心象風景の窓から

〜広大な言論の世界に、ちょっとの添え物を〜

大きな政府に依存しないための方法小論 〜循環経済は、自分の行動で巡る〜

これからは新自由主義がより先鋭化して行く時代に入ると思われる。その渦中で、社会保障費は、徐々に削られて行き、これからの政府の国家予算案が、経済成長優先の編成に組まれて行く事は、確実である。またこのような流れに抵抗するのも、一つの手段かも知れないが、一人一人が、この巨大な潮流に、ただ呑まれないように、手を繋ぎ合う事も、また必要な事である。政治が信用出来ない、そのような社会では、もはや大きな公的な組織は、意味を無くして行くだろう。相次ぐ民営化の流れも、そのような潮流の内の一つの支流なら、その流れを客観的に読んで、その動力を生かす事も出来るだろう。

 

このような流れもあって、極力政府の力を排した、小さな政府の役割が必須になるだろう。それは、新たに創られるものなのではなく、自然な流れの中の現象であると解せなければならない。小さな政府という状態では、内閣政府が取り仕切る社会福祉という形はもはやなく、民間の人々が手を取り合う事で、政府に極力頼らない自助的な援助の形が確立出来るという利点を持つ。

 

これからの時代において、政府が社会福祉を完備する時代は、終わりを告げる事になるだろう。その編み目のより荒くなって行くセーフティーネットから零れて行くのを防ぐのは、もはや大きな政府ではあり得ない。そんな経済成長の混迷の時代の日本において、その傾向が新自由主義に傾いて行くのは、まことに理に適った現象であると思われる。そんな政治情勢の中で、これまでの社会福祉というあり方は解体されていくだろう。これからは、政府が社会福祉によって人を救うのではなく、隣の友人が、その困っている別の友人を助けなければならない時代が来るだろう。

 

そういう時代の流れを観れば、これまでの社会福祉は、必然的に部分的な解体を迫られ、その形態は社会的援助から「個人的自助」の時代に入る事を意味している。そうなればお金に余裕のある人が、困窮者に、その持ち前を分け与える寄付の文化も根付いて来なければならない。しかし、そのような寄付は、大きな政府がその拠り所になるのではなく、個人がどのように行動するのかという事が関わってくる訳だ。困窮者を救うには、富を持つ個人の資質に関わってくる。富を持つ者は、別に個人投資家である必要はない。わずかの余裕を、友人の困窮のために使えるのかという資質は、あらゆる人にも必要とされるものだ。

 

個人的自助に変遷していく社会は、社会の縮小なのではなく、むしろ、自分が一体何が出来て、何を行動するのかを問われる社会だ。しかしそれは、決して必ずゼロから行動出来なくてもよく、他者からの寄付によって、いつか自分に余裕が生まれた時に、別の行動に移せばいい。俗にいう循環型経済というのも、それが政府が主導して発生する単独の概念なのではない。経済を循環させるのは、アダム・スミス流の「見えざる手」や、政府の掲げる政策、マニフェスト云々なのでもない。あくまでもその発端は自分の意思のポテンシャルに大きく作用されるだろう。そのような来たる新たな循環型経済の仕組みは、一方的な他力本願で成り立つのでは決してありえない。まさに今、大きな政府が法整備化してから社会構造が始動する時代は、終わりを迎えようとしている。その構造の転換期に始まろうとしている循環型経済こそは、自らの意思行動によって、まさに、初めて巡るものなのだという自覚が必要だ。