つまり文化的アイデンティティとは、比較可能である構造との類似にあるのではなく、構造が変遷するその過程にこそ存在する事が可能であるのだ。